85.誰が鈴をつけるか?
チリン、チリン、チリン、チリン。
銀を素材にした澄んだ鈴の音が聞こえる。
祝詞に合わせて巫女が舞う。
チリン、巫女が持つ神楽鈴が鳴った。
鈴の魔除け音だ。
天文22年 (1553年)12月1日、六道地蔵の合戦が起こった。
東遠江で公方様の御一行が今川-義元に襲われた。
だがしかし、戦は一瞬で終わった。
そして、その日が暮れる頃に遠津淡海(浜名湖)の蹴川(気賀)湊に戻って来た。
元関白の近衛-稙家や 幕府奉公衆の細川-藤孝はさっそく京に向けて手紙を書き、6日には京に届いた。
その日から京は上を下への大騒ぎだ。
戻る途中に美濃の騒動の続報を聞きながら稙家らが京に戻ったのは10日の事であった。
その日の内に稙家らは朝廷に、藤孝らは花の御所に戻った。
稙家らは帝に報告する。
「魯坊丸様は紛うことなき天照大御神様が遣わされた御使いでございました」
「誠か」
「この目でしかと見て参りました」
「ありがたい事だ」
「帝の御心を大御神様が察せられて遣わされたに違いありません」
魯坊丸は人として振る舞っているので、我々も人として接するのが良いと言いながら、稙家は公家らに魯坊丸の神通力を触れ回った。
一度怒らせれば、荒神・建速須佐之男命のような一撃で無人の野に変える。
「あな恐ろしや。あな恐ろしや」
信仰心が深い公家らは恐れ慄いた。
一方、藤孝の報告を見た公方様は激怒した。
何が書いてあるのか、全く判らなかった。
かの歌人として有名な三条西-実枝から絶賛された姿を失い、魑魅魍魎の声などが聞こえたという言葉が乱れ飛び交っていたのだ。
同時に届いた魯坊丸の手紙は公方様宛てへの謝罪であった。
義元が襲ってきたので撃退しました。
そんな感じのさっぱりした手紙で講和が失敗した事を詫びていた。
幕臣らは魯坊丸の手紙など忘れ、藤孝の報告にあったおおよそ三万人の今川軍を一蹴したという一文に注目した。
あり得ない。
何が起こった?
朝廷では『神通力、神通力』と煩い。
そして、10日に藤孝らが戻ってくると、当然のように詰問に晒される。
だが、藤孝らに答えられる訳もない。
「あれは人ならぬ物でございます。お側においてはいけません」
「魯坊丸の事か」
「あれは悪鬼・羅刹にて、挑む事が愚行でございます。怨霊を呼び込み、義元公も生きておられぬでしょう。あれの本性は鬼でございます。近付いてはなりません」
藤孝の言う事は的を射ない。
火矢を放つと世にも恐ろしい爆発が起こり、顔を上げると焦熱地獄のような光景が広がっていたと言う。
死者がころがり、亡者が「助けてくれ」と叫び声を上げて、藤孝を呼んだ。
藤孝は耳を塞ぎ、目を閉じて、その場を後にした。
今でも亡者達の声が聞こえると言う。
「よく判らん。詳しく話せ」
「辺りから亡者どもの呻き声が聞こえ、地獄以外に思えぬ様が目の前に広がったのです。あれは地獄でございます。かの者は地獄を呼んだに違いありません」
「地獄の話はよい。魯坊丸は何をやった?」
「地獄の門を開いたのでございます。地の底から異形の者が沸き、一瞬にて三万人以上の命を奪って去ったのです。あの者を信じてはなりません。あの者の本性は『悪』、皆を滅ぼすに違いありません」
「もうよい。下がれ」
供物を備えると鬼(神)の力を呼べるとか?
