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【書籍化】魯鈍の人(ロドンノヒト) ~信長の弟、信秀の十男と言われて~  作者: 牛一(ドン)
第3章 『引き籠りニート希望の戦国宰相、ごろごろ目指して爆走中!?』
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蛇足2.謙信大族長、生き残ったインディアン。

上杉-謙信(うえすぎ-けんしん)は苛立っていた。

函館港から次々に関東の民が樺太、極東大陸に向けて出航するが、同じように長官職を命じられた越後・奥州の領主達は函館に留まっていたからだ。

武田-信玄(たけだ-しんげん)が居なくなった評定で、謙信(けんしん)織田-信勝(おだ-のぶかつ)を睨み付けた。

ビクぅっとその殺気が信勝(のぶかつ)の体を震えさせた。

じじじじじっっと謙信(けんしん)が睨み続けと、信勝(のぶかつ)がじりっじりっと後ろに下がってしまう。


謙信(けんしん)殿、お待ち下され」


柴田-勝家(しばた-かついえ)が二人の間に体を入れた。

実際、謙信(けんしん)は一歩も動いていない。

そして、一言も発していなかった。


権六(ごんろく)殿、何か用か?」


そう逆に問われて戸惑うのは勝家(かついえ)の方である。

今にも一刀両断にして仕舞いそうな殺気を放ち、信勝(のぶかつ)を睨んでいながら「何か用か」と逆に問う。

謙信(けんしん)の中では理由が明白であり、どうしようもない事が理解できているが納得できないだけなのだ。

信勝(のぶかつ)を守っていた浅井-長政(あざい-ながまさ)松平-元康(まつだいら-もとやす)も居なくなった。

敵が減ったが味方も減った。

勝家(かついえ)登別(のぼりべつ)(水の色の濃い川)に開発すれば35万石相当の領地を頂いたが、距離が比較的近いので領地を家臣に任せて函館に残っていた。

殺気を勝家(かついえ)が引き受けてくれたので、信勝(のぶかつ)はやっと口が開けた。


「何が望みだ?」

「望み???」

「そうだ。望みだ。何故睨む?」

「何故?」


謙信(けんしん)が腕を組んで首を捻った。

舎路(シアトル)に港が造れないと物資は運べない。

どんな早くとも船の調達が無理なので2年後と言われていた。

謙信(けんしん)もそれは理解できる。

理解できるが納得できない。

2年間もヤルべき事もなく、蝦夷の地で時間を潰せと言われている事だ。

考える謙信(けんしん)に誰も声を掛けない。

ただ、長い沈黙が続いた。


「調査団に参加したい」

「構わん。許す。よきに計らえ」

「ありがたき幸せ」


調査団は短くとも3ヶ月は居なくなる。

長い場合、半年は海の上だ。

謙信(けんしん)が居なくなってくれるならば、それだけで良いと信勝(のぶかつ)は咄嗟に許してしまった。


「おぉ、お待ち下され」


慌てたのは右筆の酒井-康忠(さかい-やすただ)だ。

海の上は危険であり、調査隊の何隻かが嵐で遭難して亡くなっていた。

行方不明の者もいる。

間違って流氷などに当たると沈没は免れない。

すでに5隻の連絡船を失い、補充していた。

海の上は死と隣り合わせだ。

そこに当主が自ら調査に出るというのは危険であった。


「せめて船に乗るのは家老にして頂けませんか?」

「決めた。俺が行く」

謙信(けんしん)様」


謙信(けんしん)の気持ちは変わらない。

康忠(やすただ)は焦った。

次の調査は無理をして300石帆船1隻で舎路(シアトル)に3ヶ月ほど送る。

行きと帰りで延べ5ヶ月と考えていた。

これでも伊達家と上杉家の顔を立てた計画であった。

やっと海図ができたばかりだ。

陸地の調査はこれからであり、どんな危険があるか判らない。

仮に舎路(シアトル)周辺で食料の確保が可能ならば、人材を送って港の建造に着手できる。

食料の確保が無理ならば、船が確保できるまで2年は待って貰う事を説得する為の調査であった。

謙信(けんしん)を説得する為の調査船に謙信(けんしん)が乗る?

