65-3
翌日。
俺は玲たちに気づかれないよう細心の注意を払いながら、エクレアを持って家を出た。
キッチンは俺のテリトリーと認識しているためか、玲たちはあまりキッチンを漁らない。
おかげで、昨晩も気づかれてはいないようだった。
仮に気づかれていたら、確実に食べたいと言い出していたはずだから、まず間違いない。
教室に入ると、先に来ていた玲が、女子に囲まれていた。
キャッキャと楽しげに話している彼女たちを、男子たちがチラチラと見ていた。
バレンタインがまた一日近づいたことで、彼らの飢えに拍車がかかっているようだ。
「乙咲さん、元気になったみたいだね」
前の席にいる雪緒が、安心した様子で言った。
「お前のアドバイスのおかげだよ」
「あ、できた? マッサージ」
「ああ、なんとかな」
「役に立ったみたいでよかったよ」
雪緒は笑みを浮かべ、うんうんと頷いた。
「その礼と言っちゃなんだが、バレンタイン用の菓子の試作品を作ってみたんだ。味見してくれねぇか?」
「え、いいの⁉」
「もちろん。俺的には、結構いけると思うんだが……」
保冷バッグに入れていたエクレアを取り出し、こっそり雪緒に渡す。
クラスメイトが壁になって見えていないとは思うが、一応玲に見られないよう注意した。
「いただきますっ」
雪緒がエクレアを頬張る。
途端に、パッと目を見開いた。
「お、美味しい! お店のやつみたい!」
「よかった。やっぱり問題なさそうだな」
糖分補給もかねて、俺も食べておく。
残りは、昼休みに祐介たちに食べてもらおう。
それでも余った分は、優月先生のところにでも持っていくか。
「――――乙咲さんは、バレンタインどうするの?」
ふと、玲の周りからそんな声が聞こえてきた。
男子たちの雰囲気が、一瞬にして変わる。無駄話をやめ、女子たちの会話に耳を澄ませているようだ。欲望に忠実すぎて、まるで犬を見ている気分になった。
「……特には考えてない」
「えー、そうなんだぁ。あ、でも乙咲さんがチョコ持ってきたら、戦争になっちゃうもんね」
「それは大袈裟」
いや、決して大袈裟などではない。
仮に、玲がチョコを持ってきたとして、それを受け取った男子は、他の男子から袋叩きに合うだろう。きっと、多くの血が流れるに違いない。
「……もらえるとしたら、凛太郎だけなんじゃないかな」
「え?」
俺が驚いていると、雪緒はニヤリと笑った。
「ボクが乙咲さんの立場なら、用意するだろうなーって思ったの」
「う、うーん……でも、あいつが料理できるとは――――」
いや、待て。
俺はマッサージ中に、玲がしてきた質問を思い出す。
あれはやっぱり、バレンタインの準備のため?
よく考えたら、必ずしも手作りである必要はないわけで。
玲が準備してくれている可能性は、十分あるのではないだろうか。
もしかすると、玲だけではなく、カノンもミアも用意してくれるなんてことがあるかもしれない。
「もしかして、心当たりがある感じ?」
「まあ、な」
――――これで違ったら、めちゃくちゃ恥ずかしいな……。
違ったときのことを考えて、あまり期待しないでおこう。
放課後、俺は優月先生の職場に向かった。
前に頼まれていた、修羅場のヘルプに入るためだ。
「お疲れ様でーす……」
仕事場のマンションに到着した俺は、声をかけながら中に入る。
すると、部屋の奥から、ゾンビのうめき声のようなものが聞こえてきた。
「り……りん……た、ろう……」
「うわぁ……」
床を這うようにして現れたのは、顔を土気色にしたゾンビ――――ではなく、大人気漫画家の優月一三子先生だった。
額には熱さまシート。目の下には、特殊メイクかと思うくらい濃い隈。
幾度となく修羅場を乗り越えてきた優月先生だが、ここまで疲れている姿を見せるのは、なかなかないことだ。
「いぞがじいのに、ごめんね」
「いや、優月先生ほどじゃ……。あ、これ差し入れです。アシスタントの人たちにも」
「ありがどお」
余ったエクレアを渡すと、優月先生は力なく笑った。
