表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
233/280

65-3

 翌日。

 俺は玲たちに気づかれないよう細心の注意を払いながら、エクレアを持って家を出た。 

 キッチンは俺のテリトリーと認識しているためか、玲たちはあまりキッチンを漁らない。

 おかげで、昨晩も気づかれてはいないようだった。

 仮に気づかれていたら、確実に食べたいと言い出していたはずだから、まず間違いない。

 教室に入ると、先に来ていた玲が、女子に囲まれていた。

 キャッキャと楽しげに話している彼女たちを、男子たちがチラチラと見ていた。

バレンタインがまた一日近づいたことで、彼らの飢えに拍車がかかっているようだ。


「乙咲さん、元気になったみたいだね」


 前の席にいる雪緒が、安心した様子で言った。


「お前のアドバイスのおかげだよ」

「あ、できた? マッサージ」

「ああ、なんとかな」

「役に立ったみたいでよかったよ」


 雪緒は笑みを浮かべ、うんうんと頷いた。


「その礼と言っちゃなんだが、バレンタイン用の菓子の試作品を作ってみたんだ。味見してくれねぇか?」

「え、いいの⁉」

「もちろん。俺的には、結構いけると思うんだが……」


 保冷バッグに入れていたエクレアを取り出し、こっそり雪緒に渡す。

 クラスメイトが壁になって見えていないとは思うが、一応玲に見られないよう注意した。 


「いただきますっ」


 雪緒がエクレアを頬張る。

 途端に、パッと目を見開いた。


「お、美味しい! お店のやつみたい!」

「よかった。やっぱり問題なさそうだな」


 糖分補給もかねて、俺も食べておく。

 残りは、昼休みに祐介たちに食べてもらおう。

 それでも余った分は、優月先生のところにでも持っていくか。


「――――乙咲さんは、バレンタインどうするの?」


 ふと、玲の周りからそんな声が聞こえてきた。

 男子たちの雰囲気が、一瞬にして変わる。無駄話をやめ、女子たちの会話に耳を澄ませているようだ。欲望に忠実すぎて、まるで犬を見ている気分になった。


「……特には考えてない」

「えー、そうなんだぁ。あ、でも乙咲さんがチョコ持ってきたら、戦争になっちゃうもんね」

「それは大袈裟」


 いや、決して大袈裟などではない。

 仮に、玲がチョコを持ってきたとして、それを受け取った男子は、他の男子から袋叩きに合うだろう。きっと、多くの血が流れるに違いない。


「……もらえるとしたら、凛太郎だけなんじゃないかな」

「え?」


 俺が驚いていると、雪緒はニヤリと笑った。


「ボクが乙咲さんの立場なら、用意するだろうなーって思ったの」

「う、うーん……でも、あいつが料理できるとは――――」


 いや、待て。

 俺はマッサージ中に、玲がしてきた質問を思い出す。

 あれはやっぱり、バレンタインの準備のため?

 よく考えたら、必ずしも手作りである必要はないわけで。

 玲が準備してくれている可能性は、十分あるのではないだろうか。

 もしかすると、玲だけではなく、カノンもミアも用意してくれるなんてことがあるかもしれない。


「もしかして、心当たりがある感じ?」

「まあ、な」


――――これで違ったら、めちゃくちゃ恥ずかしいな……。


 違ったときのことを考えて、あまり期待しないでおこう。

 


