61.帰蝶の計略。
黒田湊に到着すると、湊には山内の兵が待っていてくれた。
強引に押しかけてきたと言うのに、出迎えの家臣を用意してくれるのはお人好しか、あるいは、策謀家のいずれかだ。
何も考えずに行動する武将でないことは判った。
長谷川橋介には池田恒興が暴走しないようにお願いをしている。
「私は帰蝶様の目付であって、恒興の目付ではないのですよ」
「ふふふ、承知しております。でも、恒興が問題を起こすと交渉が失敗してしまいます。監視しておいて下さい」
橋介は溜息を吐くと承諾してくれた。
頭の悪い領主なら恒興は頼りがいのある護衛だが、折り目正しい領主になると、こちらが問題を起こし兼ねない。
護衛は下女の千早と小者の佐吉丸を頼ることにした。
「帰蝶様!?」
こつん、佐吉丸が千早の頭を小突いた。
「奥方様と呼べ!」
「爺、だって!」
「いいのよ。千早は妹のように思っているのです。呼びたいように呼ばせて上げなさい」
「ありがとうございます」
この二人は見ていて飽きない。
千早は忍び特有の暗さがなく、小柄な体と瞳がくりくりとして愛らしい。
一方、佐吉丸は雪のように白い白髪の老人顔だ。
「で、何かしら?」
「黒田城主の山内は帰蝶様が言った川賊を囲っているような方ではありません」
「そうね、川賊は囲っていないみたいね!」
湊町は活気に沸き、治安の方も悪くない。
荒くれ者が幅を利かせて湊を仕切っている様子もなかった。
「でも、津島、牛屋(大垣)、加納の中央でしょう」
「はい、それは言われた条件に入っています」
「この黒田湊を守る舟衆はあるのでしょう」
「はい、この辺りを通る舟から関税を取っております」
「では、川賊と一戦できる兵力を持っているわ!」
「えっと、そうとも言えます」
織田と美濃は水運を使って物資を運んでいる。
美濃から木材、和紙、竹細工、広絹、陶器、葛、真桑瓜など。
牛屋から白石。
尾張から塩、油、酒、海産物などの様々な生活用品が運ばれていた。
帰蝶は美濃から売るもの一覧を見て、品目が多くなったことを驚いた。
嫁ぐ前の美濃と言えば、売れる物は木材しかなかった。
この3年で随分と変わったのね!
故郷が自分の知るものと変わってゆく寂しさを覚えながら、豊かになっているようで嬉しく感じた。
「葉栗郡の方は中島郡と違って潤っているのね?」
帰蝶は町で売られている物に目を向けながら呟いた。
那古野や熱田に比べると質素ではあるが、活気に沸いている。
清州を封鎖した為に物がすべてこちらを通るようになったからだ。
「佐吉丸、山内 盛豊は物分りのよい方かしら?」
「そちらは期待できないと思います」
「そう、それは残念ね!」
そう言っている間に帰蝶ら一向は総掘りの立派な黒田城に到着した。
◇◇◇
正門では随分と可愛い少年が出迎えてくれた。
年は8歳くらいだろうか?
魯坊丸を見ている帰蝶は幼いからと言って侮らない。
「ようこそ、お越しくださいました」
「お初にお目に掛かります。織田三郎の妻、帰蝶と申します」
「山内 盛豊の子、辰之助でございます」
立派にあいさつができる聡明な子だ。
辰之助の案内で屋敷の奥の大広間に案内された。
正面に座っているのが細身で貫録のある当主の山内 盛豊だろう。
左右に家臣を座らせていた。
顔が似ているので辰之助の兄弟かもしれない。
辰之助が下座に座るように示している。
ふん、帰蝶は鼻を少しならした。
中々にどうして策士である。
それなりの者が同じことをすれば、無礼になる。
わたくしも間違いを指摘し易い。
相手が上座を譲らないので恒興が前に乗り出そうとしているのを橋介が約束通りに押さえてくれている。
困った子だ!