「私も歳かなぁ……二徹くらいでへばっちゃって」
「優月先生はまだまだ若いですし、普通の人間は一日徹夜しただけでヘロヘロになりますよ」
「えへへぇ~……凛太郎は優しいねぇ」
「何からやればいいですか?」
「ベタ塗り。とにかくベタ塗り」
「了解です。いつも通りってことですね」
「そゆこと。おーいみんなー、凛太郎が差し入れ持ってきてくれたわよー」
優月先生が声をかけると、同じく顔を土気色にしたアシスタントさんたちが、俺に向かって頭を下げた。
「てか、これエクレアよね? もしかして、手作り?」
「バレンタイン用の試作品です。と言っても、味には自信があります」
「手作りなんて最高すぎ……! ほんとにありがとねぇ」
「気にしないでください。それより、コーヒーいる方いますか? 先に淹れようと思うんですけど」
そう訊くと、この場にいる全員が真っ直ぐ手を挙げた。
「了解です」
こんな過酷な現場でも、何故かアシスタントの入れ替わりは激しくない。
ここにいる人たちの味の好みをすべて把握している俺は、すぐに全員分のコーヒーを用意する。
俺にできることなんて限られているのに、それでも力を借りたいということは、この職場が修羅場のピークを迎えている証拠。
せめて猫の手以上の活躍はできるよう、気合いを入れて頑張るとしよう。
――――仕事が終わったのは、それから六時間後のことだった。
手の痛みで、俺の集中がぴたりと途切れる。
ここに来たのが十六時くらい。今は二十二時を過ぎたところ。
約六時間、優月先生の指示に従いながら、俺は何枚もの原稿をベタ塗りし、トーンなどを張りつけた。
俺が役に立ったのかどうかはいまいち分からないが、何はともあれ……。
――――これが最後の一ページ……。
指示書に従い、トーンを張りつけた。
「お、終わったぁ~~!」
優月先生の歓喜の声が響く。
その途端、アシスタントさんたちが、一斉に崩れ落ちた。
今まで限界を超えて働き続けていたんだし、当然か。
「ごめんね、凛太郎。こんな時間まで付き合わせて」
「いえ……役に立ちました?」
「そりゃもう、救世主って感じだったわ」
「ならよかったです」
「後始末はやっておくから、凛太郎はあの子たちのところに帰ってあげて」
「本当に大丈夫ですか? 片付けくらいなら、今からでも――――」
「いいのいいの。こんな時間まで手伝ってくれただけで、もう十分よ」
へにゃっとした笑みを浮かべ、優月先生は俺の背中を押した。
「……分かりました。それじゃ、お言葉に甘えます」
「うん! ……そうだ、雄太郎おじさんとご飯に行ったんだって?」
「え? あ、ああ、うん」
あれ? 伝えていたかな、この話。
「ちょっと前に、雄太郎おじさんが連絡してきたの。『私と凛太郎が世話をかけた』って。私に連絡してくるなんて思ってなかったからさ、すごい驚いちゃった」
「あの親父がねぇ……」
「変わったね、あの人。素直になったって感じ? 何はともあれ、すっごく安心した」
そう言いながら、優月先生は俺の頭を撫でた。
ふと、昔もこうやって撫でてもらったことを思いだした。
身長も逆転したし、優月先生の柔らかかった手は、ペンだこで硬くなってしまっているけれど、温もりだけは、あのときのままだった。
「今度、あの人と三人でご飯でも行こうか。色々話聞きたいし」
「……いいですけど、予定合わせられます?」
「うっ……そこはほら、努力しますよ? こっちもプロですから」
力なく胸を張った優月先生を見て、思わず笑ってしまう。
「ま、まあ! なんかあったら、またお姉さんを頼りなさい。……その分働いてもらうけど」
「分かってますよ」
「優秀な従弟ですこと。それじゃ、気をつけてね」
笑顔で手を振る優月先生に頭を下げて、俺はマンションをあとにした。
今にもぶっ倒れそうなくらい疲れているはずなのに、俺を心配させまいと強がっていた優月先生は、負けず嫌いな〝ひみこ姉ちゃん〟のままだった。