本末転倒だった。


連絡船は50石しかなく、荷を積むと近距離しか移動できない。

だから、島を転々と移動しながら舎路(シアトル)へ続く、島々に港を造って海路を作る。

港ができれば、300石船で港を移動して物資を一気に運んで次の島を目指した。


300石帆船はそれを無視して直接に大海を渡る能力があった。

だが、万が一の場合、一隻では対処できない事がある。

それ故に船団を組む。

だが、肝心の船がない。

そこで連絡船を代用する事にした。

資材を一切積まず、食料のみを余分に積んだ連絡船を3隻同行させる。

最悪の場合でも謙信(けんしん)に乗り移って貰って函館に連れ帰る為だ。

こうして、謙信(けんしん)は家臣20名と伊達家6名が乗船して、帆船1隻と連絡船3隻で船団で舎路(シアトル)に向かった。

イスパニア艦隊が来訪する少し前の春先の事であった。


 ◇◇◇


シアトルは先住民スクアミシュ族が住んでいる土地であった。

19世紀にこの地に住む先住民をインディアン居留地へ強制移住させ、その時のシアトル酋長の名を取ってシアトルとされた。

そんな逸話を信照(のぶてる)は知らない。

野球と地図で知っている程度の知識だった。

測量の結果、意外と緯度が高いので寒い土地と勝手に思い込んだ。

寒い土地ならば居住者も限定されると思った。

上杉家の管理区は緯度で言えば、札幌より少し高い所まであった。

信照(のぶてる)の勘違いであった。

そして、信照(のぶてる)が付けた舎路(シアトル)の地名は、偶然にも酋長の名と同じだった為に第一次調査隊は歓迎された。


第2次調査隊の船団は戦々恐々としながら珍しいガラスの製品などを土産に送った事で喜んで貰えた。

土地の調査と言語の習得であり、調査の許可を貰えたようだった。

出会う部族がすべて違う言葉を話しているが、1つを習得できれば、後は簡単に進むと考えて習得を急いだ。

しかし、言葉も通じない中で謙信(けんしん)は先住民と仲良くなっていた。

共に狩りや漁をして酒を飲み交わす。

土地の酒を頂き、日の本の酒を差し出して飲み交わした。

完全に調和したので、調査は順調に進んだ。


この周辺の先住民は階級社会であり、謙信(けんしん)は貴族と思われていたようだ。

だが、友好的な関係も10日ほどで崩れた。

謙信(けんしん)が「この地の支配者として来た」と言うと、侵略者と訳されたのか険悪な空気も一時的に流れた。

集落を離れて暮らす事になり、調査も一時的に中止される事態になった。


だがしかし、謙信(けんしん)は強運であった。

森の悪魔と呼ばれる『巨大熊』が出現し、30軒700人ほどの村が壊滅しそうになった所で介入し、謙信(けんしん)は巨大熊を退治して英雄となった。

謙信(けんしん)は再び村に受け入れられた。

強者には従うようだ。

追い出す予定も生活を変えさせる予定もないと理解して貰えて友好的な関係が構築できた。

第2次調査は成功の内に終了するかと思われたのだが・・・・・・・・・・・・。


『儂は残る事に決めた』


???

寝耳に水か、驚天動地(きょうてんどうち)だった。

調査の3ヶ月が終わる頃に謙信(けんしん)はそのまま残ると言い出したのだ。

調査隊は目が点になった。


実は舎路(シアトル)の気候は非常に温暖であり、冬でも0度を割るのは2週間程度であり、越後より遙かに暖かい。

謙信(けんしん)らが冬を越す事は難しい事ではなかった。

しかし、緯度を考えると蝦夷 (北海道)の最北部より北であり、雪に埋もれると考えていた。

冬は川の水も凍って、水の入手も困難になると思われた。

また、緯度から考えて夏用の簡易テントで凍える寒さに耐えられる訳がない。

テントの中では火が使えない。

簡素な先住民の小屋でどうやって冬を越しているのかは疑問であったが、それは第3次調査隊以降が調べる事になる。

冬を越す準備をしていない第2次調査隊が居残るのは自殺行為に思えたのだ。

だが、言い出した謙信(けんしん)を止められる者はいない。

5人ほどの技術者を残して、冬までに居残り組でレンガと木の家を建てる事になる。


だがしかし、道具らしい道具を用意せずに可能なのだろうか?

