08 厄介な事件を請け負いました。
「ここ」
「へぇー」
ヘイヤ達に案内され、ユカは彼の探偵事務所にたどり着いた。
小さな事務所であり、どうやら1つの建物を間借りしているようであった。ちなみにその建物とは精神科の病院である。ハーブボイルドである彼に対する皮肉のようなものを感じた。
「ここの2階、前は倉庫だったんだって。で、使わなくなったから貸し出してたところ、師匠が見つけて事務所にしたんだってさ」
ドアの鍵を開け、少し急な階段を上りながらヘイヤが説明した。
彼の後に続き、階段を上りきると、そこはとても小さな部屋になっていて、二つのドアがあった。一方のドアには『いらっしゃいませ』と刻印されたプレートがぶら下がっている。
「あっちは資料室。今までに調査した資料が置いてある部屋だよ。で、事務所はこっち」
ヘイヤはそう言ってプレートがぶら下がったドアを開けて中へ入っていった。チェッシャーもその後に続く。
「……お邪魔しまーす」
ユカは一言言って一歩中へ入った瞬間、大きなくしゃみが出た。
何故だろうか。彼女がそう思いながら事務所の中を見回すと、すぐにその理由が分かった。
事務所の中は大量の埃が漂っていた。それだけでなく、カビや男の皮脂臭が混じり合ったような強烈な臭いが鼻を刺した。
汚い。これがユカの第一印象であった。それは事務所の中を観察すればするほどそう思えた。
カーテン。元の色が分からない程に日焼けして変色している。それに端はボロボロだ。
家具。どれも厚く埃が溜まっている。ところどころ埃が無い場所があるのは、普段使用しているからなのだろう。
床。埃だらけなのは言うまでも無い。それに加えてキャパシティーオーバーによって周りがゴミで溢れかえっているゴミ箱があったり、謎の紙片がその辺に散らばっていたりしている。
ユカは気がつくと、すぐ近くの窓を開けようとしていた。せめて空気だけでも入れ替えたい。その思いが遅れて出てくる。
留め金を外し、窓を全開……にしようとした。が、窓は全く動かない。まるで接着剤か何かで固定されているかのようだ。
「あー、ゴメン。そこ、錆てるみたいでさ、全然動かないんだ。僕の筋肉をもってしても全然ダメなんだ」
ヘイヤは笑って言う。
それを聞いたユカは杖を取り出して窓の動く部分に向けると、摩擦操作の魔法を放った。その名の通り、摩擦力を変える魔法であり、この魔法で錆による摩擦をゼロにする。
「せい!」
ユカがもう1度窓を開けようとすると、今度はとても滑らかに窓は開いた。その瞬間、風と共に新鮮な空気が入って来る。
彼女は窓から顔を出して深呼吸をした。肺に入ってしまった不浄な空気が浄化されたような気分になる。
「おお!」
ヘイヤは窓が開いた事に驚いている様子であった。どうやらかなり前から開かなくなっていたらしい。
「ふむ。ヘイヤ君、君はもう少し魔法の勉強をした方がいいね。仕事関係だけじゃなく、もっと生活に役立つような魔法をね」
「……はーい」
ヘイヤは不満そうに返事をした。
「さて、改めて案内するよ。ここが僕の事務所さ」
ヘイヤが話し始めたので、ユカは彼の方を向いた。
「ちょっとこっちに来てくれるかな?」
「……はい」
ヘイヤに連れられて向かった先には、ボロボロで色のさめたソファーが置いてあった。
「お客さんが来たらここで対応するんだ」
「へぇ……」
こんな物に座らせられるなんて、お客さんは可哀想だな。ユカはそう思ったが、もちろん口にはしない。
「そこはキッチン。普段はお茶を淹れるくらいしか使わないけどね」
ヘイヤが指した先を見ると、給湯室の中身をそのまま移して来たようなスペースがあった。