何度聞き返しても訳が分からない。
とにかく、魯坊丸が恐ろしい力を隠していたのだけは間違いない。
三好-長逸を倒した力など片鱗でしかなかった。
神でも、鬼神でもどちらでもよかった。
公方様も同じ事しか言わない藤孝を見限って下がらせた。
「まぁ、魯坊丸だからな」
公方様も理解する事を諦めた。
力を隠していたのは腹立たしいが魯坊丸のやる事をいちいち咎めても仕方ない。
むしろ、これで足利幕府の再興が出来る。
それだけが判れば十分であった。
幕臣らはそうもいかない。
魯坊丸は公方様に従っているが、幕臣、特に奉公衆を軽く見ている。
公方様は魯坊丸からの手紙を取次役も介さずに受け取っている。
これでは取次役の奉公衆としての面目が立たない。
そもそも、それを決めたのは公方様であって魯坊丸が要求した訳ではない。
逆恨みだ。
「この力を放置しておくのは拙うございます」
「全くその通りだ」
「織田家の増長は目に見えておる」
「諸大名が魯坊丸殿を通して、公方様に意見するような事になっては一大事だ」
「このまま放置はできません」
「織田家の力を削いでおくべきだ」
「如何にも」
藤孝の言う鬼の力など信じられない。
そもそも、今の今川家が三万人を動員できる訳がない。
夢でも見ていたのだ。
都合の悪い事は忘れる事にしたらしい。
さて、図に乗る織田家を放置できない。
そこが重要だ。
織田家から三河・西遠江を返還させ、美濃斎藤家への口出しも止めさせる。
最後に魯坊丸を鞍馬山に幽閉し、幕府の管理下に置く。
このままでは安心できない。
「で、どなたがそれを織田家に言われるのですか?」
・
・
・
誰も名乗り出ない。
誰もいなかった。
当たり前である。
あの三好-長慶すら軽くいなして屈服させてしまう魯坊丸の首に鈴を付けられる勇者などいない。
そんな事を言っている間に多くの諸大名が京に上がってくる。
中国、四国、九州、関東、奥州からの名代も上がってくる。
織田家は堺で大砲を撃って諸大名を威嚇した。
幕臣らは焦る。
忙しい最中に毎夜の如く、誰が鈴を付けるかと議論を重ねていた。
◇◇◇
(天文22年 (1553年)12月27日)
織田の船団が15日に熱田湊を出港し、天候も良く、20日堺湊に到着した。
織田家の奇妙な形をした船から火を吹き出し、海面に水柱が立ち上った。
帆船はしばらく砲撃を続けてから湊に入った。
堺にいた南蛮人らも織田家が大砲を所有している事に驚いた。
堺の商人もびっくりしただろう。
翌日(21日)には上洛を開始する。
河内の守護代を始め、領主も付き従って織田家と北条家の上洛に同行する。
そして、24日に京に入った。
25日、斯波-統雅と北条-氏康、兄上(信長)、信勝兄ぃが花の御所で公方様と拝謁した。
公方様も時間もないので、その日の内に他の諸大名も集めて宴が開かれた。
遅れて京に上がってきたのが武田-晴信だ。
晴信が公方様に拝謁するのが26日だった。
27日に俺が京に上がると稙家に連れられて御所の庭に連れて行かれて帝に拝謁する。
否、帝が俺に頭を下げる。
公式の場では言えないので、わざわざ非公式の場を設けたという。
「魯坊丸様が降臨された事を嬉しく思います」
「私(俺)は帝の臣下でございます。頭を上げて下さい」
「こうして御尊顔を拝し、本当に嬉しいのです」
「誤解でございます。私(俺)はただの魯坊丸でございます」
これから朝廷の事を色々と相談されたが面倒なので言葉を濁しておく。
「なるほど、魯坊丸様のお手を煩わせるのは無遠慮でございました」
下界の事は下界の者が取り仕切れと聞こえたようだ。
この帝(後奈良天皇)は即位式の費用の為に臣下に媚びて、献金を貰うくらいならば、即位式ができなくても構わないと献金を突っ返すほど清廉な人柄であり、民が大病に侵されていると聞くと大いに心を痛めて密かに金字で般若心経を写して各寺に配った。
国が乱れて民が困窮するのを悲しんで、もう大御神の慈悲に縋るしかない。
そう思っていた所に俺が現れた。
尾張の民が救済され、織田家の献金で御所の修復も出来、新嘗祭などの復活も出来た。
俺から貰った医学書で子・孫や公家の多くも助かっている。
次に三河の民も救われ、都で起こるハズの大乱も防いだ。
いつか、この日の本に遍くその光が降り注ぐ事になると予感した。
俺の事をずっと大御神の御使いと思っていたらしい。
うん、勘違いです。
が、この度の事で明らかになったと言う。
もういいや。
勝手に誤解させておこう。
とにもかくにも朝廷が敵に回らないのはありがたい事だ。
知恩院に戻ると来客の山が待っている。
公家の皆様は当然として、六角-義賢、三好-長慶、畠山-高政などの当主がやって来て、更に上杉、尼子、大内、毛利、大友等々の使者も続く。
皆、魔王様とのご対面を望む。
基本的に斯波-統雅と北条-氏康が相手をしてくれるので問題ない。
段取りは兄上(信長)、信勝兄ぃのお仕事だ。
俺は借りてきた猫のように座るだけだ。
俺を警戒する者、俺を取り込もうとする者、俺が取り込まれるのを防ごうとする者。
我先にと諸大名共がこぞって駆け引きを繰り返す。
やはりというべきか。
だから清洲で宣言した通り、俺はしばらく隠遁する。
初期で結んだ同盟国以外とは新たに知己を結ばない。
義賢と長慶にとって好都合な話なので合意して貰えた。
そもそも俺の手はそれほど長くない。
国内の整備が急務なのだ。
正直に言えば、領地が広がり過ぎ、銭を使い過ぎて、もう余裕が無く、武田家と戦なんてやってられない。
他も以下同文。
わぁ~、あくびを我慢するのも辛くなって来た。
俺は訪れて来た方と次々に挨拶を交わす。
今後の事は斯波-統雅と兄上(信長)が答える。
俺は一切口を開かない。
笑顔を絶やさず、にこにことしている。
本当に何もしない。
この同席しないといけないのは判るが疲れた。
面倒になって来た。
もう部屋に帰ってごろごろしてもいいですか?
明日は斯波-義統の暗殺から始まった『今川仕置』が待っている。
駆け足で忙しいな。
だが、公方様は正月までに面倒事を全て終わらせるつもりだった。
今川仕置まで行けませんでした。