どうしようもない心配を残して第2次調査隊は帰国の途に就いた。

1ヶ月後、船団が函館に戻ると上杉家の家臣が大騒ぎだ。

予想通りだった。

家臣らは資材と物資を調達して舎路(シアトル)に向かうと言い出し、船が足りないならば、南部家を襲ってでも調達すると言う。

右筆の酒井-康忠(さかい-やすただ)はイスパニアとの決戦が終わった信照(のぶてる)(すが)るしか手がなかった。


そして、1ヶ月後の8月中旬に戦艦『尾張』 (1,000石級)とガレオン船 (3,000石級)2隻、キャラック船 (3,000石級)1隻が到着する。

越後勢が歓喜した。

しかも船内の荷倉には、プレハブの住居セットと食料も乗っており、すぐに出航できる状態だったのだ。

さらに、今後の港などを建造する資材一式の送り届け帳の一式を添えてあった。

ただ、その見積もり書の額を見ると、斎藤-朝信(さいとう-とものぶ)宇佐美-定満(うさみ-さだみつ)が泡を吹いて倒れそうになった。

丸が幾つ並んでいるのかが判らない請求書が添えられていたからだ。


『特急料金』


請求書の頭にそう大きく書かれていた。

2枚目は支払い計画書が添えられていた。

金利1割で10年間の返済を待ってくれるのは嬉しいが、その後の100年返済計画を見るだけで脂汗が染み出た。


『銭になる資源を見つけて、早めに返済してくれて結構』


信照(のぶてる)の気軽さに呆れた。


定満(さだみつ)殿、この金額を返せるモノなのですか?」

「判らん。だが、越後が3つほど買えそう額だな。見たこともないぞ」

「では、この額は暴利なのでしょうか?」

「そうとも言えない。大型の船一隻で城1つが買える利益を上げる。南蛮貿易に使えば、この何倍の利益を得る事ができる。誠意ある額であるのは間違いない」

「これが誠意ですか?」

「目がくらむ額ではあるがな」


定満(さだみつ)はさらに言う。

2年待てば、大型船の数が増えて借りる価格が下がる。

資材も現地で調達する目途が立てば半分に下がり、人材もこちらで育てれば、さらに半分になる。

その2年で資源か、交易品が見つかれば、ゼロの数が幾つか目減りする。

金利1割でも10年経つと2.71倍に膨らむ。

その総額の1割と少しを100年返済だ。

一生払い続けるような気の遠くなる返済計画だった。


「10年後から金利1割を払いながら、元金は返せる時に返せというモノですな」

「その返済の1割で越後が得た収入の5割を軽く超えているのだぞ?」

「果たして、10年でそれだけの収益が上がるのですか。見物ですな、はっははは」


定満(さだみつ)は自分が生きている間に返せる額でないので開き直った。

謙信(けんしん)の暴走が北米の運命を変えるとは誰も知らない。


 ◇◇◇


1542年にカリフォルニア島に到着したフアン・ロドリゲス・カブリリョはイスパニア領と宣言した。

フアン・ロドリゲス・カブリリョは原住民のトンヴァ族と戦い、その傷が元で死亡するが、イスパニアはカリフォルニアまで進出していたのだ。

1562年3月に日の本とイスパニアの艦隊が長崎沖で戦った。

大敗北を喫したイスパニアの艦隊はその年の内に呂宋(ルソン)を追われ、アジアの拠点を失った。

その2年後、一向に進展しない太平洋側の攻略を諦めて、イスパニアは方針を大転換した。

北上して北米を占領する方針に変えたのだ。

大船団が北上し、イスパニア船団が南西部とカリフォルニアを制圧した。

