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【書籍化】魯鈍の人(ロドンノヒト) ~信長の弟、信秀の十男と言われて~  作者: 牛一(ドン)
第3章 『引き籠りニート希望の戦国宰相、ごろごろ目指して爆走中!?』
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蛇足1.信玄の大陸進出。

織田-信勝(おだ-のぶかつ)

信長(のぶなが)の弟で勤勉で唯々真面目な青年であった。

不真面目な兄の信長(のぶなが)と反りが合わず、不謹慎な弟の信照(のぶてる)と度々意見が対立した。

もう遠い話だ。

信勝(のぶかつ)は帝から任じられた蝦夷討伐の征北(せいほく)大将軍として職務を果たそうと精一杯であった。

武田-信玄(たけだ-しんげん)の言動に心を削られ、上杉-謙信(うえすぎ-けんしん)の眼光に肝を冷やし、逃げ出したい気持ちを強引にねじ伏せて鎮座していた。


信玄(しんげん)から見ると小者であり、怪物の信照(のぶてる)と比べるとすべてが平凡過ぎて、見るべき所は1つもない。

蝦夷の評定が開かれると、巧みな話術を持つ信玄(しんげん)独擅場(どくせんじょう)であった。

信玄(しんげん)は意のままに議論を進めた。

唯一、気になる存在は常に酒の匂いがする謙信(けんしん)であり、やり過ぎを一言で咎めてしまう。

竜虎が睨み合うと、それだけで人が殺せそうな殺気を互いに放った。

言葉の刃で斬り合う。

寒い冬でも、冷や汗で服がびっしょりになる者が続出した。


戦場ならば先頭を走る柴田-勝家(しばた-かついえ)も内政になると役に立たない。

三河から呼んだ家老達も役立たずだった。

信勝(のぶかつ)親衛隊である浅井-長政(あざい-ながまさ)松平-元康(まつだいら-もとやす)も子猫のように退けられた。

信玄(しんげん)を敵にすると言葉で斬り伏せられる。

恥を掻いて二度と評定に出て来られない者も数知れない。

一方、刀に手を掛けていないのに、眼光だけで謙信(けんしん)に斬られて退出させられて行く者も後を絶たない。

気絶して出て行く者は傷が浅い方だ。

信勝(のぶかつ)も袴を少し濡らした記憶があった。

床を濡らせば切腹モノの大恥だ。

二人が争い始めると触らぬ神に祟りなしと皆が静まり返った。

そして、最後に信玄(しんげん)が妥協する。

だが、謙信(けんしん)が率先して仕切る訳もなく、おおむね評定は信玄(しんげん)が推し進めた。


だがしかし、信玄(しんげん)には信玄(しんげん)の不満があった。

信照(のぶてる)が送ってきた右筆の酒井-康忠(さかい-やすただ)が大筋を決めており、信玄(しんげん)の才覚はその幅でしか決められない。

蝦夷の地は未開の土地であって移民者を食わす米がない。

幕府の支援で造った住居で薪を焚いて寒さに耐え、運ばれて来た食料で飢えを凌いだ。

(※.元々の領地から食料の6割は拠出されている)