何気なく近づいてみると、シンクの中には使ったまま全く洗っていない食器がたくさんあった。……今、何か黒い虫が見えたような気がしたが、きっと幻覚だろう。
「で、ここが僕の定位置」
ヘイヤの声がした方を向くと、彼は物で溢れかえったデスクの椅子に座っていた。そして近くにあったカップを手に取ると、一口飲んだ。
その中身は何なのか、いつから入っていたのか。ユカは気になったが、知ったらきっと後悔するだろうと思って我慢した。
ふと、彼の横を見るとベッドが置いてあるのに気がついた。
毛布は乱れ、シーツや枕はいつ交換したのか分からないくらいに汚れている。一目見ただけで臭そうであった。
「ああ、それは僕のベッドだよ。ここは僕の家でもあるんだ。暮らしてるのさ。シャワー・トイレは無し! シャワーなら行きつけのスポーツジムでトレーニングついでに浴びてるし、トイレなら下の病院のを借りるなりちょっと行った所にある公衆便所で済ましているから、特に不自由は感じた事は無いかな?」
「そうなんですか」
呆れたユカは雑に相槌を打った。
「あの、いつからですか?」
「ん? ここを開いたのは師匠が30代の頃らしいから、ええと――」
「いえ。私が聞いたのは『いつからこんな有様になっているのか』という事です」
あまりの不潔感に怒りを感じてきたユカは、湧き上がる感情を抑えつつもキツい言葉で訊ねた。
「え? ……えっと……少なくても師匠がいた時は綺麗だったかな? 僕1人になってからは……最後に綺麗にしたのっていつだったかな? ねぇ、チェッシャー?」
「ん? 全く記憶に無いねぇ。もしかして、1度もして無いんじゃないのかい?」
チェッシャーはさらりととんでもない事を口にした。
「そう……ですか……」
彼の答えで、ユカの感情は制御を失った。
「分かりました! では、掃除しましょう! 今すぐに!」
「え?」
ユカの大きな声を聞き、ヘイヤは目を丸くした。
「ハッキリ言って、お客さんを迎えるにしては最低最悪の環境です! こんな所に通して、お客さんに失礼だと思わないんですか!」
「え……それは……」
ヘイヤは言葉に詰まる。
「それに、『部屋の乱れは心の乱れ』です。私も手伝いますからやりましょう!」
「いやぁ……どちらかというと僕の心は乱れていた方が仕事をする上ではいいと思うんだけど……」
ユカは言い訳をするヘイヤに向かって、黙って杖を向けた。
「わ、分かったよ……でも、掃除する道具なんてどこにも……」
「では、今から買いに行きましょう。今すぐに!」
「……は、はい」
ヘイヤはまるで警察官に銃を向けられた犯人のように両手を挙げて、ゆっくりと立ち上がった。
この時チェッシャーは、2人の様子を見てニタニタと笑っていたのをユカは知らない。
◆◆◆
掃除が終わったのは買い物を含めて2時間程度であった。
最新の掃除道具や洗剤等、それに加えて魔法の類を駆使して、徹底的に綺麗にした。結果、同じ部屋とは全く思えないくらいに清潔感のある空間へと生まれ変わったのであった。おそらく、これが本来のイームズ探偵事務所なのだろう。
「ああ……疲れた……」
デスクでぐったりしながらヘイヤは呟くように言った。
「自業自得です」
ユカはピカピカに洗浄したカップでインスタントコーヒーを飲みながら言った。もちろん、飲み終えたら速やかに洗浄するつもりだ。
「いやぁ、急に懐かしさを感じるねぇ」
チェッシャーはソファーにドカリと座ると辺りを見回した。
「思い出したよ、イームズが生きていた頃は確かこんな感じだった。彼はいつもデスクに座って難しい本を読んでたねぇ。そこである時、僕ちんは聞いたのさ、『そんな本を読んで何が面白いんだい?』って。そしたら彼はこう答えたよ、『面白いから読んでいるんじゃない、俺にはまだたくさんの学ぶべき事がある。これは読書では無く、勉強であり鍛錬なんだ』ってね」