カリフォルニアの先住民の多くが奴隷とされ、運良く逃げた者は北西沿岸部へと逃げてきた。

逃げる先住民を追ってイスパニア軍も北上した。


上杉家と伊達家は予想以上に温暖な気候に助けられて開拓が進んでいた。

広がる農地に対して、水路の確保の河川改修が遅れていた。

銀山と銅山が発見されて財政面でも返済を開始できる目途が付いて来た。

謙信(けんしん)は相も変わらず、様々な先住民らと狩りを楽しむ。

先住民の生活が一変した。

上杉・伊達から送られる食料で調達の必要が無くなり、寺子屋で学校も始まる。

漁で取った魚を売れば、銭が手に入り、貴重品が買えた。

物々交換から流通社会が突然に訪れた。

最大の変化が馬であり、日の本から連れて来た馬が高値で売れた。

この馬は北米中央の大平原部の先住民からも購入が相次いだ。

日の本では増産体制が確立していたので、幾らでも輸出できる体制が整っていたのだ。

南部家は馬を畜産しているが、自領に配布する分を輸出に廻した。

そんな景気がよくなって来た上杉家と共存するスクアミシュ族を通して援軍の要請が来たのだ。

義の謙信(けんしん)は引き受けた。

もし、謙信(けんしん)の暴走がなければ、移民は始まったばかりで援軍を出す事など不可能であった。

謙信(けんしん)の行動が先住民の運命を変えた瞬間だったのだ。


南下した上杉軍2,000人がイスパニア軍と対峙した。

鉄砲はイスパニア軍の専売特許ではない。

馬と鉄砲を持つ上杉軍は正面から敵を追い払い、ゲリラ戦で補給路を断つと敵を追い払った。

追撃戦には先住民も加わる。

怒り狂った司令官は船団を廻して海から北西沿岸部を襲うと決意したが、それこそ荷を下ろしていた織田家の船団が待ち受けて蹴散らされた。

イスパニア艦隊はアカプルコまで後退した。

取り残された南西部とカリフォルニアのイスパニア軍は慌てたが、上杉軍と先住民が協力して取り戻す事はできなかった。

何故ならば、上杉軍の総数が少なく、敵から占領地を取り戻しても維持する為の兵が足りない。

何よりも奪われた先住民達の協力が得られない状況になっていたのだ。


なんと先住民の中は天然痘(てんねんとう)が発病する者が現れると、あっという間に広がり、村ごと病人と化すような状況が起こった。

支援の物流が仇となり、北西沿岸部の全域で大流行した。

前線では免疫力を持たない先住民がバタバタと倒れて戦闘を維持できる者がいなくなったからだ。

治療や輸送の為に上杉軍の全勢力が注がれた。

戦闘維持など不可能だった。


さて、この天然痘(てんねんとう)は南東部から広がり、西南部、大盆地部、北西沿岸部、大平原部、北東部へと広がっていた。

南東部では、死にゆく先住民を見て、イスパニア人らは財産を奪うと言う外道な行為に奔っており、逃げ出した南東部の住民が大陸全土に天然痘(てんねんとう)を広げる原因を作った。

どうしてこんな事になったのかと、善良なイスパニア人らは顔を背けて、母国の行為を呪ったと言う。


元々南東部ではイスパニア移民は友好的に進められており、先住民を神秘的な者と扱っていて共存関係を築いていた。

しかし、支配者が変わると方針が変わり、財産を略奪して奴隷のように扱うようになっていった。

それでも契約の範疇に留まっており、契約を犯した部族、反抗的な部族に限られていたが、天然痘(てんねんとう)が流行すると、我先にと村々を襲い出した。

どうせ死ぬのだ。

早く奪わないと他の者に奪われる?

