26.魯坊丸、京に向かう。
やって来ました京の玄関口の瀬田の長橋。
音羽山に沈もうとする夕日は真っ赤にもえて川を鮮やかに彩っている。
夕刻だというのに行きかう人も多く、家路を急ぐ足取りは自然とせわしなくなっているように思えた。
京から出る人は日の沈む方向に後ろ髪を引かれるように振り向かずに歩いてゆく。
赤く染まった近淡海(琵琶湖)も美しい。
湯殿から上がった千代の頬のようだ。
〔こういうときは嫌なこと忘れて壺中天に興じる〕
(お酒は飲まないよ)
「若様、それはほめ過ぎでございます」
「ここは近淡海(琵琶湖)の夕日がより美しく見える場所だと思わないか」
「とても美しい場所だと思います」
「美しいものを見ていると心が洗われると思わないか?」
「はい、若様」
「若い者はいいね」
「あいつ、何歳だよ。(あの歳で女を口説くとは)末恐ろしいぜ」
お使い兼保護者の彦右衛門(滝川-一益)と連れの慶次(前田-利益)が何か言っている。
気にしない、気にしない、瀬田の長橋で一休みだ。
走りづめでは馬も可哀想だ。
彦右衛門は兄上(信長)の手紙を預かって、京の伊勢-貞孝の元に向かっている。
俺は便乗する熱田の豪商の一人、呉服を取り扱う旗屋-金蔵の子、旗屋-金田として京見物にやって来た阿呆息子だ。
「阿呆息子でなく、将来有望な若旦那様です。角倉-与左衛門の店で京の商売を学ばせて頂くことになっております」
「固いことはいうな。どうせやらない。それより観光だ。 明日は清水寺を参拝し、平安神宮、賀茂御祖神社にも足を運ぼうか」
「若様がお望みならば、そう致しましょう」
「おい、おい、本当に来た理由を忘れていないだろうな?」
「慶次、慌てなくとも京は逃げはせん」
「京は逃げないだろうが、急ぐ必要があるからお忍びで来たのだろう?」
「状況も判らずに虎の口に入るのは馬鹿ですよ。観光してからでも十分でしょう」
「俺はいいが、こっちは拙くないか?」
「家を飛び出して、堺で鉄砲を学んでくるくらいの道楽息子でしょう。京の遊楽でうつつを抜かしてもおかしくないでしょう」
「まぁ、それもありか。だが、戦が始まっているかもしれないだろう?」
「どうせ参加しませんよ。兵もありません。そんなに急ぎたいなら先に行って下さい。俺は大津で旨い物でも食ってから行きます」
「待て、待て、旨い物はみんなで食おうぜ。それと酒だ」
「少々ですよ」
とにかく大津で泊まって、明日は観光だ。
兄上と(斎藤)利政の会見から5日しか経っていないのに、どうしてこうなったのだろうか?
会見が終わって、のんびりするハズだったのに。
◇◇◇
俺は兄上(信長)が無事に領内に戻ったのを確認してから河を下って津島に入った。
翌日、各所のお礼に回ってから熱田の中根南城に戻ると登城命令が届き、兄上(信長)からお褒めの言葉を頂いた。
その後の大宴会に参加するという罰ゲーム付きでだ。
「魯坊丸殿、何も起こらなかったでは御座らんか?」
「起こさないように兵で固めて頂いたのです」
「それでは我々の立つ瀬がない」
「某の槍さばきを殿にお見せしたかったのに」
「どうか我らに活躍の場を」
「善処致します」
那古野は去年の『岩塚の戦い』以来、戦らしい戦をしていない。
小競り合いは常備軍だけで事足りた。
その為の常備兵だ。
つまり、手柄が立てられない。ご奉公ができない。
各城主は働く場所がなかった。
皆、岩倉城の織田 信安とやる気満々だった訳だ。
俺、説明したよね。
憂さを晴らすように酒を浴びるように呑み、俺に愚痴を言い続けてくれた。
兄上(信長)の馬鹿野郎、どこがご褒美だ。
ただの人身御供だ。
やっと解放されて休んでいると帰蝶様がやって来てお茶を所望された。
帰蝶様はほんのりと頬が赤くなっており、いつもより饒舌なように思えた。
「魯坊丸、感謝します」
「何のことでしょうか?」
「戦にならぬように図って頂いたことです。戦になると思っていたのにならなかったのです。美濃の者は驚いたでしょう」
「兄上(信長)の目が尾張中に届いていると察してくれればいいのですが、こればかりは判りません」
「叔父(明智 光安)から息子らを遊びに遣わすので相手をして欲しいという手紙が届きました。弟の孫四郎、喜平次も一緒に連れてくるそうです」
ふふふと笑い、帰蝶様が嬉しそうだ。
久しぶりに弟らと会えるのが嬉しいのだろう。
しかも明智家は織田家と仲良くやってゆく方針になったようだ。
上と下からのハサミ打ちだ。
岩倉の織田 信安は益々苦しくなる。
「東美濃衆は織田家と良好、西美濃では牛屋(大垣)の竹越家と不破家、そして、明智家が味方になりました。これで美濃の半数が織田家との戦を望まないことになります」
「帰蝶様のお手柄です」
「魯坊丸のお蔭です。ありがとうございます」
「俺は何もやっておりません」
なんとなく、気恥ずかしい。
交渉では失敗続き、舟に揺られて寝ている間にすべて終わった。
がんばったのは千代や加藤らであり、俺は見守っていただけだ。
そうやって月見を楽しんでいる俺らに無粋な奴がやってきた。
「どうかしたか? 太雲」
◇◇◇
去年、三好 長慶に負けた前管領の細川 晴元が出家して京を脱出していたハズなのに、その京に舞い戻った。
管領職は細川 氏綱に奪われ、(細川)晴元の嫡男聡明丸も人質に捕られ、頼りの丹波衆も(三好)長慶に潰されて、もはや組織的な抵抗は不可能だった。
この状態で戻ってくるのか?
