48.岩室重休の困惑、春の一夜の悪夢!
お市様に権大納言飛鳥井-雅綱の猶子の話が上がり、その手紙を末森城に持っていった長門守(岩室-重休)は、国人衆でしかない丹羽-氏勝の話は流れたと思った。
「東尾張を統一し、三河へ進攻する。これは決定事項だ」
信勝様は一度決まったことを差し戻すことを嫌がった。
「信勝様、近衛家が仲介した申し入れを断ることはできません」
「勝手に横槍を入れてきたのは飛鳥井家であろう」
「断れば、朝廷と幕府の双方から不興を買われます」
「だから、それを何とかせよと言っておる」
「しかし」
「兄上(信長)はどう考えられておる?」
「お受けするしかないと存じ上げます」
「信勝様、これでは面子を潰された丹羽-氏勝がどうでるか判りません」
「そうだな」
お市を嫁にやると言ったのは信勝であった。
今更、なかったことにと言い出せない。
特に交渉にあたった津々木-蔵人は猛烈に反対した。
(蔵人):お市様を差し上げます。
(氏勝):織田とは対等同盟だ。それ以外は受けん。
(蔵人):また、来させて頂きます。
(氏勝側近):殿、織田の姫が上洛し、天女と噂されておりますぞ。
(氏勝):天女か?
(氏勝側近):天女は富の象徴であります。巧く利用すれば、織田本家を乗っ取れるかもしれません。
(氏勝):よし、使いを出せ。
(蔵人):お呼びにより参上したしました。
(氏勝):上洛した姫、天女を頂けるなら臣従してやろう。
(蔵人):ありがとうございます。直ちに手筈を整えて参ります。
(氏勝側近):容易い奴でございますな。
(氏勝):ははは、これで俺も織田準一門だ。次は末森の筆頭家老でも要求するか?
氏勝の思惑など知らない蔵人は話を進めた。
しかし、家老達が一門衆にも話さないと、後々の問題になると抵抗され、一門衆を緊急に招集した訳であった。
実際、一門衆の招集に来たのは信長のみだ。
お市の婚姻を半ば強引に認めさせた。
そう思っていると、長門守が魯坊丸の手紙を持って戻ってきたのだ。
はじめから仕掛けられた謀略ではないか?
信勝様を貶めるつもりか?
蔵人はそう思いたくなるほど、信長に不審を抱いていた。
いずれにしろ、蔵人の面子は丸つぶれだった。
「決まったことをコロコロと話を変えては、織田家 (信勝様)の面目が立ちません」
「飛鳥井家、近衛家の面目はどうなる?」
「某の知る所でございません。そちらは魯坊丸様が責任をお取りになればよろしい」
こいつ何を言っているのだ?
長門守は耳を疑った。
信勝の面目を優先にして、飛鳥井家の猶子の話を断れと言う。
あり得ない。
「正気でございますか? 魯坊丸様が腹を切った程度で収まりませんぞ」
「切らせればよかろう。後はなんとかなるであろう」
「無茶を言いなさるな」
「無茶を言ってきたのは魯坊丸様だ」
愚者の蔵人は開き直って反論してきたのだ。
末森の家老は『またか』と首を横に振っていた。
話は平行線を辿った。
長門守は末森城の一室で何度目かの休憩を取っていた。
長々と続く、口論に決着が付かない。
休憩、夕餉、休憩、夜食、休憩、仮眠、休憩を挟んだ。
日が暮れたと思うと、すでに明るくなっていた。
信勝は氏勝を臣従させ、その後の鳴海・大高・沓掛三城を攻略し、三河へ進攻することに拘っていた。
そこで蔵人が出してきた案は、氏勝を上洛させて、お市と同じ従五位を頂くと言う。
近衛家を通せば、角も立たない。
格式が同じならば、飛鳥井家も文句を言わない。
一緒に休憩を取っていた東加藤の加藤-順盛が尋ねてきた。
「長門守は蔵人の話を聞いて、どう思われましたか?」
「可能であれば、素晴らしい案ですな」
「可能であればですか?」
「此度の上洛に一万貫文の費用を投じました。氏勝殿は朝廷や幕府に貢献されておりませんので、双方に一万貫文の献金を行い。その上で一万貫文を投じて上洛すれば、あるいは官位を貰えるかもしれません」
「ははは、そんな銭があれば、氏勝は織田と同盟などせずに攻めてきておるわ」
「某もそう考えます」
蔵人は織田が銭を貸すと言っている。
そんな銭があるなら、傭兵を一万人ほど雇って岩崎城を取り囲めば、容易く陥落すると思えた。
しかし、末森の家老らは歯切れが悪い。
「単刀直入にお聞き致します。何故、交渉を長引かせたいのですか?」
「ははは、もうバレてしまいましたか。流石、信長様の懐刀の長門守様でございますな」
「やはり、そうでしたか。理由を聞かせて頂けますか?」
「交渉が長引けば、それだけ国境が維持できるからです」
「国境ですか?」
「我が領地の開拓が終わっておらず、無駄な労力を割きたくないと言うのが本音です。氏勝が臣従して、国境が遠くなるのは困るのです」
長門守は首を傾げた?