そう言って彼は、深く息を吐く。
ユカはチラリとデスクの上の写真立てを見た。チェッシャーと、まだまともな服装をしていた頃のヘイヤが写っている。そして、いかにもダンディーな犬の男も一緒に写っている。きっと彼がルシアン・イームズなのだろう。
ヘイヤは知らないのだろうが、これは家族写真だ。愛し合う2人とその息子。その平穏な日々を切り抜いた一枚である。これが他の家具同様に埃をかぶっていたのだから驚きである。師匠の事を本当に大事に思っているのなら、せめてこれくらいは綺麗にしておくべきではないか。そう思うと、ユカはヘイヤの人格を疑わずにはいられなかった。
「……さて、では本題に入りましょうか」
飲み終えたカップの洗浄を終えたところで、ユカは口を開いた。
「え?」
ヘイヤは何の話かまるで分かっていないような声を出した。
「私はヘイヤさん達の仕事に同行します。そのためには、お2人が普段どんな仕事をしているのか、ちゃんと知らなくてはいけません」
「あ、うん。そうだよね」
ヘイヤは姿勢を正すと、説明を始めた。
「僕達は探偵さ。だからお客さんの依頼を受けて、人探しとか調査をしに街へ出る。時には警察から捜査協力の依頼を受ける事もある。……まあ、こっちは師匠の活躍による信頼からなるものなんだけどね。とにかく、依頼が無い時はこうやってぼんやりと過ごす。マンガを読むなりスマホでネットを見るなりね。収入は多くないけど、その分ゆっくりできる。楽と言えば楽な仕事かな?」
言い終わると彼は大きな欠伸を1つした。
「あの……霧の事は……」
「おっと、すっかり忘れていたよ」
ヘイヤは頬を掻いた。
「霧が出たら、もちろん外に出る。霧と共にやってくる悪い何かをやっつけるためにね。元々は師匠が始めた事なんだ。『街を泣かす奴は誰だろうと許さない』ってね。だから僕もそうする」
彼は使命感を持った顔をして答えた。それを聞きながら、ユカは小さく何度も頷く。
と、ここで突然チェッシャーがカウントダウンを始めた。
「5、4、3、2……」
「あ! 行かなきゃ!」
ヘイヤは慌てて入り口の前に立った。ユカには何が何だか分からず、ただ成り行きを見守るしかできなかった。
そしてチェッシャーが『0!』と言った瞬間に、ドアをノックする音が聞こえた。ヘイヤはすぐにドアを開け、立っていたコアラの女性を中へ招き入れた。お客さんである。
「イームズ探偵事務所へようこそ! さあ、こちらへどうぞ。チェッシャー、お茶の準備をお願い!」
「もう、やってるよん」
ユカがチェッシャーの方を向くと、さっきまでソファーでくつろいでいた彼がいつの間にかカップに淹れたての紅茶を注いでいた。その時、ユカは彼がマドラー代わりにロリポップ・キャンディーで紅茶をかき混ぜていたのを見逃さなかった。
「はい、どうぞ」
お客さんがソファーに腰掛けるのと同時にチェッシャーは彼女の前にカップを置いた。そしてヘイヤは彼女と向かい合うように対面のソファーに座った。
「さて、今回はどういったご相談で?」
ヘイヤが訊ねると、お客さんは黙って鞄から紙か何かを取り出して彼に見せた。彼も黙ってそれを受け取る。
気になったユカは静かに彼の背後に立つと、何を受け取ったのか見てみた。
写真である。写っているのは目の前の女性と、彼女よりも少しだけ背の高いコアラの男性であった。何かの記念写真なのか、2人共とても幸せそうな顔をしている。
「夫を……ピーターを探してください……」
夫人はそう言って大粒の涙を流した。
この後、ヘイヤが彼女から聞き取った情報をまとめると次のような内容であった。
