24.魯坊丸、天変地異で押し潰される。
天文22年6月24日(1553年8月13日)。
ごおっと唸る風が走り、がたがたと閉じられたままの雨戸が音を立てる。
昨日の昼頃から降り始めた雨は夕方には豪雨となり、その横殴りの雨の中を俺は熱田から中根南城に戻って来た。
夜半から更に風も強くなり、これは普通の雨ではなく、野分(台風)だと気付かされた。
魚屋、天王寺屋、小木曽-六兵衛らも船が出せないので足止めを食らっていることだろう。
それとも二日続けての宴会を朝から続けているのだろうか?
まぁ、俺には関係ない。
朝の体操も中止。軽く朝食を自室で取ると俺は再び布団に戻った。
雨戸が閉じられたままなので部屋は真っ暗だ。
油を焚くのも勿体ない。
俺は布団の上で薄い布地の掛け布団を巻いて寝続ける。
沓掛に戻る事も中止した。
1日中ごろごろして過ごすぞ。
ばたん、障子がけたたましく音を上げて開かれた。
蒸し暑さを耐えながらごろごろしている俺の前に天の岩戸を開けて雨のウズメが乱入してきた。
「魯兄じゃ、いつまで寝ているつもりじゃ」
「1日中、寝ているつもりだ」
「何を言っておる。久々に皆が集まっておるのじゃ。魯兄じゃも顔を出すのじゃ」
「皆が? 壁1つ向こうにいるから会いたい時はいつでも会えるだろう」
「何を言っているのじゃ。向こうに行ったら畑を手伝わされるではないか?」
???
お市の言っている意味が理解できない。
俺は労働を課した記憶はないぞ。
「千代…………はいないのか?」
「はい、はい、千代女様は自室で仕事をやられております。今日の寝ずの番はさくらです」
天井を開けてすたりと降りて来た。
正に忍者という動きだ。
「おぉ、さくら。相変わらず見事なのじゃ」
「お市様も出来るではないですか?」
「わらわは道具を使わねば、天井に上がれぬ」
「それはさくらも同じです」
「そうか、同じであったか」
何か異次元の話をしている。
天井って、道具が在っても上がれるものか?
桜らは上がっているけどさ。
「部屋の中より天井裏の方が風の通りも良く、涼しいのでございます」
「なんと! それは盲点であったのじゃ」
「見張りをしながら快適なのです」
「さくら、良い情報をありがとうなのじゃ。今度、里と栄を連れて行ってみるのじゃ」
さくらがいるとお市があらぬ方向に進みそうだ。
と言うか、里と栄も上がれるのか?
我が屋敷は利用者が多いので屋根裏も床下も掃除させている。
別に不衛生ということはないのだが、姫達が行く所ではない。
「お市、いいか」
「魯兄じゃ、別館は大変なことになっているのじゃ」
「何が大変なのだ?」
「大変なのじゃ」
「さくら、父上(故信秀)の側室らは何をされているのだ?」
「ここの料理は美味しくて食べ過ぎるそうです」
「まぁ、末森よりは豪勢だな」
「最近、お腹に肉が付き始めていると気にされていたので畑仕事を始められました」
「???」
「向こうに行ったら、畑仕事を手伝わされるのじゃ」
側室らが畑仕事を始めたのは判った。
しかし、何故、お市が手伝うことになるのだ?
そもそも何故、畑仕事なのだ?
