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俺たちの部屋のフロアには、無料で利用できる軽食スペースがあった。
ここにあるお菓子や飲み物は、自由に持っていっていいそうだ。
それを聞いて、彼女たちの目の色が変わる。こいつらが食い尽くしてしまわないよう、見張っておかないとな。
一階には、大浴場やレストランがあった。
「はぁ、たまには大浴場でのんびりしたいわよねぇ」
大浴場へ続く通路の前で、カノンがボソッと呟いた。
「そうか、変装できないもんな」
「そうなのよ。だから客室露天があって助かったわ」
嬉しそうなカノンが、軽く肩をぶつけてきた。
気に入ってもらえたようで何よりである。ただ、俺は昨日ミアにからかわれたせいで、ゆっくりできるか怪しいもんだが。
「このあとどうしようか? ご飯の時間って、十九時半だったよね?」
「ああ。……まだ二時間以上あるな」
今日の夕飯は、ホテル併設の天ぷら屋で食べることになっている。
部屋でダラダラするのもいいが、せっかく旅行に来たのだから、できるだけ色々なところを回りたい。
「近くのカフェ、かなりコーヒーにこだわってるみたいよ? あんた興味あるんじゃない?」
カノンが、スマホの画面を見せながら言った。
俺の目の色が変わったことに気づいたようで、彼女たちは呆れたような笑みを浮かべた。
カフェは、強羅駅のすぐそばにあった。
古民家をリノベーションしているようで、暗い木材を基調としたナチュラルデザインは、温かみとシックさを兼ね備えている。
店内はそこまで広くないが、客足はそこそこで、四人ならすぐにでも入れそうだ。
「レトロっぽくてかわいいね」
ミアが、テーブルに置かれた陶器の小さい猫を指でつつく。
壁にかかったドライフラワーや、棚一面に飾られたコーヒーカップ。
カウンターの向こうには、電動ミルやドリッパー、エスプレッソマシンなどが並んでいる。
店内に流れるジャズ調のBGMは、落ち着いた空間を作り出す名脇役になっていた。
「ね、ねぇ、なんか呪文にしか見えないんだけど⁉」
メニューを広げながら、カノンが慌てている。
ドリンクのメニューには、様々なコーヒーの銘柄が書いてあった。確かに、多少コーヒーについて知らないと、呪文と思うのも無理はない。
「分からないときは、とりあえずブレンドって言っとけ。その店の味が楽しめるから」
「なるほどね! いいこと聞いたわ!」
というわけで、俺たちは四人そろってブレンドのホットを頼んだ。
それに加えて、三人はベーコン、トマト、レタス、卵が入ったホットサンドを頼む。
これから夕飯だというのに、よく食べる気になるものだ。
店内BGMに混ざって、電動ミルが豆を挽く音が聞こえてくる。
そして、ドリップされたブレンドコーヒーが、ホットサンドと共に俺たちの前に運ばれてきた。
早速カップに口をつけると、香ばしさと奥深い苦味がいっぱいに広がった。
その中に感じる、ほのかな酸味と、フルーティーな風味。俺が家で淹れるコーヒーとは、比べものにならない美味しさだ。
レジで、ブレンドの豆を買えるそうだ。絶対に買っていこう。
「凛太郎、ほんとにホットサンドいらないの? お腹空くわよ?」
対面に座っているカノンが、心配そうに俺を見つめている。
そんなふうに心配されても、あれだけ食ったあとで、腹が空くはずがないのだ。
「全部お前らで食っていいよ。俺はまだ大丈夫だから」
「じゃ、じゃあ……せめてひと口だけでも食べなさいよ」
そう言って、カノンは食べかけのホットサンドを俺に差し出してきた。
「あーん」
「だから、いらねえって……!」
俺が後ろに椅子を引くと、今度は横からホットサンドが伸びてきた。
「そうだよ。せっかく来たんだから、ひと口くらい食べたっていいじゃないか。ほら、ボクのをあげるから」
「何言ってんのよ! あたしのホットサンドのほうがいいでしょ⁉」
「どっちも同じ味なんだから、近いボクのやつでいいじゃないか。ね、凛太郎君」
「あたしのやつが食べたいわよね⁉ 凛太郎!」
何故こんなところでまで詰め寄られなければならないのだ。
俺は助けを求めて、玲を見る。玲は、何もない手元を見て、残念そうにしている。
どうやら、先にすべて食べてしまったせいで、このじゃれ合いに参加できないことを悔やんでいるようだ。その様子は、まるで捨てられた子犬のようで、ひどく可哀想だが、どこか可愛くもあった。
カフェを出て、しばらく散歩していると、いつの間にか夕食の時間になっていた。
予約している天ぷら屋は高級店らしいが、その夕食代も旅行券の中に含まれている。太っ腹すぎて、申し訳ないくらいだ。
店内はこぢんまりとしており、暖色のライトが、木を基調とした店内を淡く照らし、高級感を演出していた。
カウンターの内側には、顔に濃い皴が刻まれた板前さんがいて、見惚れるほどの包丁さばきで魚を捌いている。どうやら目の前で揚げてくれるようで、大きな天ぷら鍋が見える位置にあった。
席に案内されてすぐに、予約通りのコースが始まった。
俺たちの前に、カラッと揚げた海苔と、その上にウニを載せた前菜が置かれる。
海苔の部分を手で掴み、口に運ぶ。刹那、殴られたかと錯覚するほどの衝撃を受け、俺は目を見開く。新鮮なウニはまったく臭みがなく、口に入れた瞬間にふわりと溶けた。海苔は上質な油をほどよく吸っており、パリッとした食感のあとに、じわっと甘い油が染み出てくる。
これが口の中で混ざり合い、見事に調和している。
「び、びっくりしちゃった……」
隣に座るミアの手が、わずかに震えている。
いつの間にか、俺の手も同じように震えていた。
そして、幸せの時間は、まだまだこれからだった。
海老天、舞茸、うなぎ、茄子、さつまいも、いわし、ズッキーニ――――。
どれも食べたことがある食材なのに、まるで初めて食べたかのような衝撃が走る。
家で揚げるのとはわけが違う。ここには、職人による技があった。
「こちら、〝香茸〟になります」
板前さんの手によって、新たな天ぷらが置かれた。
その瞬間、嗅いだことのない独特な匂いが、鼻腔を通り抜けた。
「天然でしか摂れない大変貴重なきのこで、香り、値段共に、松茸を遥かに凌ぐといわれています。どうぞ、軽く塩をつけてお楽しみください」
板前さんに言われた通り、軽く塩をつけてから、口に運ぶ。
口の中で起きた、すべてを弾き飛ばしてしまうほどの香りの爆発。松茸が秋の味覚の王様と呼ばれるなら、香茸は、香りの神様と言っても差し支えない。
俺はこの香りを、生涯忘れることはないだろう。