まず、函館付近の開発が先行して行われた。

函館に膨大な農地が次々に生まれて行くのに対して、蝦夷に与えられた信玄(しんげん)らの領地は手つかずだ。

信玄(しんげん)らには、開発すれば5,000石から2万石の領地が分け与えられたが、交易の為の港が先に整備され、先遣隊の家屋がやっと建った状態であった。

炭鉱などの調査や地図の作成が優先されたのだ。

幕府に(すが)って生きるのは、心地よいモノではなかった。


それでも食料を握られており、信玄(しんげん)らは幕府の意向に逆らえない。

幕府の意向は略奪による侵略戦の禁止だ。

信照(のぶてる)の移民法に従って、原住民と交渉しながら開拓地を広げるという消極的な移民政策が取られた。

原住民は土地主であり、借主が地代を払う。

さらに原住民の住む場所を保護地区に指定して、その地域の開拓は禁止とされた。

良い土地をアイヌ人に譲らねばならなかった。

これだけ譲歩してもアイヌ人は首を縦に振らない。

頂く土地の交渉は難航した。

交渉に失敗して帰ってきた使者を信玄(しんげん)が罵倒した。

ヤリ過ぎれば、謙信(けんしん)が介入した。

また、邪魔をするかと信玄(しんげん)の眉間にシワが寄った。

信玄(しんげん)は自領の開拓の遅れにイラだっていた。


イラだっていたのは信玄(しんげん)だけではなかった。

蝦夷のアイヌ人も増える移民者にイラだっていた。

使者が何度も使用地の交渉にやって来る。

住処を追われるような圧力があった。

アイヌ人7万人に対して、移民者20万人が押し寄せたのだ。

しかも第一陣と言う。

突然にやって来た異邦人を警戒した。

すべてを奪われるのではないかと危機感を持ってアイヌ人もイラだっていたのだ。

こうしてシブチャリの首長が立ち上がり、オニビシ (中部アイヌ)やシャクシャイン (東アイヌ)のアイヌ人が集まった。

シベチャリ (静内)、ハエ (門別)、シコッ (千歳)を陥落させた。

すると、イシカルンクル (石狩アイヌ)、余市アイヌらも集まって来た。

信玄(しんげん)が白い歯を零した。


『やっと釣れたか』


遅々として進まない武将達の領地には20人から100人程度の開拓者しかいなかった。

アイヌが攻めてくれば、すべてを放棄して逃げさせた。

開拓小屋の倉庫には冬を越す食料が貯めてあり、1つ1つは大した量ではなかったが、50カ所も襲えば、かなりの量になった。

アイヌの戦士は武士団の腰抜けぶりを笑って進軍した。

勝ち戦を聞きつけて、アイヌ人の兵数は人口の約3割に達して二万人となった。


対する信勝軍はサリポロペッ(葦原の広大な川)付近で一万五千人を動員して待ち受けた。

騎馬隊二千騎、鉄砲隊五千丁、歩兵三千人、武士団五千人の構成であった。

総大将は柴田-勝家(しばた-かついえ)が引き受け、軍師が信玄(しんげん)、騎馬隊を率いるのが謙信(けんしん)、歩兵は長政(ながまさ)元康(もとやす)が預かった。


この戦いで信玄(しんげん)は奇策を用いない。

まず、近づいてくると鉄砲の一斉射撃を一撃だけ浴びさせた。

次に身を盾にして敵を引きつける歩兵が前に出た。

敵の足が止まった所で騎馬隊が側面から突撃して敵を中央で上下に分断すると、待っていましたとばかりに歩兵を迂回して左右から武士団が襲い掛かった。

首狩りは禁止して生け捕りを命じ、捕らえたアイヌ人は戦いが終わると解放してやった。


まるで、諸葛亮(しょかつりょう)(孔明)の七縦七擒(しちしょうしちきん)(七度捕らえて七度解放させた)を模したような堂々とした戦い方であった。

三度追いついて三度勝つと、アイヌ人らも全面降伏を受け入れた。


