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日本人の宗教観 その3:江戸期から明治維新へ

日本人の宗教観の続き 3/5です。

3)近代的 日本人の宗教観の例:江戸の学者達

江戸時代の徳川吉宗の享保の改革により、キリスト教以外の西欧の文書の輸入規制が緩和され、西欧の科学知識が江戸の知識階級に入ってきました。

この時に、日本に入る西洋の書物や知識は「キリスト教とは無関係」という選別が行われていたのです。  西洋の科学を学び、近代的な天文学や物理学を取り入れ、惑星の軌道計算を行い、月食や日食の発生を、ピタリと予見する人も出てきます。 映画『天地明察』に出てくる渋川春海、山崎闇斎、土御門泰福などです。

月食、日食の予想には、元データとして現在位置の緯度経度の正確な計測、過去の太陽、月の運行の正確な記録が必要です。 加えて、予測の為には、高校理系での数学と物理学(ニュートン物理学とケプラーの法則の正しい理解)が必須です。

ですから、この時点(享保)の頃で、高校物理以上の西洋科学知識を持っていたのです。

山崎闇斎は垂加神道を唱えた神道学者の親玉、土御門泰福は朝廷の公家で かの安倍清明の子孫です。 ですから、神道の考えと、西洋科学とが頭の中に喧嘩せずに存在できないと、このような事はできません。つまり、科学は科学、神道は神道だと考えないと、神道学者が、西洋科学に基づいて正しく惑星の軌道計算はできないのです。 少なくとも、この時代の学者は、西洋の思想は「科学」として取り入れるが、それは宗教とは 全く独立したものと扱ったと推定できます。 この時代の人と、「あなたの宗教観は?」聞ければ、私の疑問は氷塊するのですが、残念ながら聞けませんので、当時の知識人の宗教観が判るものを探す必要があります。そこで、とても判り易いものと、私が出したいのは、山片蟠桃の『夢の代』です。


4)山片蟠桃と現代人との共通点

山片蟠桃は、少し時代を下り文政の頃になります。 西洋科学の導入は、後の松平定信の寛政の改革で「寛政異学の禁」で、一時締め付けが厳しくなりますが、西欧の科学知識、特に物理学と医学は、役に立つものとして輸入と、学習が広まってきました。 同時に、当時は町民や地主の農民は、低い税率(今に比較すれば無きに等しい天国!)により富裕になり、趣味として学問を志す人も増えてきます。大坂では商人たちが設立した学問所:懐徳堂が出来て、ここで西洋の科学を学ぶ町人が多く出てきました。

山片蟠桃は、大阪近郊の農家に生まれ、大阪の商家で丁稚奉公。真面目に勤めて番頭となり、傾いた主家の立て直しに成功します。 これにより、主人の姓 山片を与えられます。 号の蟠桃ばんとうは「番頭」の洒落のようです。

この人の著書『夢の代』を見ると、神道による世界として、天には高天原があり神の世界、その下に人が住む日本の国土があり、黄泉比良坂から先は「黄泉の国」となっています。 次の頁をめくると、何と 太陽を中心とした太陽系惑星の図があり、太陽と地球との距離、地球の大きさ、地球の惑星である月との距離や大きさなどが、かなり正確に書かれています。 この数値は、天測により計算したのか、西洋の本から移したのかは不明ですが、近代科学の合理性に満ちた太陽系の図です。 山片蟠桃は、神道による世界と、太陽系を、矛盾した存在とは書いておらず、高天原や黄泉の国は「神代の世界観」としてとらえ、太陽系の図は この世の原理を科学で読み解くものとして並列させてみています。 つまり、当時の社会では、西洋の学問は「キリスト教と無関係」なフィルタがかかっていますので、本来 不可分な宗教(キリスト教)と科学が、分離されたものとして入っており、キリスト教の世界観と神道の世界との衝突が回避されています。 ですから、日本では、西洋の科学知識を扱う場合には、キリスト教宗教観に基づいた「創造論」と科学との比較検証は不要で、科学=事実という認識のままに、日本の宗教とは独立した知識として取り入れる事が出来たのです。

加えて、偶然の一致かもしれませんが、西洋科学を教える人の中には神道学者も多く、改革派=神道という例も多かったのです。


5)寺と神社の関係

 当時の日本の宗教は、神仏習合であり、多くの寺と神社はセットで存在していました。 その名残は、日光東照宮にもあり、八幡大菩薩は「八幡寺」にあり、熊野権現は寺でもありました。 天皇家も歴代は泉涌寺に仏式の火葬で葬られ、宮中行事の多くは仏事でした。このような神と仏が混在した状態は、現代でも香港や台湾に行けば見られますし、小説の西遊記や封神演技では、神仙と仏が混在します。

少なくとも、明治維新前までの日本では、神と仏の境界はあいまいで、設備としても混在していたのです。 この事が、私達に、寺と神社 それぞれに参ろうが、変と思わせないと推定しますが、如何でしょうか?

 この考えが正しいと言い張るつもりはありませんが、現代では神社と寺が別なのですから、その理由についても説明が必要です。 前述の山崎闇斎は神道学者であり、この考えが後に水戸学へ発展して、水戸藩では寺を壊して神道葬を行うという宗教革命が起きます。 このような、廃仏と神道を正しいとする「神道原理主義」な考えが、明治維新の中にありました。 明治維新では、廃仏毀釈という運動が起きました。 江戸幕府は、仏教界を政治の中にも上手く取り入れ、寺請け制度により戸籍管理を行いました。 明治政府は、少なくとも それを変革する新政府ですから、過去の武士体制で主体だった仏教界との協力体制ではなく、思想的に新しい「神道」を取り入れようと考えます。

そのような中の宗教改革として、日本古来ではなく外来である(と言っても千年以上信仰した)仏教を排して、神道を本来の宗教としようとの考えを持つ人々が新政府の中におりました。 これらの人々の多くは、江戸末に出来た「神道」という新興宗教の推進者でした。 「神道」が新興宗教だと言うと変だと思う人がいるかもしれませんが、その理由は後で説明します。

ともあれ、明治の一時期に、仏教が廃され、古い寺が壊され、仏像や経典は捨てられ海外へ流出しました。 しかし仏教界も長きに渡る人々の信仰もあり勢いを盛り返します。 また明治憲法が信仰の自由を保障している事もあり(大日本帝国憲法第28条)、仏教界も勢いを取り戻しました。しかし、物理的に改変された八幡寺は八幡宮に、熊野権現寺は熊野神社に代わり、多くの宗教的な変動が固定化されました。

これらの「神社」は、何となく神社として存在し続けているように勘違いしそうですが、本地仏(仏が日本に神として顕現した)が祀られた寺であった事もあったし、その時代の方が長いのかもしません。 繰り返しますが、どちらが良いという問題ではなくて、近代の神社の前には寺があり、仏と神は混在していた時間の方が長かったという事です。


続きは、明治政府の宗教政策から昭和の敗戦までのお話しです。

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