何故ならば、加藤-順盛の居城である高針城は柴田勝家の下社城の南にある最前線であった。
南に森を隔てて、丹羽方の赤池城と接している。
東に氏勝の居城である岩崎城と1里 (3.9km)しか離れていない。
最も危険な所に位置していた。
「国境には砦がありましてな。その兵が開拓を手伝ってくれるのです。この無償の労働力を失うのは惜しい。暇があれば、工事を手伝い、訓練と称して鹿や猪も狩ってくれる。しかも、その肉を村に納めてくれる。国境が遠のけば、彼らも遠くに行ってしまうでしょう。それでは困るのです」
「それで交渉を長引かせているのですか?」
「上社城、下社城の柴田家、平針城の小野田家、猪子石城の横地家、米田城の簗田家も同じでしょう」
東加藤家など、東尾張の領主らは熱田の黒鍬衆を各100人ほど雇って、自領の開拓を行っていた。
黒鍬衆は日当で三五文も掛かる高い借り物であった。
日当三五文は大工と同じだ。
(旧暦1年360日で換算すると、一人12貫文と600文になる)
つまり、高給取りだ。
足軽の日当は10合(米1.5kg、10文)だ。
召し抱えられた足軽でも本給四貫文、扶持(家族手当)一貫文を足して、五貫文と言われた。
織田の足軽は乱取・横領を禁止されているので、それを加味して七貫文を払っていた。
(実際には銭で年貢を払うのは形骸化されており、七石の米で払われていた。酷いところだと雑穀がかなりの割合で入る場合もあった)
それと比較しても、黒鍬衆の貸賃は高い。
しかし高いだけあって作業も技能も文句の付け所もなかった。
国境が近く、開拓警備の為に無償の兵が付いた。
兵の費用がタダだ。
つまり、実質の貸賃が大幅な減額になるのだ。
これはお得だった。
末森の家老らは割とセコい理由で氏勝との交渉を長引かせていた。
「セコいとは何ですか? 年に1,260貫文は一領主では死活問題になる額ですぞ。一万貫文もポイと出す。那古野とは事情が違うのです」
「那古野とて、ポイと出した訳ではございません」
「ならば、ご理解頂けますでしょう?」
「しかし、足りない分は貸してくれるのでしょう」
「それはそれ、これはこれです。作業が捗るのです。作物が増えて収穫が増える。その分だけ早く、返せる目途が立ち民も喜んでおります」
「なるほど」
「魯坊丸様に巧くしてやられております」
「人を貸すだけで大儲けですな」
「まったくです」
順盛は自分の頭を叩いておどけてみせた。
ひょうきんなおっさんであった。
その瞬間、長門守ははっと気が付いた。
人夫と思って考えていなかったが、魯坊丸様はご自前の兵をいくら持っているのだろうか?
熱田で500人、東尾張で1,000人 (鍬衆500人、守備兵500人)、那古野の指導員に500人、守山や勝幡に500人、美濃・東美濃・牛屋(大垣)に500人程度、そして、上洛で1,500人を増やした。
合わせておおよそ4,500人だ。
そこに忍び500人以上が加わる。
この尾張で最大兵力を持っているのは魯坊丸様ではないか!?
気が付かなかった。
長門守は背中に冷たいモノを感じた。
どうでもいい話だが、敢えて言っておこう。
魯坊丸が思っている戦力は黒鍬衆100人しかいない。
そうだ!
魯坊丸が自由にできる黒鍬衆は中根南城で召し抱えている100人のみである。
他の者を動かすのは契約違反になる。
少なくとも魯坊丸はそう考えている。
技能を習得した黒鍬衆は、5人組を作らせ親方として独立させた上で、95人を新たに雇わせて鍬衆を結成する。
魯坊丸が派遣しているのは黒鍬衆ではなく、ただの鍬衆だ。
彼らは戦闘も行えるが、基本的に土木作業員でしかない。
一代目、二代目が親方として独立し、各地に派遣されていた。
三代目が独立すると、20組の鍬衆が誕生し、次の開拓場に派遣する。
魯坊丸のお仕事は、彼らの仕事を見つけて斡旋しているに過ぎない。
神学校に通い黒鍬衆になりたい者を集めて黒鍬予科衆を結成し、次の四期、五期、六期を育てており、三代目が独立すると予科衆が繰り上がって四代目になる。
魯坊丸株式会社は、下請けの子会社を作っているつもりなので、個人の戦力というイメージをまったく持っていなかった。
用心深い癖に、どこか極楽トンボのような魯坊丸であった。
閑話休題。
これまでのことを思い返し、長門守の目が鋭くなった。
報告では、丹羽方の赤池、浅田が攻めて来ていたと書かれてあった。
数は明記されていない。
村人だけで撃退し、領主が出陣することもないので小規模な戦と思っていた。
もし、これが20人から30人の小規模ではなく、200人から300人の中規模な本格的な兵力であったと仮定すると、まったく違った事実が浮かび上がってくる。
赤池、浅田の保有する主兵力では相手にされなかった?