これで朝敵となったアイヌ人の領地はすべて没収できるようになり、開拓が一気に進められるようになったのだ。

もちろん、敗北したアイヌ人を奴隷にするような事はなかった。

富良野をアイヌ人の自治区として残すと、その他のアイヌ人は各領主の領民に組み込み、アイヌ人保護区として領地を分け与えた。

さらに、先住民の特権でその領地全部から採れた作物の一割を貰える。

最も暮らしやすい場所を譲って貰ったのだ。

その程度は補償として払うのは当然だと移民法に記載されていたのだ。


信玄(しんげん)信照(のぶてる)の詰めの甘さを少し笑った。

これが緩やかな同化政策とは信玄(しんげん)も気づかなかった。

再び反乱を起こせば、その特権が奪われる。

同時に蝦夷が豊かになってくれば、その収入は莫大な金額になって行く。

それこそ一生働く必要のない富がアイヌ人に降ってくる。

余った銭を使い出すとアイヌ人は自然と同化し、自らの特権を守る為に大地主として領主と二人三脚をする事になる。

甘いのではない。

独立思想を阻む為の罠だ。

100年先を見通した策であった。


 ◇◇◇


蝦夷の大乱が終わる頃、周辺を調査していた船が続々と寄港した。

信照(のぶてる)の妄想ではないかと疑っていた島々や土地がある事が判った。

ここで信玄(しんげん)が捲いた種が芽を出した。

息が詰まるような評定は、信勝(のぶかつ)信玄(しんげん)謙信(けんしん)らを追い出したいと思わせる演技だったのだ。

信勝(のぶかつ)には狡猾さがない。

信玄(しんげん)がその気になれば、信勝(のぶかつ)をおだてて手玉に取るなど容易い。

だが、それをすると信照(のぶてる)がどう動くかが、予想が付かない。

信玄(しんげん)は危険な賽を振る気にならなかった。


一刻も早く追い出したい信勝(のぶかつ)は領地分けを敢行した。

つまり、各領地に長官として軍と移民者を派遣する事を決定した。


まず、蝦夷の本島には三河から来た武将に振り分けた。

その家臣となって蝦夷に残る領主も多い。


千島列島のすべてを長政(ながまさ)に与えた。

国後(くなしり)島、択捉(えとろふ)島、歯舞(はぼまい)島、色丹(しこたん)島の四島のみでも尾張50万石を軽く越える広さがあった。

それに奥州で従った武将が家臣となり、島々を貰って散っていった。


樺太(からふと)元康(もとやす)に与えた。

その家臣には、佐竹、宇都宮、蘆名などの奥州と関東の境目の武将が多かった。


大陸の極東に当たるアムール川の流域に元古河公方に味方した関東武者が集められ、南下するほど、下野、上総、下総、武蔵、上野に分けられた。

そして、最も危険なウスリー川の流域に武田の管理区が与えられた。

どの土地も推定50万石を越える広大な土地だ。


原住民のサンタン人らはアイヌ人と交流があったのでアイヌ人の説得もあり、スムーズに移民が可能となった。

それどころか歓迎してくれた。

食料を上納すると言えば、サンタン人らは「お好きなだけ使って下さい」と空いている土地を好きに使う了承を得た。

極寒の土地であり、奪い合うほどの人口も然程なかったからだ。


信勝(のぶかつ)様、もし船団をお貸し頂けるならば、1年で関東の者どもへの援助を打ち切って頂いても構いません」

「誠か!?」

「この信玄(しんげん)。嘘を言った事がございますか?」


北海船団は信勝(のぶかつ)が幕府から貸し与えられた20隻の300石船の船団であり、この北海船団は開拓地への物資搬送と同時に大陸との交易を行って、唯一信勝(のぶかつ)が自由にできる金を稼いでいた。


