閑話.お市ちゃんの奮戦記(6) 〔城取りなのじゃ〕
(天文22年 (1553年)8月1日)
深夜に安祥城を出発した早馬は闇夜を駆けて夜明け前の那古野城に到着した。
三ノ丸、二ノ丸を通って本丸の屋敷の裏手から入り、役所に書状を渡すと側近の一人がどたどたどたと廊下を走って、信光の寝所に向かった。
「殿!」
「どうかしたか?」
「加藤-順政、並びに大饗-正辰より書状が届いております」
「急ぎでなければ、朝食の後でよいと申したであろう」
「そう思い確認致しましたが某では判断が付かず」
「貸せ」
信光が順政の手紙を読むと声を上げた。
「何故、お市が行く事になった。三十郎の勉強の為に行かせたのだぞ」
「やはり順政殿には荷が重かったと思われます」
「親父を行かせるべきであったか。詳しい内容は?」
「こちらの書状に」
正辰の長い手紙にはいきさつが書かれていた。
まず、木之下-藤吉郎が玄海和尚に唆されて、三十郎ではなく、お市と交渉してしまった事。
1つ、信光の指示で藤吉郎には三十郎の勉強を告げていなかった事。
1つ、信光の判断で服部-保長が近江より戻って来た事を告げなかった事。
1つ、最悪の場合は保長を使って内側より岡崎城を力攻めで乗っ取る計画が進んでいる事を知らせていない事。
1つ、交渉を三十郎に任せる前に宴席でお市が即断で決めた事。
等々と止める暇が無かった言い訳をつらつらと必死に弁解していた。
つまり、「俺の責任じゃございません」と信光に訴えている。
「あの阿呆が」
「殿、お怒りは程々に」
「正辰め、もう少し気が利くと思っておった」
「正辰は魯坊丸様でございません。多少知恵はありますが13歳の若武者に過ぎません」
「そうであったな」
ちぃ、信光は舌を打った。
書状を放り投げると「帰蝶に届けておけ」と言って2度寝をする事にした。
今更、止める事もできない。
危なくなれば、保長が護ってくれると信じるしかない。
岡崎には岡崎の、今川には今川の思惑があると、二人が勉強して無事に帰ってくる事を祈った。
◇◇◇
信光より慌てていたのは東三河の上ノ郷城に居た鵜殿-長持であった。
「何?もう一度申せ」
「本日、安祥城の織田方が岡崎城に向かうそうでございます」
「あり得ん。性急過ぎる」
「事実でございます」
「こうしてはおれん」
慌てて牛窪城の牧野-保成や吉田城の城代である伊東-元実らの元に使者を送って陣触れを出すように命じた。
籠城する岡崎勢を取り囲む織田勢を挟撃する為であった。
矢作川を渡河した織田勢を叩く事で三河の勢いを削ぐのが目的である。
長持は織田家の好きにさせる訳にいかなかったのだ。
「飯尾-乗連に連絡だ。織田家の小倅を捕まえて、儂の到着を待てと」
使者が岡崎城を目指して走った。
岡崎城の城代は3人もいる。
飯尾-乗連(遠江国、曳馬城主)
二俣-持長(遠江国、米倉城)
山田-景隆(三河国、川手城)
この三人が入っており、平時は順番に交代していた。
今は飯尾乗連が城代に入っていた。
岡崎城を取ると言う玄海の策が漏れていたのだ。
しかし、織田方の動きが早過ぎた。
早朝に陣触れを掛けても兵が集まったのは昼過ぎであった。
◇◇◇
日も上がらぬ内から松平-家次と松平-忠吉が織田方2,000人の兵を引き連れて出発する。
遅れてお市一行も出発した。
お市の横で正辰が親指を齧りながらぶつぶつ呟いている。
「こんなハズではなかった」
三十郎は文官束帯の正装を身に纏い、お市も少し短めの唐衣裳装束と言う出で立ちだ。