多大な被害を出した上で、織田の兵が到着する前に撃退されたことになる?
赤池、浅田の兵は織田に恐怖した。
なぜならば、追撃されれば、赤池城と浅田城は陥落してもおかしくない?
それを何度か繰り返せば、織田の意図を感じるだろう。
潰すつもりなら、いつでもできるという確固たる意志だ。
もちろん、末森織田にそんな意図はない。
そもそも信勝はそれを知らない。
家老に至っては、国境線を変えたくないという下らない理由の為に攻めていない。
「各城主から降伏の書状が届いておりますな?」
「ははは、そんなことまで判りますか」
長門守はこめかみを押さえて首を振った。
あり得ない怠慢だ。
その気になれば、東尾張はいつでも統一できるのではないのだろうか?
山口親子も丹羽氏勝も生かされているだけなのかもしれない。
そう錯覚させられるほどの自信が 順盛から窺えた。
「このことを信勝様は?」
「まだ、お知らせしておりません」
「どのような理由ですか?」
「信勝様は氏勝の臣従を望んでおられます。寝返る事を言ってきた者には、氏勝を説得し、丹羽家として臣従して貰いたいと伝えてあります」
「裏切っておらぬと」
「主君の意図を察して動いているだけでございます」
狡猾な狸だった。
信勝様も苦労される訳だ。
「お市様の御婚礼はどういうことですか?」
「ははは、あんな田舎国人にお市様は勿体ない」
「適当な所で潰すつもりでしたか?」
「当然ですな。だが、今回の話は渡りに舟です」
順盛は大声で笑っていた。
末森の家老衆は新参者の柴田勝家と蔵人を除けば、意志は統一されていたのだ。
長門守は下らない茶番に付き合わされていると悟った。
◇◇◇
軽い朝餉を頂き、休憩が終わって談議が再開された。
長門守は猿芝居を見せられる。
此処まで一昼夜続けてきた議論はほとんど無意味な事だった。
そう思ってみると、必死に東尾張の統一を考える信勝様が憐れに見えてきた。
信勝様には魯坊丸様も帰蝶様もおられない。
蔵人では力不足であった。
「まだ、続けていたのですか?」
土田御前様が部屋に入って来て言った。
「信長がお市の輿入れに反対しているのですか?」
「申し上げます。信長様は一切反対されておりません」
「では、何を話し合っているのです?」
土田御前様にお市様の猶子の話と拝謁の話をする。
「なんと素晴らしいことでしょう」
「母上、これでは丹羽氏勝との婚儀ができません」
「当然です。家格が違います」
土田御前様の反応が普通なのだ。
お市様が従五位相当になった時点で流れて当然だった。
それを一晩中も話し合っていた。
「それで、氏勝には上洛して頂き、官位を貰って頂こうという話をしておったのです」
「それは涙ぐましい努力ですね。もし、家格を揃えることができたなら、もう一度考えてあげましょう」
「ですから、我らがそれを手助けして」
「信勝、間違ってはいけません。家格を上げるべきは氏勝です」
土田御前様の一言ですべて決まってしまった。
長門守はほっとした。
これで帰れる。
しかし、そこで襖が開けられた。
那古野から使者が来たのだ。
「急ぎ、魯坊丸様のお手紙と書状をお届けに参りました」
長門守に届けられた手紙を土田御前様が奪い取って見た。
何が書かれているのか?
長門守も一切判らない。
「まぁ、まぁ、まぁ、素晴らしいわ」
「母上!?」
「信勝もこれを読みなさい」
受け取った手紙を読んで、信勝が震え出した。
怒ったような、困ったような、複雑な顔であった。
「信勝様」
「読め」
捨てるように手紙を放り投げた。
余程不満なことが書いてあったのだろう。
「長門守」
「何でございましょう」
「三好との婚姻を織田家として前向きに進めよ。嫌ぁ、待て、手紙はこちらから認める。信長は何もするなと申しておけ」
「畏まりました」
とにかく、談議は終わった。
何があったのか、一切教えて貰うことなく返された。
不毛な一夜であった。
那古野に向かう長門守の足取りは重かった。
◇◇◇
おかしいのじゃ。
わらわの話なのに、お市の登場シーンがないのはおかしいのじゃ。
断固反対するのじゃ。
書き直しを要求するのじゃ。
登場シーンがないお市様が怒っていたそうです。