一方、織田家から帆船1隻と連絡船20隻、南部家と北条家から300石船20隻を借りて調査船団を作って島々の調査を行っていた。

また、三河所有の300石船3隻もあったが、病院の機材や家畜の餌を運んでおり、自由にならない。

織田家や商人の船団も寄港するが、こちらは銭を払わないと商品が買えない。

借財が増え続ける日々だった。


織田・南部・北条から借りている船は、調査船団として使われ、東の海の地図作りと港造りを行い、銭を浪費するだけの存在であった。

幕府から送られる支援金が泡のように消えていった。

それでもやっと千島列島の端まで港を設置した所で、次はカムチャッカ半島に港を造って行く。

このカムチャッカ半島から上は最上に与えた。

蝦夷の4倍の広さだ。

その先のアリューシャン列島とアラスカ (蝦夷の21倍)は伊達のモノであり、舎路(シアトル)より南を上杉に与えた。

遠くになるほど、広大な領地を与えているが、実際に人を送り、拠点を造るのも困難だった。

それでも幕府は、有言実行する。

2年後に舎路(シアトル)にも港ができる予定を立てていた。

裏を返せば、上杉家は2年後まで蝦夷から動けない。

その予定を聞いて謙信(けんしん)が怖い顔をしていたが、信玄(しんげん)が最上、伊達、上杉の心配をする必要もない。


「船団の収益の内、三割は信勝(のぶかつ)様に献上致します」

「三割? 随分と減るな」

樺太(からふと)や大陸に進出に掛かる費用を考えれば、この程度では済みません。巧くすれば、使える額は増えると思われます」

「なるほど。では、信玄(しんげん)はどうするつもりだ?」

「もちろん、秘密です。ですが、策があります」


信玄(しんげん)は巧く行けば、その3割が今の総額より大きくなるかもしれないと言う。

3年の猶予を与えて、信勝(のぶかつ)は許可を出した。

信玄(しんげん)の秘策は20隻の内、10隻を太平洋航路に廻すというモノだった。

正確に言えば、小田原に船を向かわせた。

小田原で買えるお茶、砂糖、ガラスなどの貴重品を購入し、それを大陸で売る策であった。

貴重品は博多、堺、敦賀の商人が独占していた。

敦賀から蝦夷を経由する船に積まれて来ない。

博多や堺の商人は寧波(にんぽー)を通して明国に輸出する。

敦賀は朝鮮北部の海西女直(かいせいじょちょく)を通じて売っていた。

蝦夷には貴重品が回って来ない。

しかし、小田原に行けば買う事ができた。

そして、海西女直(かいせいじょちょく)の北部の野人女直(やじんじょちょく)に売れば、高値で買ってくれる事を知っていたのだ。


特に砂糖は敦賀では扱っていない。

明国でも南部の一部が独占して販売しており、砂糖が貴重品である事は変わりない。

しかし、不思議な事に小田原の砂糖は堺で買うより安いのだ?

小田原諸島で生産しているなど知らない信玄(しんげん)であったが、その差益が膨大な利益を生む事は判っていた。


また、将来的に砂糖は幕府の推奨で甜菜(てんさい)を栽培し、北の砂糖作りとして主産業にして行く事が決まっていた。

確かに、これが軌道に乗れば、実質の50万石以上の土地に変わる。

信玄(しんげん)はそれを先取りして、小田原で砂糖などを買って来ようと考えた訳だ。

これだけで3倍以上の儲けを確保できると見積もっていた。

だが、それだけでは関東武者の経費が捻出できる訳もなかった。


義信(よしのぶ)、良い知らせを届けてくれた」

「父上のお役に立てて何よりでございます」

「これでタダ飯喰らいが銭を稼いでくれるな」

「後は父上の手腕でございます」


大陸を調査に行かせた嫡男の義信(よしのぶ)が面白い話を持ち帰っていた。

これが傭兵の話だ。


モンゴル平原の東に位置するウリヤンハンは韃靼(だったん)(タタール、モンゴル帝国)のダヤン・ハーンの死後、その後を継いだボディ・アラク・ハーンとは特にウリヤンハンとの繋がりがなく、ウリヤンハンの立場は変化を余儀なくされ、反乱を起こすに至って解体された。

その一部が野人女直(やじんじょちょく)に混ざっていた。


ウリヤンハンを解体する事になるボディ・アラク・ハーンは1550年に北京を包囲した韃靼(だったん)の名将であった。(庚戌の変(こうじゅつのへん)

この勢力拡大が評価されて、1551年の正統ハーンに推戴されて即位した。

勢いに乗るボディ・アラク・ハーンは西のオイラトに侵攻し、カラコルムを支配下に置き、チベットやカザフスタン方面にも進出していた。

そして、反乱を起こしたウリヤンハンを解体した。

野人女直(やじんじょちょく)も例外なく圧力を受けた。


野人女直(やじんじょちょく)は北部を支配する一族であり、中部の海西女直(かいせいじょちょく)、南の建州女直(けんしゅうじょちょく)と三部族で女直(じょちょく)族と言う。