 放課後、俺は優月先生の職場に向かった。

 前に頼まれていた、修羅場のヘルプに入るためだ。


「お疲れ様でーす……」


 仕事場のマンションに到着した俺は、声をかけながら中に入る。

 すると、部屋の奥から、ゾンビのうめき声のようなものが聞こえてきた。


「り……りん……た、ろう……」

「うわぁ……」


 床を這うようにして現れたのは、顔を土気色にしたゾンビ――――ではなく、大人気漫画家の優月一三子先生だった。

 額には熱さまシート。目の下には、特殊メイクかと思うくらい濃い隈。

 幾度となく修羅場を乗り越えてきた優月先生だが、ここまで疲れている姿を見せるのは、なかなかないことだ。


「いぞがじいのに、ごめんね」

「いや、優月先生ほどじゃ……。あ、これ差し入れです。アシスタントの人たちにも」

「ありがどお」


 余ったエクレアを渡すと、優月先生は力なく笑った。


「私も歳かなぁ……二徹くらいでへばっちゃって」

「優月先生はまだまだ若いですし、普通の人間は一日徹夜しただけでヘロヘロになりますよ」

「えへへぇ~……凛太郎は優しいねぇ」

「何からやればいいですか?」

「ベタ塗り。とにかくベタ塗り」

「了解です。いつも通りってことですね」

「そゆこと。おーいみんなー、凛太郎が差し入れ持ってきてくれたわよー」


 優月先生が声をかけると、同じく顔を土気色にしたアシスタントさんたちが、俺に向かって頭を下げた。


「てか、これエクレアよね? もしかして、手作り?」

「バレンタイン用の試作品です。と言っても、味には自信があります」

「手作りなんて最高すぎ……! ほんとにありがとねぇ」

「気にしないでください。それより、コーヒーいる方いますか? 先に淹れようと思うんですけど」


 そう訊くと、この場にいる全員が真っ直ぐ手を挙げた。


「了解です」


 こんな過酷な現場でも、何故かアシスタントの入れ替わりは激しくない。

 ここにいる人たちの味の好みをすべて把握している俺は、すぐに全員分のコーヒーを用意する。

 俺にできることなんて限られているのに、それでも力を借りたいということは、この職場が修羅場のピークを迎えている証拠。

 せめて猫の手以上の活躍はできるよう、気合いを入れて頑張るとしよう。


――――仕事が終わったのは、それから六時間後のことだった。


 手の痛みで、俺の集中がぴたりと途切れる。

 ここに来たのが十六時くらい。今は二十二時を過ぎたところ。

 約六時間、優月先生の指示に従いながら、俺は何枚もの原稿をベタ塗りし、トーンなどを張りつけた。

 俺が役に立ったのかどうかはいまいち分からないが、何はともあれ……。


――――これが最後の一ページ……。


 指示書に従い、トーンを張りつけた。


「お、終わったぁ~~!」


 優月先生の歓喜の声が響く。

 その途端、アシスタントさんたちが、一斉に崩れ落ちた。

 今まで限界を超えて働き続けていたんだし、当然か。


「ごめんね、凛太郎。こんな時間まで付き合わせて」

「いえ……役に立ちました?」

「そりゃもう、救世主って感じだったわ」

「ならよかったです」

「後始末はやっておくから、凛太郎はあの子たちのところに帰ってあげて」

「本当に大丈夫ですか? 片付けくらいなら、今からでも――――」

「いいのいいの。こんな時間まで手伝ってくれただけで、もう十分よ」


 へにゃっとした笑みを浮かべ、優月先生は俺の背中を押した。


「……分かりました。それじゃ、お言葉に甘えます」

「うん! ……そうだ、雄太郎おじさんとご飯に行ったんだって?」

「え? あ、ああ、うん」


 あれ? 伝えていたかな、この話。


「ちょっと前に、雄太郎おじさんが連絡してきたの。『私と凛太郎が世話をかけた』って。私に連絡してくるなんて思ってなかったからさ、すごい驚いちゃった」

「あの親父がねぇ……」

「変わったね、あの人。素直になったって感じ? 何はともあれ、すっごく安心した」


 そう言いながら、優月先生は俺の頭を撫でた。

 ふと、昔もこうやって撫でてもらったことを思いだした。

 身長も逆転したし、優月先生の柔らかかった手は、ペンだこで硬くなってしまっているけれど、温もりだけは、あのときのままだった。


「今度、あの人と三人でご飯でも行こうか。色々話聞きたいし」

「……いいですけど、予定合わせられます?」

「うっ……そこはほら、努力しますよ? こっちもプロですから」


 力なく胸を張った優月先生を見て、思わず笑ってしまう。


「ま、まあ! なんかあったら、またお姉さんを頼りなさい。……その分働いてもらうけど」

「分かってますよ」

「優秀な従弟ですこと。それじゃ、気をつけてね」


 笑顔で手を振る優月先生に頭を下げて、俺はマンションをあとにした。

 今にもぶっ倒れそうなくらい疲れているはずなのに、俺を心配させまいと強がっていた優月先生は、負けず嫌いな〝ひみこ姉ちゃん〟のままだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