69-2
「ふわぁ……眠かったねぇ」
教室に戻った途端、前の席に座る雪緒が、大きなあくびをした。
「珍しいな、お前が眠そうにしてるの」
「いくらなんでも、こんなポカポカ陽気には勝てないよ……ふわぁ」
雪緒が再び大きなあくびをする。
やけにあざといその仕草に、一部の男子と女子の視線が吸い寄せられているのだが、本人はまったく気づかず、涙が滲んだ目をこすっている。
「これで二年生も終わりだっていうのに、なんか締まらないね」
「まったくだ。実感も湧かねぇし」
「しかも、春休みが明けたら受験生になるなんて、ちょっと信じられないかも」
俺は深く頷いた。
一年生のときと比べて、この一年はやけに早く感じた。玲たちと関わるようになって、とにかく忙しい日々を送っていたのは間違いないが、その苦労を忘れてしまうくらい、充実した日々でもあった。
それもあって、自分が三年生になることが、にわかに信じられない。
しかしながら、現実は現実。逃避したって意味はない。
「凛太郎は、短大を受けるんだよね?」
「ああ。まずは栄養士の資格が欲しいからな」
二年で短大を卒業し、そのあとはどこかの飲食店で二年間働く。そして調理師免許を取ることが、俺の目標だ。
「短大はいくつか目星つけてんだけど、どこも入試は難しくないみたいだから、空いた時間は料理の勉強に充てようと思ってる」
「えー、参ったなぁ」
「なんだよ」
「これ以上凛太郎の料理がレベルアップしたら、毎日食べたくなっちゃうよ」
不安そうな顔をしている雪緒に、俺は思わず笑みがこぼれる。
「お前にならいつでも作ってやるよ。なんたって、俺の飯を初めて食ってくれたのは、お前だもんな」
俺が自炊するようになってから、玲たちと今の関係になるまでの間、俺が料理を振る舞ったのは、雪緒だけだ。
初めは大したものも作れず、焦がしたり、塩っ辛くなってしまったことも多々あったが、それでも雪緒は嬉しそうに食べてくれた。あのときの恩を返せるなら、俺はいくらでも雪緒のために料理を作る。
「そ、そんなこと言われたら、本当に通っちゃうよ⁉ いいの⁉」
「お、おう。別にいいよ」
俺が頷くと、雪緒は目尻を下げた。
「えへへ……ありがとう、凛太郎」
「んだよ、照れ臭ぇな」
俺は唇を尖らせ、そっぽを向いた。
「てか、お前のほうはどうなんだ? 勉強、上手くやってるか?」
「うん。まあ、いつも通りかな」
俺も受験勉強は必要だが、難関大学を目指す雪緒と比べれば、その過酷さは天と地ほどの差がある。
もともと成績優秀で、コツコツ積み重ねるのが得意なこいつでも、一筋縄ではいかないだろう。
そんなとき、俺が少しでも支えになれるなら、友達冥利に尽きるってものだ。
「ま、お前のことだから、全然心配してねぇけどさ。しんどくなったら、いつでも頼ってくれよ」
「……うん。そのときは、遠慮なく頼らせてもらうね」
そう言って、雪緒は安心したような笑みを浮かべた。
学校が終わり、俺は実家の最寄り駅まで戻ってきた。
これから、明日の旅行に向けて、あいつらと買い物をする。
当然だが、玲とは一緒に学校を出ないようにしている。今頃、どこかで変装して、こっちに向かっているはずだ。
「やあ、凛太郎君」
顔を上げると、そこには見知らぬ女が立っていた。
なんて、すでに三人の変装に見慣れている俺は、彼女がミアだとすぐに分かった。
俺は暇つぶしに眺めていたスマホを、ポケットにしまう。
「早かったな」
「君と二人きりの時間がほしくて、つい急いじゃった」
そう言って、ミアは慣れた様子でウインクした。
こいつは本当に、俺のことをからかうのが好きらしい。
「ふふっ、どうだろう。少しは照れたかな?」
「残念だったな。散々からかわれて、こっちも耐性がついてきてんだよ」
「なるほど、それは手強いね」
口元を押さえ、ミアは楽しそうに笑う。
「なら、これはどうかな?」
ミアは俺の腕を取ると、抱きかかえるように密着してきた。
甘酸っぱい、シトラスのような香りが、鼻腔をくすぐる。
こうなると、俺は赤面せざるを得ない。
「おやおや、この攻撃はさすがに通じるみたいだね」
「お前にくっつかれて、照れないやつなんているか?」
「それは暗にボクが魅力的だって言いたいのかな?」
「ずっとそう言ってんだろうが」
俺がぶっきらぼうに答えると、ミアはスッと離れていった。
「な、なるほどなるほど。まあ、今日のところは許してあげるよ」
「お前のその打たれ弱さはなんなの?」
いくらなんでも反撃に弱すぎると思うのだが。
「あ、先を越された」
そんな言葉と共に現れたのは、ミアと同じく変装した玲だった。
玲は、俺とミアを交互に見て、唇を尖らせる。
「思いのほか早かったね。もう少し凛太郎君と二人の時間を過ごせると思ったのに」
「嫌な予感がしたから、ちょっと急いだ」
「さすが、勘が鋭いね」
玲は、額の汗をハンカチで拭きながら、わずかに乱れた息を整えた。
「カノンは?」
「まだ来てねぇな」
辺りを見回すと、こっちに向かって走ってくる小柄な人影が見えた。
変装はしているが、あれは間違いなくカノンだ。
「お、お待たせぇ……」
カノンは、膝に手をついて、荒い呼吸を整え始めた。
額に浮かんだ汗は、玲よりも多い。
カノンの学校の最寄り駅は、今俺たちがいる駅から一番遠い。それでも、俺たちと大差ない時間に到着したということは、相当急いで来たのだろう。
「そんなに急がなくてもよかったのに、どうしたんだ?」
「わ、ワンチャン一番乗りできるかなって……」
息も絶え絶えな様子で、カノンはそう答えた。
「ふふっ、考えることは一緒だね」
「ん」
分かったような顔をしているミアと玲が、コクコクと頷いている。
何も分からない俺は、ただ首を傾げた。
「ごめん、もう大丈夫よ」
買ってきた水を豪快に飲み干したカノンは、気合いの入った顔をしてみせた。
「なんでそんなに張り切ってんだよ。ただの買い物だろ?」
「分かってないわねぇ。女子の買い物を舐めてるでしょ?」
「いや、買い物は買い物だろうが……」
俺が訝しんでいると、ミアがチッチッチと指を動かした。
「ボクらにとって、買い物は戦と一緒なんだ。なんたって、君が気に入るものを選び抜かないといけないんだから」
「いやいや、好きなもん着ればいいじゃねぇか」
「君が気に入る服が、ボクらにとっての〝着たい服〟なんだよ」
ミアの隣で、カノンと玲が頷いている。
そんなことを言われても、こっちとしては反応に困るのだが……。
「まあまあ、あんたは忌憚なき意見を言ってくれたらいいから! ほら、行くわよ!」
「おー」
気の抜けた返事をする玲を連れて、カノンが店の中に入っていく。
俺が困惑していると、ミアに肩を叩かれ、うざったらしいサムズアップを見せられた。
「そういうこと。早く行かないと置いていかれちゃうよ?」
「……はいはい」
ため息と共に、俺はカノンたちを追いかけた。
やはり、女子の考えることはよく分からん。