この女直(じょちょく)族は小部族ごとに明に服従しており、明との交易で栄えていた。

また、朝鮮半島北部を支配する海西女直(かいせいじょちょく)は日の本と日本海交易で交流があった。

蝦夷の商人は北部の野人女直(やじんじょちょく)と交易を行っていた。


この交易商人の道案内で義信(よしのぶ)達の甲斐衆は野人女直(やじんじょちょく)の首長に会い、突然に現れた山賊の退治に協力して友好を深めて帰って来たのだ。


日の本の武士は異常に強かった。

最新式 (日の本では旧式です)の鉄砲で敵を威嚇したかと思うと、動揺した馬が暴れて敵が乱れた隙に槍を持って突進する勇猛を持ち合わせた。

そうして正面に注意を集めると、もう1つの分隊が回り込んで敵の首領の首を刎ねた。

野人女直(やじんじょちょく)の兵も優秀だと自画自賛するが、日の本の勇敢さには及ばないと賞賛されたのだ。


義信(よしのぶ)達は野人女直(やじんじょちょく)に勧誘されたのだ。

もちろん拒絶するのではなく、父に相談してくると保留した。

友好関係を崩したくなかったのだ。

信玄(しんげん)は名代を送り、正式に加わる事を断ると同時に傭兵としてなら雇われて良いという返事を送った。

こうして、関東軍を名乗る傭兵団が誕生した。


「あはは、戦しか知らん。タダ飯喰らいが銭に化けたわ」


大陸に移住する第一陣2万人の内、1万人を残し、1万人を傭兵として貸し出した。

これで働かない武士団の飯代の心配が無くなり、傭兵と貸し出した銭で残る移民者の飯代が浮く。

功績に応じて報酬が出され、使用した弾薬や矢などの必要経費は後払いで払ってくれる。

足手まといが稼ぎ頭に変わった。

信玄(しんげん)はさらにアムール・ウスリー川条約を結び、アムール川より北側は関東軍の領地と決めた。

冬場になると海が凍って追加の援軍が送れなくなると悩み事を相談すると、最北の不凍港である海参崴(ウラジオストク)の譲渡が成立した。

信玄(しんげん)は初めからここを狙っていた。


一方、野人女直(やじんじょちょく)の支配地はそこまで北に広がっていなかった。

北を失っても腹は痛まない。

確かに従っている部族はいるが、毛皮を買う程度の関係であり、毛皮を買う先が関東軍に変わるだけである。

それよりも蝦夷から追加で最大の傭兵1万人を確保できると言われた事の方が嬉しかったのだ。

こうして両者の思惑は一致した事で武田家は海参崴(ウラジオストク)を得る事に成功した。

まずは関東武者で血の気の多い者から派遣した。


ウリヤンハンが解体されて放浪している部族の一部が山賊化していた。

もちろん、他の一部が野人女直(やじんじょちょく)の配下に加わった一族もいる。

アラク・ハーンがウリヤンハンに派遣した部族長と対立するのが自然な流れだった。

だが、シルクロードの交易路から外れる野人女直(やじんじょちょく)を全力で支配下に置く価値が少なかったのか。

アラク・ハーンが野人女直(やじんじょちょく)を攻めてくる事はなかった。


だがしかし、ウリヤンハン韃靼(だったん)の一部族が山賊を模して略奪に来ているのは明白であり、対抗処置が必要であった。

信玄(しんげん)が持ってくる貴重品は明国に売れば大金になり、その銭で傭兵が雇えた。

野人女直(やじんじょちょく)と関東軍は互いに共存共栄の環境が生まれていた。


野人女直(やじんじょちょく)の支配地に入った関東軍は山賊狩りを始めた。

支配地外周を徹底的に狩って回った。

そして、山賊から奪った金品は傭兵団のモノだ。

臨時収入に関東武者らが喜んだ。

そして、三ヶ月毎に領地の守備隊と交代した。


ウリヤンハンを任されている部族長は自分の支配地の近郊で山賊狩りをする傭兵団を疎ましく思うのは当然であった。

調子に乗る傭兵団がウリヤンハン韃靼(だったん)のキャラバンを襲ったとイチャモンを付けて来た。

ウリヤンハンと野人女直(やじんじょちょく)に緊張が走った。