今日は天女の衣装は封印した。
勿論、二人とも本当の正装ではなく、魯坊丸が考案した『なんちゃって衣装』だ。
見た目は本物の衣装に見えるが、実は一枚の上着型の衣装になっており、腰帯一本で止めている。
最大重量も三分の一以下になる。
イザという時は腰紐を解くだけで着脱できるので便利な衣装であった。
今回のような場合、下着の上に鎖帷子を着込んでおく事もできた。
見た目は何気ない正装に見える。
「正辰、顔色が悪そうだが大丈夫なのかや?」
「大丈夫でございます」
「城取りが楽しみじゃ」
「8割方、巧くいくハズです」
「そうなのか?」
兵達は矢作川を渡河して三十郎とお市の到着を待って岡崎に入った。
先に戻っていた家老の鳥居-忠吉、酒井-忠尚、石川-忠成の三人が出迎えて岡崎城へ入城する。
当然の事ならば、謁見の間でお市が上座に座った。
残念ながら雛段ではない。
お市が座ると左右に側近や警護の者が座り、織田方と岡崎の家老達が左右に別れて座った。
岡崎の最上位は城代の飯尾乗連が座っている。
対する織田方の中央に藤吉郎が座っているのを見つけると不思議な顔をする。
確かに顔に覚えがある。
間者として送った藤吉郎が織田家の席に座っている。
その席だが桜井松平家の家次と松平氏宗家五代松平長親の孫の忠吉達の上座だ。
あり得ない。
あり得ないが事実なのだ。
この岡崎三家老の策謀を教えてきたのは藤吉郎である。
敵か、味方か、さてどっちだ?
飯尾乗連が疑うのも当然である。
今川家に戻って来ても安祥城の城代以上の地位を与えられるだろうか?
こちらもあり得ない。
藤吉郎の今川への忠義が信じられない。
かと言って藤吉郎の密告を信じて岡崎三家老を処分すれば、間違いなく今川家は岡崎衆から見限られる。
岡崎三家老が裏切るまで手が出せなかった。
藤吉郎が一歩前に出た。
「お約束の通り、織田三十郎様をお連れ致しました。これで織田方に寝返って頂けますな」
岡崎三家老を代表して鳥居忠吉が前に出て「承知」と言う。
「待て、儂は聞いておらんぞ」
本多-忠真が怒号を上げた。
「その方は黙っておれ」
「鳥居、裏切るつもりか」
「情勢も読めぬ若造は黙っておれ。阿部-定吉殿の約束は果たしましたぞ」
「そうだな」
阿部定吉が飯尾乗連の方を向いて頷いた。
そして、手を翳すと謁見の間の三方の戸がばたばたばたばたと開かれて兵が現れた。
正面の廊下からもどたどたどたと兵が押し寄せてくる。
「阿部殿、これはどういうつもりか」
「ははは、掛かったな。お主らの思惑など、最初から今川方には筒抜けであったわ」
「臆したか」
「我らの忠義は岡崎松平竹千代様にある。主君を裏切るなどできようか」
「おのれ」
鳥居が悔しそうに床をバンと叩いた。
阿部定吉がお市の方を向き直した。
「そういう事でございます。お市様には今川の人質になって頂きます」
「わらわを捕える事ができると思っておるのか?」
「この岡崎城には密かに300人の兵を入れております。逃げる事などできません」
「わらわは逃げんぞ。城取りに来たのじゃ」
「あははは、気の強い姫だ」
「やれるものならばやってみるのじゃ。相手になってやるのじゃ」
お市が懐に手を入れて紐を解くと十二単をバザッと脱いで立ち上がった。
後ろに控えていた和田-惟政がお市に小太刀を渡すと、お市が腰に差した。
これで戦闘態勢が整った。
お市は嬉しそうだが三十郎は青い顔をしている。
「順政、どうする?」
「どうも致しません」
「致しませんとはどう言う意味だ」
