5.前田慶次との再会。
波の音がざぶんざぶんと聞こえる。
湿原の向こうで白波を上げて幾重にも重なっていた。
熱田の西、中川に掛かった仮の橋を渡ると、全く何も無い埋め立て地が広がっていた。
まだまだ海側には湿原地帯が続き、開発の余地が残されている。
にも拘らず、誰もいない。
湿原には水を排除する為に造られた石垣が積まれ、後は水を抜けば、すぐにでも埋め立てられる。
カ、カ、カ~!
そこを占有しているのはカラスの鳴き声だけであった。
「魯坊丸、久しぶりだな」
「慶次殿、お久しぶりです」
「殿はいらん」
「では、慶次、久しぶりです」
馬を降りて来て駆け寄ってきた慶次が俺の顔を抱きしめると、懐かしさと勢いで頭をくしゃくしゃとかき回した。
身長差があるので、こうなるのは仕方ない。
だが、男に抱擁されても嬉しくないので抵抗して引き剥がした。
「全然、大きくなっておらんな」
「1ヶ月で大きくなりません」
「そうか? 一月前に見かけたそなたはもう少し大きく見えたぞ?」
「台の上に乗っていたからです」
慶次と会ったのは1月前の清洲会議に遡る。
知恩院脱出の帰国時、林-通政の騎馬隊に編入されていた慶次は兄上(信長)の救援に赴いた。
だが、清洲の戦いは終わっており、次に鳴海へ移動すると敵が降伏して来た。
通政らと一緒に今川勢をお見送りしただけで尾張では全く活躍の場が無く終わってしまった。
俺は千代女を助け、そのまま熱田に籠もってしまったので、慶次と会えたのは清州会議だった。
しかも、挨拶だけだ。
尾張に戻った時点で慶次は俺の護衛の任が解かれ、滝川家の一人として扱われた。
身分が低い慶次は式典で最後列だった。
「前田家へのご養子、おめでとうございます」
「目出度くない」
「慶次にとってはそうかもしれませんが、滝川家としては前田家の次期当主のご嫡男です。喜んでいるでしょう」
慶次は養子と同時に前田家の三男である安勝の娘を妻にした。
重ね重ね目出度い。
「目出度くない。お前と同じくらいの幼な妻などいらん」
女の子の裳着は10歳くらいだ。
7歳で裳着を済ませても責められることはない。
そのまま高砂を上げて、慶次も目出度く前田家に入ったのだ。
前田家は色々と忙しい時期なので、身内のみで内々で済ませた。
「祝いの品は気に入って頂けましたか?」
「祝うなよ。むしろ、早すぎると反対してくれ」
「それは無理です。それでは犬千代が可哀そうです」
「やっぱり、あいつか」
荒子城主の前田-利昌は河賊退治や清州の決戦で活躍した。
その褒美で清州の東に新たな領地を頂いた。
しかし、二男利玄、三男安勝は利家を止められなかったことが大きく減点の対象とされた。
上洛組の息子らはいい所がない。
特に三好家と抗争のきっかけを作った利家の罪は大きい。
清洲会議で『切腹』と言う声が上がった。
「目出度い席を血で汚すのはよろしくありません。公方様も犬千代の行いを褒めておりました。公方様の意を無視するのもよろしくありません。ここは恩赦をお願い致します」
「わらわはすでに犬千代を許すと申した。それを覆されては困るのじゃ」
一日だけ、自室謹慎を解かれたお市も式典に呼ばれており、犬千代を擁護した。
犬千代は涙を流して、お市に感謝していた。
俺とお市、更に(近衛)稙家も味方に付いたので罪は不問とされた。
但し、お市の護衛を放棄した罰で織田家追放を命じられたのだ。
犬千代は6歳のまつと祝言を上げてから追放された。
それでいいのか?
