8.がんばれ、信長君。
信秀が亡くなると信長に来客が増えた。
その原因は魯坊丸だ。
多角外交かは知らんが、近隣の守護、守護代、領主、豪族、地頭に至るまで、あいさつ状にはじまり、祝い事があると何某かの土産を送っていた。
返礼の使者が来ない日がない。
全部、悪童のせいだ。
儂は気が休まる暇もない。
どんな顔で使者を迎えればいいのか、そもそも儂は使者の主人の顔も知らん。
信勝が羨ましそうにしているらしい。
欲しいなら全部やる。
持ってゆけ、儂はこういう意味のない儀礼が大嫌いなのだ。
そもそも意味が判らん。
「そのようなことを言っていると、魯坊丸殿にまた悪態をつかれますな」
「長門、ここで彼奴の名を出すな!」
「気配りに感心します。敵味方に関係なく、数多の家臣の祝い事まで調べて、祝いの品を送っているものです。殿に興味がなかった者まで好意を持つことは必定でしょう」
「それにどんな意味がある」
「美濃、三河、伊勢に調略を仕掛けるときに効果を出しそうですな!」
「主人を裏切ってか?」
「いいえ、主人を説得して寝返ってくれるでしょう。それに祝い事を調べているならば、不満も調べているのでしょう。律儀な性格、気移りな性格、欲が深く寝返り易い性格などなどと」
「卑怯というか、抜け目のない奴め!」
膝枕をしていた帰蝶が何か言いたそうだったが止めたようだ。
だが、そのような顔をすれば気になってしまう。
「帰蝶、何か言いたいのか?」
「はい、いいえ、何と申しますか、魯坊丸は深い意味で考えていないように思えるのです」
「はぁ、なんじゃと?」
「魯坊丸はわたくしにも、わたくしの女中にも気を使っております。それ所か、わたくしが使っている忍びにまで気を使っております。あの者達まで奇妙な御仁と申しております」
「何の為に?」
「判りません。ですから意味もなく、気を使っているのではないかと思えるのです」
「あ~~~ぁ、悪童が何を考えているか判らなくなってきたぞ」
「ですので言ってよいのか、悩んでしまったのです」
魯坊丸の気遣いは単なる習慣病であった。
信長や帰蝶が知る訳もなく、身に付いた習慣というのは消えるのではない。
ツイツイやってしまっていたのだ。
そして、魯坊丸もやったからと言って困る人もいないと高をくくっていた。
だが、魯坊丸が考える以上に多くの人が、その奇妙な行為に頭を悩ませているとは思いもしなかったであろう。
その日は国友の鍛冶師が来ると交渉を始める。
彼奴が来てあっさりと終わる。
どういうことだ?
時間がない。
今日は大切な接待が待っていた。
接待の相手は参議飛鳥井 雅春様であった。
正三位に叙位した祝いを贈ったお礼を言いにやって来た。
贈った本人が相手をすればいいのだ。
まったく。
近衛 稙家様の伝言を預かってきた。
今年(天文21年、1552年)、7月に風流踊りが流行り、高級絹織物が品切れすると尾張染め反物を送ってくれたこと、宮中の多額の修繕費を寄付したことへの礼であった。
「尾張殿、一日も早く上洛してくだされ!」
「精進致します」
「義藤(後の義輝)様は一日も早い到着をお待ちです」
「そのように言っていただき、ありがたき幸せ」
飛鳥井家は近衛家と親しい。
近衛家は将軍義輝に正室を送っているので、1日も早く尾張を治めて将軍を支えて欲しいのだ。
その前金として、従五位下尾張守の内定を信長に持って来ていた。
弟の信勝には父(信秀)と同じ従五位下三河守、魯坊丸の典薬寮の従五位下典薬頭が内定した。
魯坊丸は必ず上洛して、謁見することと念を押された。
しゃべり方から疲れる相手であった。
接待を終えた信長は帰蝶(濃姫)の部屋に転がり込み寝転がった。
「帰蝶、膝」
帰蝶(濃姫)は信長の側によって膝を貸す。
信長は不機嫌になると必ずやって来て寝転がる。
「今日は何でございました?」
「…………」
信長がしゃべろうとしないので長門守に視線を送った。