追い詰められている奉公衆の上野 信孝らと共闘するのが目に浮かんだ。
兄上(信長)の部屋に集まり直し、太雲の報告を聞いて対策会議だ。
「前管領殿は何を考えておられるのだ?」
「尼子と将軍で三好を挟撃することでしょう」
「尼子は動くのか? そう言えば、調べておったな?」
「知りませんよ。まだ報告が上がっていません」
可能性で言えば、尼子には兵力も兵糧も十分にある。
しかし、毛利が出てきている備中や但馬の山名、播磨国の赤松を放置して上洛するとは思えない。
(細川)晴元は妄想から先走って京に戻ってきたと言うのが実情だろう。
「若狭の武田 信豊はどうなっている?」
「いいえ、動いたという報告は入っておりません」
「では、(細川)晴元は一人で戻ったのか?」
「そういうことになります」
(細川)晴元は出家した後に助けを求めたのが、義兄弟の若狭の武田家であった。
若狭武田家は公方様(将軍家)の為に何度も派兵して、国内を衰退させている。
これ以上の戦は若狭の現状を考えると自殺行為に思える。
しかも公方様の要請ではなく、前管領(細川)晴元のお願いだ。
動くとは思えない。
とにかく、次の報告待ちだな。
◇◇◇
翌日、前管領晴元が京の西北に出没して暴れ出したという報告が入った。
ただの嫌がらせ、ゲリラ戦だ。
(三好)長慶はその手引きをした奉公衆から人質を要求すると、公方様(足利-義藤)は「その要求に応じる必要はない。勝手に元管領を討ち取ればよかろう」と突き返した。
朝から兄上(信長)の呼び出しが掛かった。
「魯坊丸、お主の意見が聞きたい」
「三好の要求は無理があります。幕府が要人の子息を人質に取られたのでは公方様の面子が潰れます。しかし、支援者を潰さないと晴元の嫌がらせが止まりません」
「おまえは三好を擁護するのか?」
「いいえ、晴元は寺や民家を襲っているのです。これを幕府要人が支援しているのでは、ご政道が歪んでしまいます。公方様が奉公衆を諌め、支援を止めさせるか、解雇するべきでしょう」
「その通りだな。なぜ、公方様はそうされない」
「判りません。ご存知ないのか、承知されてのことか」
京の守りを任されている三好-長慶は必死なのだろう。
京が乱れれば、三好が頼りないと思われる。
歴史も格式もない三好にとって、力だけが天下に示せる三好の存在価値となっている。
だから、京を荒らす晴元を放置できない。
だが、ゲリラ戦は守る側が絶対的に不利なのだ。
ゲリラは守りの薄い所を狙えるが、すべての守りを厚くすると負担が大きくなる。
意外だが、三好-長慶も追い詰められている。
奉公衆の上野-信孝らに人質を要求したのは、その焦りからだろう。
嫌がらせは天才的だな!?
晴元はまったくの無能者でもないようだ。
「前管領殿は何を狙っていると思う」
「判り兼ねます。状況が判るまで上洛を延期するのが最良と思います」
「おまえは何を言っているのだ?」
「ただ、状況が複雑になってきたと存じ上げます」
「…………」
兄上(信長)が不審そうな目つきで俺を見下ろす。
言いたくないだけだよ。
想像はつくが絶対に言いたくなかった。
そうだ、狙いは1つしかない。
しかも迷惑な話だ。
「帰蝶はどう思う」
「三好と公方様の間に亀裂を生じさせ、六角・朝倉・武田を巻き込んで、三好と公方様の決戦を挑ませる。もちろん、その中には、織田も含まれておるのでしょう」
「儂は手紙1つ、貰ったことがないぞ」
「それは関係ありません。公方様が頼りにされている方、すべてです」
「迷惑な話だな!」
「まったくです。当然、三好に担がれた細川-氏綱から管領職をはく奪させて、自らが再び管領職に就くつもりと思われます」
「己がそこに戻る為にやっていると申すのか?」
「それ以外にございません。公方様と三好を引き離すのが目的です」
「やはり、そう思うか」
兄上(信長)が怒った。
自分で上洛してお助けするとか言わないよね?
常備兵1,000人なら上洛も難しくない。
しかも俺に付いて来いと言うに違いない。
残るのは信勝兄ぃのみ。
場合によって信勝兄ぃが担がれて尾張を統一されかねないぞ。
絶対に阻止だ。
「兄上(信長)、それは公方様もご承知だと思います。公方様には公方様のお考えがあってのことと存じ上げます」
「儂もそう思いたい」
「兄上(信長)が心配すべきは尾張のことが先でございます」
「そうだな」
「ご理解頂けて嬉しく存じ上げます」
「あい判った。そちに任せる。確認してくれるか」
えっ、俺が?
皆、一斉に頷いた。
「どうせ行くのだ。少しくらい早くなっても問題はなかろう」
兄上(信長)が気楽に言ってくれました。