忠義に厚いのはいいが、そんなことをすれば会見が大無しになる。
どちらが上に座るか?
それで立場が大きく変わる。
幼い子供相手に声を荒らげたのではこちらの品がなくなる。
怒って帰ってくれるのが一番ありがたいのだろう。
だが、帰蝶はうっすらと笑っていた。
帰蝶はそこに腰を下ろすと、三つ指ついて頭を下げた。
「お初に御目文字叶い、嬉しく存じ上げます。わたくしは織田尾張守三郎信長が妻、帰蝶にございます。本日は美濃国主の斎藤左近太夫利政の娘として、父からの使いで参らせて頂きました」
相手がその気ならば、最初から切り札を出してゆく。
美濃の斎藤家の名を出したことで相手の顔が強張っている。
那古野から来るのだから織田家の使者と思うのが普通だ。
一番に考えられるのが懐柔だろう。
中島郡の領主らと同じく、那古野の織田家に降れ!
そう言ってくると思っていたに違いない。
それをどう断るかを考えていたのだろうが、帰蝶は最後の札から切っていった。
「まさか」
「何故、そんなことを?」
「どういうことだ!」
「聞いていないぞ!」
各々が小さく呟いている。
弾正忠家と仲が悪くなっている以上、背後の美濃斎藤家とは仲良くしておきたい。
親睦を高める為に使者が往来しているのは承知している。
父 (利政)も後ろ盾になるような期待させる言葉を送っている。
二枚舌だ!
ともかく、美濃斎藤家を怒らせると織田伊勢守家(岩倉織田氏)は南北から挟まれることになって窮地に立たされる。
つまり、美濃の使者と言ったことで無視できなくなったのだ。
意表を突かれたという顔をするのも当然だった!
「はるばるようお越しになられた。で、どのようなご用件でございますか?」
盛豊はすぐに動揺を隠し、あいさつを返した。
帰蝶は合図を送ると、佐吉丸が書状を取り出して前に出した。
すると向こうの家臣が預かって盛豊に届けた。
盛豊はすぐに手紙を開いた。
駆け引きなし!
小細工をしてくる者に容赦するほど帰蝶は大人しくない。
「殿、何と書かれているのですか?」
家臣が気になって声を掛ける。
盛豊は手紙を家臣に渡すと、家臣らが手紙に集まってくる。
それほど難しいことが書かれている訳ではない。
『水運の安全の為に銭を出すので川賊の討伐をお願いしたい』
手紙の内容は余りに簡単だ。
加納と津島から出る舟を守って欲しいと書いてあった。
兵と銭も出す。
目印として舟には織田と斎藤の旗をなびかせる。
その旗が問題であった。
上げる旗が木瓜か、揚羽蝶なら問題はない。
那古野も岩倉も同じ織田家の旗だ。
しかし、『永楽通宝』の旗は信長しか使っていない。
信長の旗をあげた舟が黒田湊に入ってくる。
流石に斎藤家の要求でも飲めない。
「悪い話ではございませんが、お断りいたします」
「そうでございますか。非常に残念でございますが、致し方ありません」
「わざわざのご足労。申し訳ございません」
「いいえ、こちらも筋を通す為に来させて頂いただけでございます。気になさることはございません」
盛豊は首を捻った。
あっさり引くと思っていなかったからだ。
帰蝶の目が怪しく光っているのを見て、背筋を凍らせた。
帰蝶は扇子を取り出すと口元を隠す。
ここからが本当の殴り合いだ!
