58.お市と朝食を作ろう。
チョロチョロと水が落ちて、カコンと鹿威しがいい音を鳴らす!
いい湯だな!
肩までつかり、その日の疲れを癒すって…………全然、癒えないよ。
右手に公方様。
正面に稙家様と晴嗣。
左手に久秀。
湯船の外、公方様の側には小姓が太刀を持って控え、入口付近に藤孝と藤英が片膝を突いている。
これはまな板の鯛、それとも湯に漬けられた蛸の気分だ!
公方様が均整の取れたいい体なのは判るが、年の割に稙家様も贅肉のないいい体だ。
しばらく黙って誰からも話そうとしない。
う~ん、もう出たい。
頭がくらくらしてきた。
稙家様が誘ったのだから責任を取ってくれないか?
他の者は夜食を食べている真っ最中だ。
稙家様は夜食の前に風呂を所望された。
公方様を誘われたのは当然の流れだったが、久秀まで誘うとは思いもしなかった。
「義藤、何かしゃべれ!」
「何をしゃべれと申すのですか?」
「まだ意地を張るか!」
公方様は三好が嫌いだからね!
肌に合わないとしか言いようがないのだろう。
「失礼ながら某からよろしいでしょうか?」
「よいぞ、この馬鹿に言いたいことを言ってみろ!」
「我が主は公方様のお気持ちがよく判っておると存じ上げます。ゆえに、公方様の目に入らないように自領に籠り、政務に励んでおります」
「どうだか!」
「我が主も管領 (細川)晴元に父を殺されております。一度は倒すことができたと言え、その憎き親の仇を成敗できない悔しさを知っておるのです。形はどうあれ、公方様の父君を死に追いやったのは我が主でございます。公方様のお気持ちを察するのは当然かと思います」
「それで許せと申すのか?」
「いいえ、申しません。望むのも無理でございましょう。しかし、御政道の為、何卒曲げてご承諾くださいますようお願い申し上げます。どうか、三好家との融和をお考え下さい」
久秀が湯のぎりぎりまで頭を下げた。
公方様も理屈では判っているのだと思う。
だから、和解して京に戻ってきた。
だが、それと感情は別物なのだ!
おそらく三好 長慶という人間が信じられないのだ。
そりゃ、主人であった元管領(細川)晴元を裏切って、(細川)氏綱に付いた訳だ。
だが、それは元管領(細川)晴元が悪い!
「嫌だ!」
しばらく、考えた後に公方様が横を向いて拒絶した。
「馬鹿者、強かに利用してやるという気概はないのか?」
「急いては事を仕損ずる。ここまで頼るということが三好も切羽詰っている証拠ではございませんか?」
「公方様、それは違います」
「魯坊丸、お前は反対ではなかったのか?」
「反対でございます。丹波に波多野家と紛争を控え、いつ裏切るか判らない獅子身中の虫を抱え、管領の細川 氏綱様、紀伊・河内国の守護である畠山 高政様ともしっくりしていない。そんな足腰が不安定な三好家に大事なお市をやれるものですか?」
「ならば、俺に賛同しろ!」
「いいえ、融和の姿勢を崩されてはなりません。天下は再び荒れますが三好が勝ちます。公方様は、『天下の静謐』が崩れることを望まれるのですか?」
「天下の静謐だと!」
「畿内の世が穏やかに治まることを望まないのならば、誰も公方様に味方する者がいなくなります」
割と綺麗に整った顔立ちを歪めて悩み始めた。
頭は悪くなさそうなので、色々と考えているのだろう。
「氏綱、(畠山)高政が離反するのではないのか?」
「面従腹背とでも申しましょうか。格式の低い三好家の風下にいるのをいつまでも良しとしていないでしょう。しかし、今のままでは勝てないから味方でいる状態でございます。三好家が弱みを見せた瞬間に離反して敵に回るでしょう。所詮は佞臣の叛乱に過ぎません。大義をもって三好と対峙する意気込みがございません。勝てる訳もございません。それに公方様と三好家が戦えば、都合よく利用されることになります」
「それは詰まらんな! 魯坊丸、おまえならば、どうする?」
「そうですね! 稙家様の顔を立てて、去年の朝廷領・公家領の年貢の2割を正しく納めよとお触れを出します。三好が少なくとも摂津・河内・和泉・阿波の四カ国の年貢を納めさせれば、前向きに検討するというのはどうでしょうか?」
「検討するだけか?」
「こちらもお市が嫁ぐのにふさわしい国に成れるか試させて頂かないと承服できません」
こちらから肥料である『蝮土』の技術を提供しよう。
石高が上がれば、それだけ余裕が生まれる。
それを国内の安定の為に使うか、領地拡大の為に使うか、それが三好の指標となる。
民を喜ばし、笑顔が溢れる国にならないならば、お市はやらん。
「言っておきますが、うちのお市はじゃじゃ馬でございます。気に入らなければ、1日で尾張に帰ってしまいます」
「人質の所業ではないな?」
「公方様、俺はお市を人質にやるつもりはございません。また、土田御前は信勝兄ぃの正室を貰うつもりですが、三好家から人質として貰うつもりもございません。三好家の姫は必ず幸せにすることを約束しましょう。ゆえに、三好家には笑顔が溢れる国を作って頂きます。お市が気にいる国を作るのは骨ですぞ!」
「ははは、それは面白い。久秀、それでよいか?」
「ありがとうございます」
「稙家様、これで文句はないな!」
「実行して貰わねば困る」
「それは三好次第だ!」
「必ずや、納めさせます」
よし、まとまった。
小さく拳を握ろうとしたが力が入らない。
うへぇ、もう意識が、もう駄目だ!