1週間前、ピーターという依頼者の旦那が突然失踪した。失踪直前、『図書館に行って来る』と言ったきり、戻って来ないのだという。
図書館に行って訊ねてみると、彼と思わしき人物は来なかったらしく、図書館に着く前にいなくなったという事は分かっているそうだ。
もちろん警察には届け出を出したのだが、今日まで何も連絡が無く、最後の頼りと思ってここを訪ねたらしい。
「お願いします……彼を探してください……」
「任せてください。この街は僕の庭です。ウチの看板にかけて、必ず見つけますから」
弱々しく訴える夫人に、ヘイヤは自信満々に答えた。
ユカは彼の言葉を聞いて、その重さを感じた。
『ウチの看板にかけて』、これは師匠であるイームズの名にかけてと言っているようなものだ。失敗すれば、ヘイヤだけでなくイームズの名誉も傷つく事になる。責任重大だ。
それをあっさりと言うという事は、それだけ自信があるか、覚悟ができているか、もしくはその両方かもしれない。とにかく、彼の意思は相当なものであると思えた。
「さ、始めるよ!」
夫人を帰して、それを確認すると、ヘイヤは張り切った様子で壁にかけてあったホワイトボードに向かった。
黒のペンを取り、簡単な地図を書いていく。そして赤のペンに持ち替えると、2か所に大きく丸を書いてその間を線でつないだ。そしてまた黒のペンに持ち替えると、細かく色々と書き込んでいく。
洗剤をたっぷり使って真っ白にしたばかりのホワイトボードが、たちまち元通りに戻った。
「うん。やっぱり綺麗だと見やすいね」
ヘイヤは感心した様子で言った。
『それはそうだろう』とユカは思った。なにしろ掃除する前は、今まで書いた内容が全部そのままになっていたのだ。言うなれば、ノートの1ページだけで全てメモしてきたようなものである。よく今まで間違えずに済んだものだ、と彼女は感心するくらいであった。
「解決したらちゃんと消してくださいね」
ユカはゆっくりとそして丁寧にヘイヤに釘を刺した。彼は彼女の方を見ると、緊張した様子で黙って頷いた。
「ほう! こうして図にしてみると、実に奇妙じゃないか!」
ホワイトボードの内容を見たチェッシャーは驚きの声を上げた。ユカもよく見てみるが、いまいちピンと来ない。
「でしょ?」
ヘイヤはチェッシャーの方を向いて言った。
「あの人の話だと、ピーターさんはいつも決まったルートで図書館に向かうらしいから、この線の通りに歩いたのは間違い無いんだ。でも……」
「このルートは人通りの多い所ばかりだ。何かあれば必ず誰かは目撃するだろうね。警察に届けたって言ってたから、もうこの辺りの聞き込みは終わっているだろうさ。防犯カメラもきっと調べ終わっているよ」
「ここの警察は無能とは思えないからちゃんと調べたはずなんだ。それなのに何も手掛かりが無いなんて不自然だ。これ、きっと何かあるよ」
「……だね」
「――」
「――」
2人が話し合っているのをユカは黙って聞いていた。完全に蚊帳の外である。しかし、話しに加わった所でチンプンカンプンなので、結論が出るまでスマートフォンをいじる事にした。
「よし! 行くよ!」
ヘイヤに言われて、ユカは慌ててスマートフォンをしまった。
「行くって、どこにです?」
「何も分からない以上、ピーターさんが通ったルートを実際に歩いてみるしかないと思うんだ。だからまずはさっきの人の家まで行くよ」
そう言ってヘイヤとチェッシャーは出て行った。ユカは慌てて後を追いかける。
追いかけながら彼女は『探偵って意外と地味な仕事なんだな』と思った。もっと刺激のある仕事だと思っていたため、拍子抜けしていたのだ。
しかし、彼女が望むような、いやそれ以上の刺激がすぐそこまで迫っている事を、彼女は知らなかったのである。




