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70-3

 俺たちの部屋のフロアには、無料で利用できる軽食スペースがあった。

 ここにあるお菓子や飲み物は、自由に持っていっていいそうだ。

 それを聞いて、彼女たちの目の色が変わる。こいつらが食い尽くしてしまわないよう、見張っておかないとな。

 一階には、大浴場やレストランがあった。


「はぁ、たまには大浴場でのんびりしたいわよねぇ」


 大浴場へ続く通路の前で、カノンがボソッと呟いた。


「そうか、変装できないもんな」

「そうなのよ。だから客室露天があって助かったわ」


 嬉しそうなカノンが、軽く肩をぶつけてきた。

 気に入ってもらえたようで何よりである。ただ、俺は昨日ミアにからかわれたせいで、ゆっくりできるか怪しいもんだが。


「このあとどうしようか? ご飯の時間って、十九時半だったよね?」

「ああ。……まだ二時間以上あるな」


 今日の夕飯は、ホテル併設の天ぷら屋で食べることになっている。

 部屋でダラダラするのもいいが、せっかく旅行に来たのだから、できるだけ色々なところを回りたい。


「近くのカフェ、かなりコーヒーにこだわってるみたいよ? あんた興味あるんじゃない?」


 カノンが、スマホの画面を見せながら言った。

 俺の目の色が変わったことに気づいたようで、彼女たちは呆れたような笑みを浮かべた。



 カフェは、強羅駅のすぐそばにあった。

 古民家をリノベーションしているようで、暗い木材を基調としたナチュラルデザインは、温かみとシックさを兼ね備えている。

 店内はそこまで広くないが、客足はそこそこで、四人ならすぐにでも入れそうだ。


「レトロっぽくてかわいいね」


 ミアが、テーブルに置かれた陶器の小さい猫を指でつつく。

 壁にかかったドライフラワーや、棚一面に飾られたコーヒーカップ。

 カウンターの向こうには、電動ミルやドリッパー、エスプレッソマシンなどが並んでいる。

 店内に流れるジャズ調のBGMは、落ち着いた空間を作り出す名脇役になっていた。


「ね、ねぇ、なんか呪文にしか見えないんだけど⁉」


 メニューを広げながら、カノンが慌てている。

 ドリンクのメニューには、様々なコーヒーの銘柄が書いてあった。確かに、多少コーヒーについて知らないと、呪文と思うのも無理はない。


「分からないときは、とりあえずブレンドって言っとけ。その店の味が楽しめるから」

「なるほどね! いいこと聞いたわ!」


 というわけで、俺たちは四人そろってブレンドのホットを頼んだ。

 それに加えて、三人はベーコン、トマト、レタス、卵が入ったホットサンドを頼む。

 これから夕飯だというのに、よく食べる気になるものだ。

 店内BGMに混ざって、電動ミルが豆を挽く音が聞こえてくる。

 そして、ドリップされたブレンドコーヒーが、ホットサンドと共に俺たちの前に運ばれてきた。

 早速カップに口をつけると、香ばしさと奥深い苦味がいっぱいに広がった。

 その中に感じる、ほのかな酸味と、フルーティーな風味。俺が家で淹れるコーヒーとは、比べものにならない美味しさだ。

 レジで、ブレンドの豆を買えるそうだ。絶対に買っていこう。


「凛太郎、ほんとにホットサンドいらないの? お腹空くわよ?」


 対面に座っているカノンが、心配そうに俺を見つめている。

 そんなふうに心配されても、あれだけ食ったあとで、腹が空くはずがないのだ。


「全部お前らで食っていいよ。俺はまだ大丈夫だから」

「じゃ、じゃあ……せめてひと口だけでも食べなさいよ」


 そう言って、カノンは食べかけのホットサンドを俺に差し出してきた。


「あーん」

「だから、いらねえって……!」


 俺が後ろに椅子を引くと、今度は横からホットサンドが伸びてきた。


「そうだよ。せっかく来たんだから、ひと口くらい食べたっていいじゃないか。ほら、ボクのをあげるから」

「何言ってんのよ! あたしのホットサンドのほうがいいでしょ⁉」

「どっちも同じ味なんだから、近いボクのやつでいいじゃないか。ね、凛太郎君」

「あたしのやつが食べたいわよね⁉ 凛太郎!」


 何故こんなところでまで詰め寄られなければならないのだ。

 俺は助けを求めて、玲を見る。玲は、何もない手元を見て、残念そうにしている。

 どうやら、先にすべて食べてしまったせいで、このじゃれ合いに参加できないことを悔やんでいるようだ。その様子は、まるで捨てられた子犬のようで、ひどく可哀想だが、どこか可愛くもあった。

 

 

 カフェを出て、しばらく散歩していると、いつの間にか夕食の時間になっていた。

 予約している天ぷら屋は高級店らしいが、その夕食代も旅行券の中に含まれている。太っ腹すぎて、申し訳ないくらいだ。

 店内はこぢんまりとしており、暖色のライトが、木を基調とした店内を淡く照らし、高級感を演出していた。

 カウンターの内側には、顔に濃い皴が刻まれた板前さんがいて、見惚れるほどの包丁さばきで魚を捌いている。どうやら目の前で揚げてくれるようで、大きな天ぷら鍋が見える位置にあった。

 席に案内されてすぐに、予約通りのコースが始まった。

 俺たちの前に、カラッと揚げた海苔と、その上にウニを載せた前菜が置かれる。

 海苔の部分を手で掴み、口に運ぶ。刹那、殴られたかと錯覚するほどの衝撃を受け、俺は目を見開く。新鮮なウニはまったく臭みがなく、口に入れた瞬間にふわりと溶けた。海苔は上質な油をほどよく吸っており、パリッとした食感のあとに、じわっと甘い油が染み出てくる。

 これが口の中で混ざり合い、見事に調和している。


「び、びっくりしちゃった……」


 隣に座るミアの手が、わずかに震えている。

 いつの間にか、俺の手も同じように震えていた。

 そして、幸せの時間は、まだまだこれからだった。

 海老天、舞茸、うなぎ、茄子、さつまいも、いわし、ズッキーニ――――。

 どれも食べたことがある食材なのに、まるで初めて食べたかのような衝撃が走る。

 家で揚げるのとはわけが違う。ここには、職人による技があった。


「こちら、〝香茸(こうたけ)〟になります」


 板前さんの手によって、新たな天ぷらが置かれた。

 その瞬間、嗅いだことのない独特な匂いが、鼻腔を通り抜けた。


「天然でしか摂れない大変貴重なきのこで、香り、値段共に、松茸を遥かに凌ぐといわれています。どうぞ、軽く塩をつけてお楽しみください」


 板前さんに言われた通り、軽く塩をつけてから、口に運ぶ。

 口の中で起きた、すべてを弾き飛ばしてしまうほどの香りの爆発。松茸が秋の味覚の王様と呼ばれるなら、香茸は、香りの神様と言っても差し支えない。

 俺はこの香りを、生涯忘れることはないだろう。


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