「山内盛豊様にお引き受けて貰わねば、対岸に新しい湊を作るしかございません」
「致し方ございませんな!」
「当然でございますが、川の安全はそちらで見させて頂きます。川の関税もそちらで頂きますので、黒田湊の関税はお控え下さい」
「なんと!」
刀を持って立ち上がろうとする山内の家臣を帰蝶は鋭い視線と突き付けた扇子だけで制止する。
「川の安全はこちらで保障致しますと申しております。黒田湊に守りの兵は一兵とも必要ございません。税を取る必要もないでしょう」
「詭弁を申すな!」
「これは美濃と尾張で交わす取り決めでございます。楯突くのならば、川賊として成敗する所存。ご安心下さい。領地を奪うようなことは致しません。一族郎党共々、根絶やしにするだけでございます」
帰蝶が立ち上がった家臣ににっこりと笑みを返す。
山内家を川賊として愚弄したのだ!
「我が山内家に川賊をやっている者はおらん」
「承知しております。ですから、この話をお持ちしたのです」
「当家を信用していると言うことですかな?」
「はい、信頼できるお方と判断し、父からの使者として来させて頂きました。念の為に申しておきますと、那古野織田家と斎藤家の旗がなびく舟が黒田湊に入ることはありません。それが何を意味するか、よくお考え頂きたい。黒田湊の民の為に!」
盛豊は腕を組んで考え始めた。
断れば、黒田湊は終わる。
一戦すれば、那古野織田家と美濃斎藤家の兵が攻めてくる。
それをきっかけに葉栗郡を落とし、さらに丹羽郡の織田伊勢守家(岩倉織田氏)も攻めてくるかもしれない。
攻めさせる大義名分を与えることになる。
それだけは避けねばならない。
悩む盛豊を見て、帰蝶は微笑んだ。
やはり佐吉丸が評価した通り、盛豊は大層りっぱな方だ。
町のことを考えるりっぱな領主様だ!
帰蝶も町を人質にするようなやり方は好きではない。
でも、四の五の言っていて戦はできない。
好き嫌いではないのだ!
「川賊を退治する為の兵は、織田家の兵でも、斎藤家の兵でも、山内家の兵でもありません。そのことは起請文に書き、お約束致しましょう」
「そんな約束が信じられると思うのか?」
「銭を出すのは津島と加納の商人です。好き勝手に使われては商人らが怒り出すでしょう。黒田湊の兵も山内家の家臣から黒田湊の兵に変えて頂きます。山内家の兵として使われるのを容認できるほど、織田家も斎藤家も心が広くございません」
「最初から断れんと言うことか!」
「申し訳ございません。ここより良き場所がなかったのでございます。どうでしょうか、猿田彦神社でも誘致されて、黒田湊を寺社領とされては如何でしょう」
「そうすれば、山内家の預かり知らぬことにできると?」
盛豊がやっと笑った。
それも嬉しさなどない、乾いた笑いだ。
津島も熱田も寺社領と言う名の自由自治区だ。
はじめから選択の余地すら与えてくれない。
こうして用件が終わった。
帰蝶は黒田城から去ってゆく。
盛豊は黒田湊まで見送ることにした。
「では、後ほど、相互不可侵の起請文の使者を送らせて頂きます」
「何卒、よしなにお願い致します」
盛豊は頭を下げるしかない。
払い退ければ、黒田湊を起点に那古野織田家と斎藤家の蹂躙が始まる。
織田 信安様が生き残る術は、織田弾正忠家と斎藤家の双方に頭を下げるしかないと改めて思った。
揺らぐ舟の上で帰蝶の背中が小さくなってゆく。
睨まれただけで身が竦み、結局、何も言い返せなかった。
盛豊は思う。
蝮の娘はやはり蝮だと!
「肩の荷が降りました」
「帰蝶様も緊張されていたのですか?」
「当然よ! 断られれば、策としては失敗になります」
「引き受けくれてよかったですね!」
「ホントよ!」
恒興はまだ帰蝶様への無礼を怒っている。
忠誠心が厚いのも考えものだ。
もし、盛豊が恒興と同じく思慮もなく、ただ忠誠心を持つ者であったら、後先を考えずに断っていただろう。
計略とは、本当に難しい。
帰蝶は改めてそう思った。