「知りません。成る様にしか成らぬと言う意味です。正辰殿、そうでございますな」
加藤順政が横の正辰を見た。
実の所、正辰も半信半疑だったので横の玄海和尚を見る。
「ほほほ、大丈夫でございます。もうよろしいでしょう」
玄海和尚がそう言うと、織田家に向けられていた槍が飯尾乗連と阿部定吉の方に向けられた。
「戸田-光忠、血迷ったか!」
阿部定吉に槍を向けているのは渥美半島を支配していた田原城の戸田康光の弟である。
今川家に謀反を起こして滅ぼされ、弟の光忠は岡崎に逃げて来ていた。
「表返りでございます」
「助けて貰った恩を忘れよって」
「時勢を読めぬ阿部様に付いてゆく訳には参りません」
「内藤殿」
内藤-清長が首を横に振った。
多くは内藤が集めた兵らしい。
そして、他の家老らも知らなかった。
引き入れた300人の内、阿部定吉の兵以外は敵と知った。
部屋の隅で阿部定吉の兵が槍を突き立てられて集められている。
完敗だ。
阿部定吉がその場でぐったりとうな垂れた。
「ほほほ、阿部殿。策とは裏の裏をかくものでございます」
「この腐れ坊主が」
「お褒めの言葉と聞かせて頂きましょう」
「和尚、先に教えて下さい。冷や汗を搔きましたぞ」
「ほほほ、藤吉郎殿。知らぬ方が良い事もあるのです」
「しかし、信じてはおりました」
是にて一件落着。
そんな感じなのだが、お市がきょとんとしていた。
終わりなのかや?
楽しい遊びを始めると思ったら終わってしまった。
「詰まらないのじゃ。確かに城に来れば、城取りができると言ったが、これでは詰まらないのじゃ」
「お、お市様」
「これではわらわは何の為に来たのか判らないのじゃ」
「お市様に来て頂けましたので、見事に罠に掛ける事ができたのです」
「果たしてそうかや。岡崎の者は納得できたかや」
お市がそう問うと、本多忠真が大声で答える。
『できる訳がなかろう』
これは玄海和尚と阿部定吉と鳥居忠吉が化かしあっただけであり、岡崎の家臣達は完全に取り残されていた。
取り残されたのはお市だけではなかったようであった。
「ならば、わらわと勝負じゃ。わらわが負けたならば、矢作川の西まで兵を引こう」
「小娘、吠えたな。その形で何ができる」
「わらわを相手に臆するか」
「いいだろう。受けて立とう。もしも負けたならば忠義を尽くしてやる」
「言ったな」
「お市様、お待ち下さい。これは終わった話でございます。勝手に引くなどと言わないで下さい」
「玄海とか申したな。この者達の目を見よ。困惑と怒りに満ちておる。このような者らが寝返っても信用などできんのじゃ」
「お市様」
「尾州様」
「待って下され。それは困る」
「お市様」
『一同黙れ!』
公方様の家臣である和田惟政が声を上げた。
お市の側でも隠岐や伊豆が止めており、藤吉郎らも止めさせよと声を掛けていた。
概ねの反対を惟政が一蹴してしまった。
「既にお市様は断を下された。否と申すことはならん」
惟政の横で朽木輝孝が「流石に拙い」と声が掛けるが惟政は無視する。
お市様が最上位だ。
この時ばかりと権威を翳して皆の口を強引に閉じさせた。
三十郎は付いて行けず、藤吉郎らは真っ青だ。
「お市様、存分にお楽しみ下さい。某が立会人を務めさせて頂きます」
「よう申してくれたのじゃ」
「岡崎の方々、よろしいですな」
思わぬ展開に岡崎の者は誰も付いていけない。
ただ、張本人のお市と惟政だけが楽しそうな笑みを浮かべていた。
城取りなのじゃ。
やる気満々で腕を回した。