下忍用の宿舎の周りは野菜畑があり、自分らのおかずの一部を自給自足で用意させていた。
新しい宿舎を側室に譲ったが、周りは手付かずであった。
急な移動だったのですっかり忘れていた。
「さくらが教えて上げたのです。畑仕事をするとご飯が倍の美味しさになり、しかもお腹の肉が綺麗に削げるのです」
「お前か!」
「側室の方々の格言は『働かざる者、食うべからず』なのです」
その格言もさくららが広げたようだ。
頭が痛くなってきた。
胸を張って偉そうにするさくらを殴りたくなる。
さくららの讒言に側室らが惑わされた。
「どうしてさくらが対応している?」
「宿舎で一番偉いのはさくら達だからです」
「あっ、忘れていた」
侍女長である桜、楓、紅葉は宿舎でも一番偉い者になる。
責任者を呼べと言われれば、桜らが呼ばれる。
旧宿舎が併設されており、警備の上で万全と思っていたが思わぬ盲点であった。
「さくらは側室の方々と仲良しなのです。褒めて下さい」
「阿呆、褒められるか」
三馬鹿がやってくれました。
暑い中で麦わら帽子を被って大根の種を蒔く為に畑を耕しているらしい。
熱中症で倒れないか心配になって来た。
◇◇◇
嫌々だが、お市に連れられて大広間に移動する。
別に危険とは思わないが、本丸の屋敷に比べると宿舎の建物は安普請だ。
野分(台風)を気に掛けて、本丸に避難して来ていた。
皆さん、お市のような健康そうな小麦色に焼けておりました。
いいのか?
そして、見たことがなかった弟や妹を紹介された。
本当に姉妹が多いな。
一人でも蒸し暑いのに大勢が集まると更に蒸し暑くなる。
大きな団扇でぱたぱたと仰いでいるが気休めでしかない。
「魯坊丸様、又十郎だけ学校に通えるようにするのは不公平ではございませんか?」
又十郎は12男で岩室殿の子供の事だ。
お世話になっている太雲の孫に当たり、英才教育で俺の側近に育てたいらしい。
学校は学校でも忍者学校だ。
九郎兄ぃ、喜蔵、彦七郎、喜六郎、半左衛門、源五郎にはお奨めできない。
できないよね?
「おい、さくら」
「はい、何でしょうか?」
「俺の兄ぃらもお市みたいな体術ができるのか?」
「いいえ、他の兄弟は至って普通です。お市様が異常なだけです」
こいつ、お市を異常と言い切りやがった。
「お里様とお栄様が頑張って追い駆けているので、かなりいい線まで来ておりますが、まだ一線を越えた感じはないです。大丈夫です」
「何が大丈夫なのだ?」
「色々です」
訳が判らん。
さくらの代わりに何見姉さんを呼んでも良いのだが、仕事に厳格で余計なことは喋ってくれない。
適度に呆ける桜達の方が和むのだ。
千代女は忙しいので邪魔をしたくない。
でも、千代女のように状況を的確に把握して、適度なアドバイスをしてくれる優秀な秘書が欲しい。
無い物ねだりだ。
俺は側室らのお願いを引き受ける。
まずは、ここで勉学を教える。
入学できるレベルに達したら入学を許すことを確約した。
寮には入れず、ここから通いでいいだろう。
そんな余裕も無いのが4男の三十郎兄ぃだ。
京に到着できなかったが信勝兄ぃの名代で上洛した。
一度でも公務に顔を出すと芋づる式に色々と仕事が回ってくるようだ。
領地が広がり、寺の検地が必要になって来た。
色々と交渉がある。
しかし、格式だけは高い寺も多く、こちらから挨拶に行かねばならない。
兄上(信長)も俺も忙しい。
信勝兄ぃにはさせたくない。
そこで三十郎兄ぃの名前が上がった。
兄上(信長)や信勝兄ぃの名代として挨拶に行って貰う事になったらしい。
俺が選んだ訳じゃないぞ。
格下に見られないように礼儀作法から人間関係まで教え込まれ、どんな質問があってもいいように領地の経営など英才教育が始まっている。
余程忙しいのか、ここにも顔を出していない。
まだ、10歳なのに可哀想なことだ。
俺、俺のことはいいのだよ。
諦めました。
でも、ごろごろはするぞ。
◇◇◇
どうでもいい話を聞かされ続けていると、藤吉郎が中根南城にやって来た。
一緒に沓掛に帰る予定だったが、今日は中止だ。
「若様、家来を連れて来たので紹介したいと言うことです」
「そうか、離れに通せ」
俺は大広間から離れ間に移動して上座に座った。
藤吉郎が平伏している。
その後ろに二人?