そんな動機で襲い出した。

先住民も多くの戦士を抱えており、共同で防衛戦を持っていた訳だが、天然痘(てんねんとう)で戦士も倒れ、防戦戦が崩壊した。

戦力を失った哀れな先住民達は、暴徒軍の前に蹂躙されたのだ。

防衛力の崩壊が南東部の命運を尽きさせた。


逃亡者によって天然痘(てんねんとう)が一気に北米中に広がると、北米全域で先住民がバタバタと死んで行く。

上杉家は日の本に救援を頼むと救援物資が送られてきたが、本格的な救援隊が到着したのは半年後の事であった。


実際、治療は水分補給、症状の緩和、呼吸補助、血圧維持しかできない。

抗ウイルス薬を何十万人分も用意する事など不可能であり、救援に向かう医療人員に予防接種するのに時間が掛かった為だ。


東に進むほど治療は手遅れとなり、50年後にイギリスやフランスの移民者がやって来る北東部の先住民は全滅に近かった。

ともかく、北西沿岸部と友好があった大平原部の被害が抑えられた。

先住民の人口は150万人から80万人程度に減った事は悲しい事であったが、北西沿岸部と大平原部では、部族を維持するだけの人口が生き残れた。

こうして、曖昧の儘に戦闘は終結した。


10年後 (1575年)、北米南部を奪われた先住民が反撃を開始した。

北西沿岸部・大平原部の先住民大連合の逆襲だ。

主力は上杉・伊達連合が受け持った。

その年の内にカリフォルニアを奪還すると、翌年には大盆地部、西南部と奪還し、南東部のフロリダまで進軍した。

しかし、ここで停滞する。

謙信(けんしん)は連戦連勝で全域を取り戻したが、軍が移動するとイスパニア軍が戻って来て取り戻した。

イスパニア軍というか、イスパニア海賊である。

救援を受けて軍を戻すと逃げて行く。

何度取り戻しても再上陸されて再度奪還された。

統一性のないイスパニア海賊は余りにも不規則なのだ。

かと言って、すべての町に兵を残す余裕もない。

この大陸は広すぎる。

敵であるイスパニア移民も避難しており、双方に大きな人的被害もない儘に時間を浪費した。


1578年、謙信(けんしん)は決戦を決断し、メキシコ北部へと進路を変えた。

敵の拠点を奪い、可能ならば船を奪ってカリブ海へ進出する。

中米の拠点を押さえれば、イスパニア軍の抵抗が小さくなると考えたのだ。

だがしかし、イスパニア軍はこの日の為の『グランドウォール』と呼ばれる要塞郡を用意していた。

二百三高地を思わせる要塞郡が行く手を阻む。

が、日の本から援軍である迫撃砲隊が要塞を無力化した。


『上杉隊、突撃!』


謙信(けんしん)が塹壕から突撃して要塞を次々と陥落させると、敵は大高原まで後退して決戦に挑んで来た。

もちろん、上杉・伊達軍の完勝であった。

この勝利でカリブ海の海賊の一派が交渉を求めて来た。

この後、上杉・伊達軍が拠点港を奪えば、上杉・伊達軍は船を手に入れる。

仮に自ら町を破壊すれば、イスパニア軍は本土から船を持ってくる事が必要になり、修理も儘ならず、その行動範囲が限られてくる。

そして、時間を掛ければ、そこで上杉・伊達軍の船が建造される。

早いか、遅いかの違いでしかない。

それを見越しての行動だった。

まぁ、カリブ海の海賊の一派がイスパニア軍を見限った瞬間だったのだ。


一方、海上からは北海船団がアカプルコのイスパニア船団を苦しめていた。

日の本の船は大砲が少ない。

しかし、精密砲撃で射程外から船を狙ってくる。

勝てる見込みがまったくない。

北海船団はわずか12隻であり、その半分が輸送に使われていた。

6隻が大小100隻はある中米イスパニア水軍を圧倒していた。

まぁ、先住民が使う漁船船団も100隻近くあったので、船の総数で負けている訳ではないが、漁船は漁船だ。

軍艦ではない。

ただ、船から船への物資の搬送に役立っていた。


上杉・伊達軍は勝利の美酒に酔っていた。

中米の勝利が南東部の問題を解決してくれる目途も付いた。

カリブ海への進出という目標が生まれた。

勝ちによって南米にも兵を送ろうかと豪語する者もいた。

巨大な大陸一つが上杉・伊達家に舞い込んだ。

この嬉しさに酔わずにはいられない。

しかし、その戦場で作った仮設の便所で謙信(けんしん)が倒れた。

酒を飲み過ぎた為の肝機能障害であった。

最後の最後で糞まみれ(・・・・)というのは冴えない最後であった。


『一期の栄は一盃の酒 四十九年は一酔の間 生を知らず死また知らず 歳月またこれ夢中の如し』

(簡単な訳:酒を友に、我が人生に悔いなし)