昼の打ち合わせは国友からやってきた鉄砲鍛冶との話であった。
出来上がった分と言って2丁を届けにきた。
信長は500丁を注文したが、まだ20丁しか届いていない。
一方、津島にはすでに50丁も届けている。
信長が怒鳴っても鍛冶職人は首を縦に振らない。
鉄砲が売れる前から信長は鉄砲に目を付けて500丁を1,000貫で注文している。
手付に100貫を渡した。
国友にとってありがたい話だっただろう。
しかし、鉄砲が売れ始めると、一丁が10貫から20貫で取引された。
信長に売るより、他に持って行った方が高く売れる。
約束を大切にする信長は正論で押した。
脅した。
だが、やはり首を縦に振らない。
ところが魯坊丸が来ると話が変わった。
「すぐに500丁を入れろとは申しません。そちらにも都合があるでしょう」
「そう言って貰えるとありがたい」
「どこも早く入れろと急かされているのでしょう」
「職人の手が空けば、すぐに信長様の鉄砲も作りたいと思っております」
「判ります。ですが、こちらも事情があります。毎月、10丁をお願いしたい」
「それは無理でございます」
「残りの代金ですが、こちらで如何ですか?」
そう言って箱を入れさせる。
鍛冶師の目を変えた。
そして、鉄を受け取って毎月10丁を届けると言って帰っていった。
「一丁分と交換する鉄の代金は300文だそうだ。儂が2貫出すと言っても首を縦に振らんのに、悪童が300文の鉄くずを並べると嬉しそうに承知した」
「長門、そうなのですか?」
「仕入れに250文、手を入れて300文で卸すと言ってくれた鉄ですが、国友の鍛冶職人には5貫並の価値があるそうです。しかもその鉄を使えば、20貫の鉄砲が作れると喜んで承諾してくれました」
「まぁ、それは素晴らしいわね。一丁300文で済むのね」
(鉄砲450丁で残り900貫が135貫で済む)
「はい、300文分の代金は払って頂くと、魯坊丸様は断言されました」
「それくらいまけてよいであろう」
「あの子は武将というより商人ですから無理でしょう」
「まったくだ。尾張産の鉄砲は2貫で買って頂くとぬかしよった」
魯坊丸は信長にもはっきりとモノを言う。
嫌いではないが、腹が立った。
「さて、殿がご立腹になるほどのことではありませんね。どうしてお怒りになっているのですか?」
「…………」
「どうして鉄が高く売れたのか、信長様が聞かれたのです。しかし、その説明を聞いてもまったく理解できなかったことでお怒りなのです」
「えっとか、しーとか、人の言葉をしゃべれというのだ。あれは南蛮の言葉か?」
「某にも判りません」
「教えてもよろしいが理解できないと思いますと上から目線で言う態度が気に食わん」
とにかく、鉄から不純な物を取ると鉄が高く売れるという以外は判らなかった。
気に食わないので、足軽長屋を早く作れと急かしたら嫌そうな顔をしたので、少しだけ溜飲が下がったが、宮様としゃべっていると思い出してしまったのだ。
後奈良帝は潔癖なお方らしく、(土佐)一条房冬を左近衛大将に任官した際に秘かに朝廷に銭1万疋の献金を約束していた事を知って献金を突き返したらしい。
献金の代わりに尾張守、三河守を寄越せなど、絶対に言えない。
近衛 稙家は尾張の苦しい現状を訴え、帝に温情をお願いしたそうだ。
すると、帝から尾張守、三河守の話を持ち出した。
魯坊丸の送った医学書と薬が効果覿面だったらしい。
長く患っていた臣下が元気を取り戻し、寝込んだ御子の熱も下がったことで、すっかり帝の信頼を得たそうだ。
ここ数か月、信長もがんばった。
人付き合いが苦手な信長は家臣の話を聞き、林などに自分の思うことを説明した。
少しは和解できたと思う。
しかし、悪童の人誑しぷりは斜め上を行く。
プライドの高い信長は鼻を折られた気分だった。
信長は寝返りを打った。
目にうっすらと涙が溜まっていたからだ。
糞ぉ、負けんぞ。