見知った奴が混ざっていた。
俺の後の障子がすっと開く。
余程、暇なのか?
皆が付いて来たようだ。
漫画のように隙間に集まっているので、その内に障子ごと倒れてくるぞ。
「誰か、後ろの障子を開けよ」
障子が開かれるとお市が声を上げた。
「犬千代なのじゃ。久しいのぉ」
「お市様、お久しぶりでございます」
気軽く部屋に入って犬千代の方に向かおうとしたお市を慶次が止めた。
「慶次、何をするのじゃ」
「お市様、ここは城です。下賤の者と妄りに触れることは控えて下さい」
「あれは犬千代じゃ」
「以前は側用人ですが、今は浪人です」
犬千代が顔を上げてぎろりと睨んだ。
「慶次、何故そこにいる」
「俺の領地には城も領民もいない。銭が無いので魯坊丸様の護衛をしている」
「いい気味だ」
「浪人よりマシだ」
犬千代が睨み、慶次が鼻で笑う。
相変わらず、仲が悪い。
家来筋の滝川家を下に見ているのか?
単に相性が悪いだけなのか?
「藤吉郎、何故、犬千代がいるのか?」
「熱田で見つけました。槍の腕前が『国士無双』だそうです」
あははは、慶次が笑う。
「こいつのどこが国士無双だ。それは槍の名前だ」
「慶次、うるさいぞ。俺が国士無双で何が悪い」
「ならば、俺と仕合ってみるか?」
「それは駄目じゃ。犬千代では慶次に勝てんのじゃ」
お市にズバりと言われて、犬千代が怯んだ。
判っていてもはっきりと言われるのが辛いものだ。
藤吉郎が喋っていいのか困っていた。
「もう一人は誰だ?」
「おら…………私の弟です。寺から神学校に推薦を貰えるほど優秀な奴であり、どうかおらの家来として召し抱え、正辰様と一緒に神学校に通わせて欲しいだ、です」
「名を何と申す?」
「小一郎と申します。藤吉郎の弟でございます」
「そうか、後でゆっくりと話をしよう」
本当に優秀ならば、それがいい。
ウチには人材の余裕がない。
ゆっくり育ててから投入したいが実習と称して、神学校の4回生や3回生を実践で鍛えながら使えるようにするしかないほど枯渇している。
3年前に逆戻りだよ。
小一郎が優秀ならそれに越したことはない。
「藤吉郎」
俺が藤吉郎の名を呼ぶと、「はぁ」と答えて頭を下げる。
媚び諂う事に何の抵抗もございません。
そう言わんばかりの見事な平伏だ。
「この犬千代は織田家から追放された者だ。妄りに家来にすることは許さん」
「駄目でございますか?」
「駄目だ」
「判りました」
犬千代が睨んでいた慶次からはっとなって俺を見る。
意外な返事に驚いたのだろう。
むしろ、これが普通だ。
「魯坊丸様、どうか仕官をお許し下さい」
「犬千代、無理を言うな」
「藤吉郎殿、どうかお願いして下さい」
「魯坊丸様に言われては?」
「どうかこの通りでございます。お願い致します」
犬千代も見事な平伏を披露した。
ほぉっと慶次が少し声を上げてびっくりしている。
「雨でも降るかというか、既に降っておるな」
「慶次、俺を馬鹿にするか?」
「いやいや、感心している」
「お前には1日15文を稼ぐ辛さが判るまい」
犬千代が涙目で訴える。
「びっくりだ。雨どころか、地面が揺れるのではないか?」
「おのれ、馬鹿にしよって」
刀を持って立ち上がると思ったが、犬千代が我慢している。
意外だ?