という格好いいセリフを残して巨星は落ちた。


 ◇◇◇


謙信(けんしん)なしに先住民は誰も従わない。

撤退しか選択がなかった。

砂上(さじょう)楼閣(ろうかく)は砂に回帰した。

それでもカリフォルニア、西南部、大盆地部の土地が上杉・伊達家のモノとなる。

先住民の数が激減しており、それを保護する者がいなければ、再び略奪者の餌食になるので保護者を求めた結果である。

200人程度の家臣を持つ武将が100万石を超える広大な領地を治める領主となった。


1,000石の加増で飛んで喜ぶ武将に100万石相当の開発のできる土地が手に入っても戸惑うだけである。

そして、開発できると言われても、ほとんどが砂漠か、半砂漠か、荒野であった。

断る武将が続出し、下級の武士にお鉢が回ったのだ。

イスパニアが攻めてくると最前線になる。

しかし、再びイスパニアが攻めてくる事はなかった。


そもそも何故引いたのかが判らない。

イスパニアの本土では、日の本がカリブ海を取ると、逆に海を渡って本土決戦をする事になるのを日の本が嫌ったのではという憶測が流れた。

藪を突いて蛇を出す訳にいかない。

しかも連戦連敗の報が諸侯の離反を起こさせる原因となっていた。

オスマントルコとの海戦に勝利した事が帳消しにされた。

フランスが力を付け始めた。

加えて交易の不利を嘆いたイギリスが不満を漏らし、遂に宗教の理由から改宗して敵国になった。

(1563年、イスパニアが日の本に長崎で完敗した直後、イギリス教会はカトリックから離脱し、プロテスタントとも距離を置く中道を宣言した。敬虔なカトリックであるイスパニアからの離脱を意味した。その最大の理由がカトリックは離婚できないからだった)

こうして宗教対立も激しくなり、欧州の調整で手一杯になったイスパニアに中米に援軍を送る余裕はない。

そもそも(放棄された)グレートウォールを中米のイスパニア軍が命がけで取り戻したと報告をして満足するイスパニア国王を刺激するつもりがなかったからだ。


カリブ海ではイギリスやフランスなどの海賊船が横行し、暴れていた。

そして、その海賊達が北米の南東部に拠点を移し始めた。

南東部にイギリスやフランスなどの海賊船が集まってくると、イスパニア軍の支援を受けていたイスパニア海賊が排除されて、内陸部に先住民が戻って来られるようになった。

イスパニア軍にとって嬉しい知らせではない。

しかし、大規模な反撃はしなかったのだ。

日の本とイギリス・フランスが本格的な同盟を結ぶ事を避けたいイスパニアは、上杉・伊達家を刺激する事を避けた結果だった。


また、イギリスとフランスなどの海賊船は内陸の先住民を襲わないので、北米の南東部に奇妙な平和が訪れた。

人口が激減したので海岸部を誰が使おうと問題ではなかったのだ。

そういう意味で北部の東海岸にイギリスとフランスの移民者の上陸を許すという失態を犯す事になった。

だが、これに関して、養子で家督を継いだ上杉-景勝(うえすぎ-かげかつ)伊達-輝宗(だて-てるむね)を責める事はできない。

評定で信玄(しんげん)と対立するようになった謙信(けんしん)は、他の者の追随を許さないほどの威圧を覚えた。

謙信(けんしん)に意見するのは、戦場で先陣を切る覚悟が必要になる。

意見を変えさせるのは、切腹するより難しい。


謙信(けんしん)は北部の東海岸を含む北東部と南東部を幕府に売る事で借財を換金する事を考えていた。

日の本から20万人から40万人の移民計画が密かに進み出していた。

だがしかし、北東部と南東部を譲って貰うなどと言えるのが、謙信(けんしん)以外にいるだろうか?