条約に従って、信玄(しんげん)が五千人の兵を連れて援軍に駆けつけた。

傭兵の1万人が信玄(しんげん)の指揮下に入ると、野人女直(やじんじょちょく)・関東軍連合でウリヤンハン韃靼(だったん)と対峙した。

信玄(しんげん)は敢えて低地に陣を敷かせ、高地をウリヤンハンに譲った。

ウリヤンハン韃靼(だったん)の将軍は用兵を知らぬ素人と侮った。


野人女直(やじんじょちょく)・関東軍連合二万五千人、対する韃靼(だったん)軍は三万人であった。

互いに広い領地を持ち、守勢に転じると兵を分散する事になって不利になる。

どうしても戦力を集中できる攻め方が圧倒的に有利になる。

そこに傭兵を組み込んだ事で互角以上の兵力を揃えた野人女直(やじんじょちょく)が優秀だと褒めるべきだろう。


『どーしょ!』


韃靼(だったん)の騎馬民族が丘を駆け下りて近づいて来た。

そのまま取り囲んで矢の雨を降らせて押し込むつもりなのが見えた。

だがしかし、信玄(しんげん)野人女直(やじんじょちょく)の首長も動かない。

十分に近づいた所で信玄(しんげん)が叫んだ。


『爆破!』


発火式の地雷に火を付けた。

最前列の騎馬隊が吹き飛び、中列の一部も吹き飛んだ。

敵の足が止まった瞬間。


『掛かれ!』


武田軍と関東武者が一斉に飛び出して乱戦へと移行した。

野人女直(やじんじょちょく)の騎馬隊が周囲に展開して矢で援護が始まった。

日の本の鎧兜はモンゴルと違い見分け易い。

間違う馬鹿はいない。

三万人の韃靼(だったん)軍が一瞬で総崩れとなり、勝敗が決した。

捕虜になる者、兎に角逃げる者と様々だ。

傭兵団の強さがこれでもかと色濃く残った。


信玄(しんげん)殿、ご協力感謝致します」

「ははは、運が良かっただけだ」

「いいえ、敵の将軍の性格まで知り尽くす手腕が凄い。テムジン様の生まれ変わりかと思いました」

「褒めすぎでございます」

「天下の名将でございます」

「残念ながら、日の本では雑魚武将の一人に過ぎません」

「まさか?」

「我が王である織田-信照(おだ-のぶてる)様は戦の天才であり、私如きなど軽くあしらわれてしまいました」

「信じられません」


信玄(しんげん)信照(のぶてる)を褒めちぎった。

戦好きなので間違っても挑発するような事をすれば、野人女直(やじんじょちょく)が地図から消えると脅した。

嘘と思うならば、京に使者を送れば良いと付け加えた。

夏から秋に掛けて収穫を呼ぶ『鳥人祭』があり、人が空を飛ぶ行事もあると伝えると、早速、来年に向けて使者を送る事を決めた。

また、異国の大国であるイスパニアとも戦っているが、おそらく勝っているとも付け加えた。

来年はイスパニアとの戦いも終わり、暇を持て余しているだろうから、挑発すれば、こちらに兵を送るかもしれない。

間違っても挑発するような事をするなと、信玄(しんげん)が本気で諭したので、真実味が増した。


信玄(しんげん)殿、この後はもう帰られるのか?」

「いいえ、少し足を伸ばし、アムール川の左岸にある海蘭泡ブラゴヴェシチェンスクを奪って帰ろうかと思います」

海蘭泡ブラゴヴェシチェンスクは!?」

「ウリヤンハン韃靼(だったん)が支配しております」

「アラク・ハーンが黙っておらんぞ」

「むしろ、それが狙いです。アラク・ハーンが兵を送って来るでしょう。それを待ち受けて撃破してみせましょう」

「本気か?」

「出来ますれば、海蘭泡ブラゴヴェシチェンスクを囲む頃に呼倫(フルン)に向けて兵を起こして頂きたい。取り囲む敵を蹴散らして、援軍に向かう事を約束致しましょう」

呼倫(フルン)か」

呼倫(フルン)を取れば、アラク・ハーンも迂闊に手を出して来られないでしょう」


こうして、その年の内に海蘭泡ブラゴヴェシチェンスクを落として引き上げた。

年が明けて雪が溶けると、アラク・ハーンは将軍に命じて大軍を送って来た。

海蘭泡ブラゴヴェシチェンスクは冬の間に要塞と化しており、攻め手を戸惑わせた。