あの短気な犬千代が我慢できるのか?
こりゃ、天変地異でも起こりそうだなどと考えていると、本当に地面が揺れて来た。
地震だ!
デカくはないがそれなりに揺れていた。
「魯兄じゃ」
お市が俺に縋り付くと後の里や栄が「兄上」と言って寄ってくる。
本当に怖かったのか、豊良方も「殿」と寄ってくると、早川殿も負けてられないと飛び込んで来た。
「ちょっと待て!」
うげぇっと俺が蛙のように押し潰される。
それが面白かったのか、他の妹や弟もその上にのしかかってくる。
ぐぎゃ、ぐぎゃ、あがぎゃ、潰される。
小さい妹が上にいるから動けない。
助けてくれ!
しくしくしく、酷い目にあった。
「さくら、楓、紅葉、何見、乙子」
俺は解放されると真剣な顔付きで、短く侍女長達の名を呼んだ。
全員がすっと現れる。
「さくら、楓、紅葉、今の地揺れでの城の被害を探って来い。特に火種が倒れて火災になってないかを念入りにだ」
三人が「畏まりました」と一声すると散ってゆく。
「何見、村を回って被害を確認しろ! 乙子、元締めに言って熱田全域を確認させろ。火が上がっても不思議ではない。火災を広げるようなことは許さんと申しておけ」
何見と乙子が「はっ」と言って頭を下げるとすっと出てゆく。
代わりに千代女が入って来た。
「若様、ご無事でよろしゅうございました」
「千代」
「承知しております。太雲に命じて、尾張全域の被害を調査するように使者を送っておきました」
「そうか」
流石、千代女だ。
俺が言う前に動いてくれている。
「加藤」
俺がそう叫ぶとすっと音も立てず現れた。
「沓掛の様子を見て来て欲しい。被害が出ているならば、信広兄ぃに救済に入るように伝えよ。そして、そこでお前も指揮を取れ。更に三河の情報を集めよ」
「承知」
そう言うとすっと出ていった。
「藤吉郎」
「はい、何でございましょうか?」
「直ちに沓掛に戻り、救援物資の準備を行え」
「救援?」
「判らんか、雨が降って増水している所に地揺れが起こった。まず間違いなく、どこかが決壊したと考えられる。その者達を助ける為の救援物資だ」
「なるほど、流石です」
藤吉郎が大きな声で納得する。
「荷車は使えん。背負ってゆけ」
「畏まりました」
「今回に限り、兵300人を貸し与える。安祥城に戻り、松平-忠吉と相談して、敵味方の区別なく、救済を行え。雨が止み次第、熱田から兵糧を送らせる」
「承知致しました」
「いいか、(山中)為俊、(大饗)正辰(沓掛の右筆)に相談して動け。勝手は許さん」
「肝に銘じます」
「犬千代を召し抱えることはならんが、護衛兼世話役としてお前が雇う分には文句は言わん。人手が欲しい。手伝わせろ」
「ありがとうございます」
「魯兄じゃ、信じておったのじゃ」
とりあえず、こんな所か。
俺はしばらくすると末森に行く事になる。
それまで中根南城から動けなくなった。
不安ではあるが、三河は藤吉郎に任せるしかない。
「魯兄じゃ、ありがとうなのじゃ」
犬千代を救って、お市の信頼を取り戻したので良しとするか。
俺は妹達に押し潰されそうになったが、犬千代は逆にそれで助かった。
犬千代、運がいい奴だ。
天文22年6月24日(1553年8月13日)
『本朝通鑑』に鎌倉で風雨地震と載っております。
小さい地震くらいなら書き残していないでしょう。
つまり、それなりの被害があり、それでいて有名にならない程度の地震だったのでしょう。
風雨と書かれていたので、時期的に台風ではないかと推測しました。