少なくとも上杉-景勝(うえすぎ-かげかつ)伊達-輝宗(だて-てるむね)がその話を平原部の族長に告げると嫌な顔をされた。

助けを求めていない者に助けを出すのは可笑しな話である。

そして、平原部の先住民らは領地拡大に興味がない。

話は前に進まない。


3年の外征に使った費用が鉱山の開発利権を担保にしていたので、上杉・伊達両家は財政難が襲い掛かり、暢気に交渉などする暇が無くなった。

質素倹約、交易の利益がすべて溶ける財政で、高楊枝(たかようじ)を舐めて空きっ腹を耐える。


『武士は食わねど高楊枝』


余りの貧乏暮らしに訪ねて来た他家の武士が目を逸らすほどの姿だったらしい。


 ◇◇◇


1603年、英西戦争(えいせいせんそう)(イスパニアとイギリス)が終わった。

本来であれば、太平洋交易で中国からの富がイスパニアを支えるハズであったが、拠点の呂宋(ルソン)を日の本に取られ、カリブ海を海賊に制圧され、植民地防衛に失敗した。

各地の防衛力の低下が原因であった。

ポルトガルは1580年にアヴィス朝断絶により、イスパニア・ハプスブルク朝に併合されていたので、アフリカ・南米・中米の植民地をすべて失う事になった。

こうして、イギリス・フランスを中心に欧州、アフリカ、アメリカの三角貿易が始まったのだ。

大量の奴隷がアフリカから連れて来られてプランテーション (大規模な農業経営)が始まった。

欧州からアフリカに武器や雑貨 (服など)を運び、アフリカから北米に奴隷が運ばれ、奴隷が作った綿花・砂糖やタバコやコーヒーが欧州に運ばれる。

三角貿易が始まった。

大量生産を目指す欧州の移民者は奴隷を使って巨大農地を耕し、内陸へ内陸へと進む。

平和だった北東部と南東部に嵐が吹いた。

先住民と対立し、数の暴力に負けた彼らが平原部、そして、救世主である上杉・伊達家に助けを求めた。


『義を見てせざるは勇無きなり』


謙信(けんしん)の精神が両家を動かし、上杉-景勝(うえすぎ-かげかつ)伊達-正宗(だて-まさむね)を両総大将にして、上杉・伊達・先住民連合が立ち上がった。

イギリス・フランスが本土から大量の援軍を寄越したので、領軍は大量のライフル銃による銃撃戦を行う事になった。

世界初のライフル銃とライフル銃による戦いであった。

これが北米で起こった『東西戦争』であった。

(北米を東西に割った戦争と西側世界と東側世界の世界の戦争という二重の意味)


双方が迫撃砲と小大砲を持ち出しての援護した塹壕戦でもあり、双方で30万人の死者を出した。

それに勝利した上杉-景勝(うえすぎ-かげかつ)伊達-正宗(だて-まさむね)は敵司令官のチャールズ・ハワードと和平条約を結んだ。

レナペ (ニューヨーク)市で行った条約なので『レナぺ条約』と言う。

北米のすべての領土が上杉・伊達・先住民連合のモノであるという合意と、在留邦人の安全と利益保障を認めるモノであった。

要するに、こちらの領民になる場合は命を取らないというモノである。

さらに、三角貿易の継続と奴隷待遇の改善、領地の略奪の禁止が加わる。

加えて金貨30万枚の損害賠償金を奪ったが、金貨30万枚は死んだ遺族への見舞金ですべてが消えた。

巨大農業経営者に土地を売った売却益は幕府から買い取った武器の購入費に消え、上杉・伊達家に遠征に掛かった戦費のみ残った。

そして、両家は財政破綻を起こした。

幕府からキツいお叱りを受けて両家はお取り潰しとなり、北米に作られた連邦国家に返せる程度の減額をして、借財の代行支払いを命じた。

幕府は同情もしたが、最大の罪を述べた。


幕府に助けを求めずに戦争を始めた罪だった。

上杉-景勝(うえすぎ-かげかつ)は責任感が強すぎて報告を怠った。

伊達-正宗(だて-まさむね)は手柄を奪われたくないと功名心に走った事だ。

二人の行動と考えた事はすべて幕府に把握されていた。


上杉-景勝(うえすぎ-かげかつ)伊達-正宗(だて-まさむね)は無位無冠となったが、知事に選抜されて名目を保った。

知事が集まった連邦議会が国家の方針を決める。

初代議長に上杉-景勝(うえすぎ-かげかつ)、二代目伊達-正宗(だて-まさむね)と続き、新しい国家は出発した。

先住民インディアン(ネイティブアメリカン)を最多民族とした謙信(けんしん)の『()』の為に戦う事を国是とした連邦国家を作ったのは、間違いなく『謙信(けんしん)の暴走』から始まった。


謙信(けんしん)は国の軍神として祭られて、すべての港の入り口に巨大な銅像が建てられて、この国を守り続けたと言う。

以上、謙信の後日談でした。

ネイティブアメリカンが国を残しました。

白人と黒人も国民に入れて、他民族国家の誕生です。

日の本とイギリス・オランダは戦争中も交易を継続しております。

正確には。日の本と欧州の戦いではなかったのです。

という訳で、

和平が成立すれば、新しい国と欧州が交易する事に支障はありません。

しかし、この戦いで欧州は日の本への脅威を新たに認め、日の本を真似た産業革命が始まります。

こちらは「帆船より、馬より」の足かせがありません。

ゆっくりと日の本と欧州の差は縮む事になります。

ともかく、謙信がアメリカの神になる話でした。

(何度も言いますが、大筋を考える事はできても、それを演じるキャラクターがいない上に、想像するのも難しいのです)