もたついている間に援軍が到着して背後を襲って敵を崩壊させた。

そして、野人女直(やじんじょちょく)呼倫(フルン)を取った事でアラク・ハーンの名声が地に落ちて、韃靼(だったん)の崩壊が始まった。

中央アジアにおける大戦乱期の幕開けであった。


野人女直(やじんじょちょく)女直(じょちょく)族の頂点に上り、大陸中央部へと進出して行く。

関東軍は寄生虫のように肥大化しながら野人女直(やじんじょちょく)に追随して西へ西へと軍を進めた。


この大変革は蝦夷地開拓を100年遅らせる原因となる。

戦いを欲する武士達が移民を引き連れて関東軍の応募に集ったのだ。

蝦夷開拓民の移住は100年間で10期の移住が敢行された。

延べ200万人が移住するが、その内の8割が関東軍に参加する。

日の本の西北の外甲斐国 (大陸北部の武田国)は、広大なシベリアを保有する極東自治国を名乗る傭兵国家へと変貌する。

自治国民300万人が傭兵で構成される国家だ。

その中心にある関東軍が野人女直(やじんじょちょく)を支援し続けた。


韃靼(だったん)の脅威が無くなった明国は繁栄の時を迎えた。

シルクロードの交易は野人女直(やじんじょちょく)が取り仕切り、落ちてくる蜜で国中が潤った。

ただ、腐敗がさらに蔓延し、100年後に腐敗に耐えかねた民衆の反抗で突然に崩壊し、野人女直(やじんじょちょく)が南下して民衆を鎮圧して清国を建国する。


また、明国の腐敗に耐えかねた民衆の一部が南に逃れ、美麗島(ふぉるもさ)(台湾)を中心に起こった南海経済圏に逃げており、明国の崩壊をきっかけに美麗島(ふぉるもさ)(台湾)の支援で南宋諸侯連合 (別名、後宋)を建国した。

もちろん、明国の後継国である清国と、明国の諸侯が集って生まれた南宋諸侯連合が対立したが、共に日の本の属国が支援しているので仲介の使者が送られ、京会議が開催されて国境線が引かれた。

その後、200年の間に何度も国境線が引き直される事件が起き、その都度に京会議が開かれた。

奇跡的に両国とも200年も存続した。


南宋諸侯連合の南には大アユタヤ国 (前田国)があり、別名をアユタヤ大帝国と呼ぶ。

俗称、初代皇帝の前田-慶次(まえだ-けいじ)織田-信照(おだ-のぶてる)の家臣であり、日の本の完全属国だった。

大アユタヤ国に喧嘩を売れば、南宋諸侯連合など消えてしまう。

一度引かれた国境線は二度と引き直す事もなく、平和な国境が生まれたと言う。


こうして、信玄(しんげん)が考えた野人女直(やじんじょちょく)との同盟が、大陸を変貌させるとは、本人も知る由もない。

以上が大陸北部のあらすじです。

これを整理しながら各話ごとに切り取って、小説に落とします。

戦場地をどこにするかとか、別途で悩む事になります。

しかし、国王アラク・ハーンは出て来ますが、族長の名すらございません。

そこのそんな部族がいたくらいは判るのですが、その先が出て来ません。

小説を作るのは登場人物です。

書いていると、勝手にしゃべり出します。

それが一番に面白い時です。

蝦夷地編くらいまでは何とかなりますが、その先の人物のイメージができないのです。


そういう訳で小説にはできませんが、大体の流れを書いておきました。

次は謙信です。


 ◇◇◇


アイヌ人の人口は幕末期に1万7千人弱であった事が判っていますが、16世紀の人口は不明のままです。

松前藩などと長い戦をしているので、相当の人口がいたと予想されます。


そこで先住民ネイティブ・アメリカンを参考に考察しました。

1492年のコロンブスが新世界を発見した頃は、約150万人の先住民が住んでいたと言われます。

(西洋人と日本人ではまったく文化が違うので当てにならないかもしれないが、戦国の世なので同じと仮定する)

その後、200年間で条約、戦争、そして強制によって、土地が奪われ、さらに旧世界から持ってきた疫病に対する免疫がなかったため、先住民の人口は激減し、1920年に35万人になった。

