71-1 新学期
春休みが明けた。
校舎の三階に上がろうとして、俺は足を止める。
危ない危ない。三階は、二年生の教室だ。三年生になった俺の教室は、二階である。
このミス、何度か繰り返すんだろうな。
踵を返して、新たな教室へと向かう。そこには、見慣れた面々がいた。
「おはよ、凛太郎」
「おう」
雪緒と挨拶をかわし、俺は自分の席を探す。
年度の頭は、基本的に出席番号順に並んでいるはず。
俺の席は、一番後ろだった。普通は喜ぶのだろうが、授業だけは真面目に受けている俺にとって、黒板が遠いのはデメリットでしかない。
がっかりしながら席に着くと、隣から「あ」と声がした。
まさかと思い顔を上げると、隣の席に、玲が座っていた。
「お隣は乙咲さんか。よろしくね」
「う、うん。よろしく」
不自然さが出ないよう挨拶したのに、玲は慌てた様子で、俺から目を逸らす。
関係を隠すためとはいえ、ここまで露骨だと、怪しまれないにしろ変に勘繰られそうだ。
幸いなことに、今のところ俺たちに注目している者はいないようだが。
それにしてもこいつ、本当に演技が下手だな。
「おっすー! お、凛太郎!」
後ろの扉が開き、でかい声と共に竜二が入ってきた。
その隣には、いつも通り祐介の姿もある。
「また一年よろしく、凛太郎」
「ああ、こちらこそ」
相変わらずの爽やかイケメンスマイルに、目が焼かれそうになる。
彼女がいる現在でも、祐介を狙う女子はそこら中にいるらしい。
ただ、脈がなくても、こいつは一途に二階堂を想い続けた男だ。今更他の女子に揺らぐとは思えない。
「凛太郎……三年になった俺はひと味違うぜ。馬鹿はもう卒業だ!」
竜二は大きく腕を広げ、浸っている様子で天を仰いだ。
馬鹿は卒業と言っておきながら、行動は馬鹿そのものである。
こいつはこいつで、野木と同じ大学に行くために、今年は勉強漬けらしい。
もともとの学力を考えると、険しい道が待っていることは間違いない。
だが、こいつには根性がある。なんだかんだ成し遂げるという確信に近い予感があった。
「凛太郎も一緒に頑張ろうぜ! 目指せ! 花の大学生活!」
「ああ、そうだな」
竜二の熱意に若干押され気味の俺だが、共に励まし合える友達がいるというのは、とても頼もしい。いわば戦友というやつだろうか?
捻くれ者な俺に、こんないい友達ができたことが、いまだに信じられない。
とはいえ、せっかくの縁だ。大切にしなければ罰が当たる。
竜二と祐介が話している間に、俺は横目で玲を盗み見る。
こいつらだけじゃない。雪緒や、玲たちとの縁だって、大切にしないとな。
始業式が終わり、下校の時刻になった。
新学期早々、部活に精を出す者、そそくさと帰宅していく者、放課後の過ごし方は人それぞれ。
無論、俺は直帰勢だ。今日は豚の角煮を仕込むために、さっさと帰りたい。
鞄を背負い、さあ帰ろうといったところで、廊下に人ごみができていることに気づいた。
「おいおい、どうなってんだ……?」
「乙咲さん目的だよ。去年もそうだったでしょ?」
同じく帰り支度を終えた雪緒が、呆れた様子で言った。
そういえば二年生に上がったときも、玲をひと目見ようとする新入生が押し寄せ、騒ぎになっていた気がする。トップアイドルを間近でお目にかかれる滅多にない機会だし、気持ちは分からないでもない。ただ、それで困る者も多いわけで。
控えめな女子たちは、退いてほしいとも言えずに、扉の近くで立ち往生している。
そして、注目の的である玲は、眉尻を下げて困った様子だった。
この状況をどう切り抜けようか考えているのだろう。まあ、いずれ先生が来て、彼らも解散するだろうが――――。
「……いちいちそれを待つのもな」
「え?」
俺は鞄を背負い直し、人ごみに近づいていく。
「悪い、ここに集まらないでくれ」
「あ、ごめんなさい!」
一番先頭にいた男子に声をかけると、集まった一年生たちは、人が通れるだけの空間を空けてくれた。よし、これなら通れるはずだ。
「ほら、こっち空いたから通りな」
「――――あ、うん!」
女子たちを先導して、人ごみを抜ける。
振り返ると、彼女たちは俺を見ながらポカンとしていた。
「大丈夫?」
「あ、ありがとう、志藤君」
「気にしないで。俺も通りたかっただけだから」
彼女らはぺこりと頭を下げ、立ち去った。
大したことはしていないが、助けになったようでよかった。
ホッとしていると、うしろから肩を叩かれた。
「すごいじゃん、凛太郎。一躍ヒーローだよ」
「よせよ。ただ教室から出ただけで――――」
振り返ると、そこには雪緒と、玲の姿があった。
まさかいるとは思わず、俺は思わず目を見開く。
「お前……どうやって教室から?」
「みんな凛太郎に注目していた。だから稲葉君に隠れ蓑になってもらって、気配を消して出てきた」
「そんな忍者みたいな……」
俺が困惑していると、雪緒が興奮した様子で詰め寄ってきた。
「本当にすごいんだよ⁉ 乙咲さんの隠密術! みんな全然気づかなかったんだから!」
「いやいや、そんなわけ――――」
否定した途端、玲の目がスッと細くなり、気配が消えた。
そうとしか言いようがないのだ。視界の中にはいるのだが、すごく遠くにいるような気がするというか。目の前にいると思えないというか。
「知名度が上がってきて、変装だけじゃ不十分かもしれないから、練習した。私も日々成長してる」
「いやそれ、絶対変な方向に成長してるって」
「まあまあ、とりあえず抜け出せたんだからいいじゃない! ここにいたら、また人が集まって来ちゃうかもしれないよ?」
雪緒の言う通りだ。
これにて一件落着。予定通り、今日のところは早く帰ろう。
「私は仕事があるから、またあとでね」
「おう。夕飯は豚の角煮だぞ」
「角煮……! 楽しみ」
一瞬はしゃいだあと、玲は再び気配を消して、廊下の向こうへ消えていく。
誰にも声をかけられず、スイスイと廊下を進んでいく姿は、少しシュールだった。
あいつ、トップアイドル通り越して、仙人みたいになっちまったな。
それにしても、気配を消す練習とは一体何をするのだろうか? 修業みたいで、ちょっとかっこいい……なんて思ってしまった自分が恥ずかしい。
「僕らも帰ろ?」
「あ、ああ」
そのとき、俺たちのそばを、ひとりの女子生徒が通り過ぎた。
上履きの色からして、一年生だ。赤みを帯びた茶髪のハーフツインに、整った顔立ちとスタイル。間違いなく、この学校でも群を抜いて目立つ容姿をしている。
妙なことに、どこかで見たことがある気がする。一年生と顔を合わせる機会なんて、今日まで一切なかったはずなのに――――。
「どうかした?」
「……いや、なんでもない」
まあ、気のせいだろう。