という訳で、上杉-景勝(うえすぎ-かげかつ)伊達-正宗(だて-まさむね)が登場しない事を嘆いた読者様の為に長めに書きました。

初の銃撃戦の『東西戦争』が数行とは悲しいです。


◇◇◇


【インディアンの生活】

シアトル(Seattle)はインディアンの言葉でどういう意味なのでしょうね。

インディアンの生活は住んでいる地域、部族によって違ったと言われています。

謙信が上陸したのは北西沿岸部です。

他に中央の大平原部、五大湖のある北東部、フロリダ・ミシシッピの南東部、中南米に続く南西部、南西部の北側の大盆地部、カリフォルニアがある西海岸部です。


北西沿岸部のインディアンは階級社会だったみたいです。

貴族・?・?・?・平民と階級層に分かれていました。

この基準は部族ごとに違い、ハイダ族、ティムシャン族、クワキュトル族などがそうでした。

他にヌートカ族、コーサトサリシュ族、ベラクーラ族、トリンギット族、カウチャン族、マカ族などもありますが、詳しくは判っておりません。

ハイダ族、ティムシャン族は母系の部族です。

シアトル周辺はスクアミシュ族が支配し、19世紀に連邦政府によってインディアン居留地へ強制移住させられる時のシアトル酋長の名に因んで『シアトル』と名付けられました。

漁業や木材伐採などを行っていたようです。

大量の雨と暖かな気候で木々がよく育ち、森に果実が実ります。

(アラスカ南西部からカリフォルニア衆北部まで)

川ではシャケ、海では鯨なども捕獲しています。

村には10から30の家が並び、200人から700人が住んで、漁業が盛んな為に定住していました。

有名なトーテムポールもこの地域の文化でした。


なお、大平原部は馬でバッファローを追って捕らえる肉食で、北東部は五大湖と森林が埋もれております。

西南部はアリゾナ州、ユタ州、コロナド州、カリフォルニアの一部、テキサス州、オクラマホマ州とメキシコ北部を含む土地であり、砂漠か、半砂漠地帯です。

川の周辺だけに集落がありました。

日干しレンガの家が特徴です。

有名なカナダ付近から南西部に移住した『アパッチ族』がいました。


なお、スクアミシュ族が歴代のシアトル酋長の名を受け継いでいるかは未確認です。

(知らんがな~って感じです)


統一インディアン語は無い。

大語族としては

・エスキモー・アレウト

・ナデネ

・アルゴンキン・ウォシャッシ

・アスデク・タノア

・ペヌート

・ホケン・スー

の6語族(1929)があったらしく、部族によって言葉が違うようだ。


 ◇◇◇


【天然痘で大減少】

1500年代前半に「新大陸」に到達した最初期のスペイン人であるフランシスコ会修道士トリビオ・デ・ベナベンテ(Toribio de Benavente)は、「当初は多数の先住民が住んでいたメキシコだが、天然痘が大流行し、ほとんどの地域で半数以上が死亡した」と書き残している。

そのベナベンテは1568年8月10日にメキシコ市で死去している。


1530年4月16日にプエブラの開拓地の設立にトリビオ神父は、監査役のドン・フアン・デ・サルメロンとともに選ばれ、ミサを行って40万件の洗礼の記録を書き残している。

トラスカラ、チョルーラ、フエショツィンゴ、テペアカの保護者と協力して、多くのインディアンの労働者を雇って都市を建設したとあるので、友好的な関係を築けていたと思われる。


1555年にトリビオ神父は、自らの著書に皇帝シャルル5世への有名な手紙を書き示している。

この手紙には、バルトロメ・デ・ラスカサス司教を激しく攻撃し、彼の信用を完全に失墜させようとするもので、「不機嫌な男、落ち着きのない、活発な、乱暴な、有害な、偏見に満ちた」人物であり、さらにチアパス司教座を放棄した背教であるとしている。


恐らく政策の変更が起こり、先住民の財産を奪う行為が頻発したのではないかと考えられる。

そして、その後に天然痘が流行したのではないだろうか?

(アメリカ先住民 150万人 → 35万人。(減少率23%))

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― 新着の感想 ―
[一言] 結果として、陰謀家の武田信玄は“シベリアの虎”として己の知謀をフルに発揮して奥州藤原氏以来の大陸進出を成功させ、 義将の上杉謙信は“シアトルの龍”となって義心によって原住民たちと一緒に酒を酌…
[一言] イスパニア軍なら日の本と戦争中だから襲っても問題無いですな!の精神ですね。
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