幕末とありますが、実際に人口を確認したのは明治初期(1867年)と思われますので50年を誤差と考えます。


アメリカ先住民 150万人 → 35万人。(減少率23%)

アイヌ 7万人 ← 1万7千人弱。(減少率24%)


以上の仮定で、蝦夷のアイヌ人の人口を7万人としております。


 ◇◇◇


【明治の蝦夷開拓政策】

明治のアイヌ政策は臣民、および、開拓民の人手不足から甘い政策になりました。

日本政府はアイヌ人を皇国の民とする政策をとったのです。

つまり、同化政策です。

さらに、ロシアの南下を防ぐ為に内地化が進められました。


朝鮮半島でも行われた衣食住の補償、道路の整備、医療設備、教育の為の学校を整えて行きます。

生活が向上して怒る者は少数です。

蝦夷が北海道となって政策が加速しました。

欧米の植民地政策が北風とすると、日本の植民地政策は太陽です。


虐げられる事が逃れる為に同化を望む欧米型に対して、日本型は民衆の大半が自ら進んで同化して行くのが違うのです。

欧米型は搾取するので本国が儲かります。

日本型は本国から投資をするので回収するまでに長い時が必要になります。

一時的に見ると大損です。


人道的には欧米型は虐殺に近い酷い政策ですが、民族の尊厳が残ります。

一方、日本型は民族の尊厳を傷つけて、文化を統合してしまうので狡猾と言えます。

ですから、

欧米型では、民族独立の気運が高まり、民族として独立運動が維持できますが、

日本型では民族が入り混じってしまい、事実上は不可能なのです。


日本は単一民族と言われますが、実際は混血民族です。

一度混ざると元に戻すのは、ほぼ不可能です。

欧米では良く起こる民族独立運動が起こり難いのはそのためなのです。

どちらが優れているかは別の話ですね。


 ◇◇◇


韃靼(だったん)はモンゴル人の総称であり、国名である。

そして、支配された地域の民族が韃靼(だったん)を名乗る事もある。

まるで『あめ』という漢字が、飴、雨、天といくつもの意味があるような感覚です。

どれが正解なのか判りません。


ウリヤンハン (朶顔衛) ,オンリウト (泰寧衛) ,オジエト (福余衛) はウリヤンハン三衛とも呼ばれる民族名である。

しかし、同時に地名としても使われています。

どのように明記するのが正しいのかも研究する必要があるようです。


 ◇◇◇


この傭兵国のモデルはアメリカです。

場所はロシアですが、モデルはアメリカです。

アメリカは武力を敵に売って緊張を作り、着方に武器を売って儲ける国です。

えっ、そんな事していないって?


よ~く考えて下さい。

イランに武器を売り、核技術を伝習したのはアメリカです。

イラン政権が変って反米になると、アルカイダを育て、イラクを育てて武器を売ります。

イラクが反米になると、サウジアラビアに武器を売ります。

今は中国を育てて、日本やその周辺国の武器を売っています。

アメリカは自分で育てて、対抗馬に武器を売り続けて儲けている国なのです。

アメリカに悪意はありませんが、やっているのは悪魔の商法です。

この傭兵国はそんな国になります。


生まれる清国はモンゴル帝国に近い巨大な国家になりますが、傭兵国に搾取され続けて、意外に脆い国家かもしれません。

なんて、考えたりします。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 甲斐の虎、シベリアの虎(アムールトラ)に進化す。 甲斐を出て海を求めて駿河を貪り食った武田信玄にとってはこの幕切れはよかったのかもしれんな。 元より戦国最強と名高い武田騎馬軍団が健在で、…
[一言] 江戸時代の文化五年1808年に幕府が調査した結果はアイヌ人口23767人で、アイヌ向けに必要な米の量が1人1日3合を想定して25668石とした丙辰雑綴(へいしんざつてつ)という資料がある。 …
[良い点] 世界史は細かく書き始めると終わらないからこういうダイジェスト感で歴史が動いていく感じに書いてもらえると楽しく読めますね! [気になる点] この清王朝はなかなか中華色に染まりそうにないなぁ。…
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