茹でダコになった俺は戦線を離脱し、心の中で叫んでいた。
勝介、悪いが後を頼む!
◇◇◇
ちゅん、ちゅん、ちゅん、雀が庭で遊ぶ声に目を覚ました。
どうやら首は繋がっていたらしい。
最後の方は記憶が曖昧だ。
風呂に入ったまま、誰もしゃべらなかったハズだがどうなった?
思い出せん。
公方様の声で千代女が風呂場に入って来て、俺を連れ出してくれたらしい。
千代女は風呂の話を知らなかった。
後で、晴嗣にでも聞くか!
風呂から上がった稙家様と公方様が会場に戻ると、そのまま夜食を食べて、宴会へとなだれ込んだらしい。
それは拙いな!
公家様と武家を別けることに失敗し、公家と武家が入り混じって酒を朝まで呑み明かした。
酔った勢いで刃傷沙汰が起こらなくて本当に助かった。
位の高い公家様に何かあれば、大騒動だ!
目を覚ました者から順に風呂に入れて、さっぱりさせると朝もやの中を帰って貰ったと言う。
織田と寺の者は朝まで、その接待に大忙しだったのだろう。
勝介には悪いことをした。
今朝、日が昇っても寺は静かだ!
今日の午後の工事も訓練も中止と通達した。
まぁ、特に意味はない。
皆、朝まで警備をしていた訳であり、午後からもゆっくり休んで貰いたい。
指示を出さないと、変な所で真面目だからね!
今日のお勉強会も中止と使者がやってきた。
肝心の公家様は朝帰りであり、今頃、寝ているか、腹を抱えてうなされているかのどちらかだ。
心残りは稙家様に預けた『医食同源』の医学書だ。
生活の百科事典のようなもので大したことは書いていない。
その中に卵が体にいいと何度も書き綴った。
加持祈祷に効果はあるが耐えきった病魔は強くなり、加持祈祷を長く続けても病魔退散にならない。
ゆえに、普段から体を鍛えておくのが良いなどと、恥ずかしいことを沢山書いてしまった。
卵を食べていないことを前提に、卵粥や卵酒を推奨していた。
返して貰って書き直したい。
どたどたどた、とても慌てた様子でお市が部屋に入ってきた。
「魯兄じゃ、大変なのじゃ!」
「どうかしたか?」
「わらわはまだ夜食を食べてないのじゃ!」
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何と言えば、いいのだろうか?
お市は平常運転だ!
「ふふふ、わかった。朝ごはんに夜食 (残り物)を食べに行こう」
「やはり、魯兄じゃは話が早いのじゃ」
えっ、全部食べ切った?
奥さん、餓鬼がいましたよ。
あり得ない。
一班300人分の材料を持ってきたよな?
どれだけ食ったのだよ。
「お市、手を切るなよ!」
「判っているのじゃ!」
「千代、お市を頼む」
「お任せ下さい」
兵舎の台所に移動すると皆を起こすのも悪いと思って、俺、お市、千代女の三人で朝食を作った。
目玉焼き丼と野菜炒めだ。
塩と梅酢を入れて味を整える。
出来は三流だが、はじめての料理にお市は喜んだ!
まぁ、これもありですか!