俺もそう思ったが、追放された犬千代に一文の銭も渡すことはできない。
正式な高砂を上げるのもできない。
そこで慶次の高砂の序でに式を執り行った。
慶次と妻が真ん中に座り、犬千代とまつが左隅に座った変則的な2組の高砂だ。
利昌の苦心が見える。
犬千代に援助をすれば、兄上(信長)の命に逆らったことになる。
まつと祝言を上げさせ、まつに餞別を預けた。
そして、まつが熱田で家を借り、亭主の犬千代が転がり込んでいるという建前になっている。
苦肉の策だ。
しかし、6歳の新妻はそれでいいのか?
おままごとだよ。
喜んでいるのは犬千代だけだ。
はっきり言って、俺は馬鹿が嫌いだ。
京のことで責めるつもりはないが納得もできていない。
他にやりようがなかったのか?
現場にいない俺には判らない。
だが、犬千代は笠寺でお市を助ける為に命を張って戦ってくれた。
その犬千代の活躍を聞いている。
最後に手柄を捨てて、お市と一緒に舟に乗ってくれた。
海で流れた俺を助けた一人に犬千代もいる。
命の恩人を見捨てる訳にいかない。
「慶次には悪いが仕方ないのだ」
「判っています」
遊女で遊びまくっている慶次にとって、9歳の幼い妻は持て余すのだろう。
あと4・5年は先だったのに、犬千代の為に早まったのだ。
「慶次も俺の命令で遊楽に遊びに行っていたと言えばよかっただろう」
「それは拙いでしょう」
遊楽が織田の諜報部になっているのは秘密だ。
勘づいている者も多そうだが、そういう目聡い者ほど遊楽を逆利用している。
脳筋の馬鹿に教えるのは危険だ。
慶次は目付の内藤 勝介の言いつけを破って遊楽通いを続け、武功の数々を上回る命令違反を犯していた。
「兄上(信長)は承知していると思うが?」
「公の場で言うことではありませんし、ただで遊楽を楽しませて頂きました」
「遊女を全部集めて、どんちゃん騒ぎをしていたな」
「織田ぶりを広めておきました」
それは余計だ。
派手に銭を落とす慶次を見て、誰も諜報に通っていると思う者はいなかった。
「で、どう困っているのだ?」
「この何も無い土地を領地として頂きました」
「この埋め立て地のみか?」
利昌は領地を兄弟で分割したらしい。
旧領の荒子城を次男の利玄に与え、新領の半分を3男の安勝に与えた。
利昌の直轄地は新領の半分と埋め立て地になる。
そういうことか。
前田家の新領は旧領と同じくらいの広さだ。
利昌の直轄地は埋め立て地を合わせると一番多く領地を所領しているが、次男と3男が結託すると、それより少なくなる。
慶次が家督を得ても前田家の総意の前には何も決められない。
少なくとも義父となる3男の安勝の同意が必要だ。
慶次を封じ込めるつもりなのだ。
「そんな先の話はどうでも良いのです。俺が貰った領地からは一文の銭も入って来ない。家臣もこいつ一人です」
紹介された家臣は奥村-永福という12歳で元服したばかりの子供だった。
慶次は馬を用意できないばかりか、兵も集められない。
そりゃ、領民がいないのだから集まる訳もない。
荒子の湿原地帯は熱田商人によって買い上げられ、笠寺衆の一部と蔵が並ぶハズであった。
埋め立ての一部が終わり、本来なら笠寺衆が手工業の小屋を建てていた。
しかし、笠寺が奪還されたので全て中止になり、新規の酒蔵なども桜中村に建てることが決まった。
前田家の領地より、俺の領地の方が安全だと商人らが思った訳だ。
「売った土地なので商人がどうしようと文句も言えない。笠寺衆にここで住めと言っても反発を受けるだけ」
慶次も困る訳だ。
税収が期待できないのは慶次にとって死活問題らしい。
今は蓄えで暮らしているが、それがいつまで持つか判らない。
アグーの放牧地にするのは渡りに舟だったらしい。
「周りが海水では作物を育てるのは無理ですね」
「ここは井戸を掘っても海水しか出ない。何ともならん」
「用水が完成するまで放置ですか?」
「そうなるな」
埋め立ての工事が中止になった訳ではない。
だが、先に完成させるのは堀川運河だ。
それが終わってからでないと中川用水に掛かれない。
用水路が完成すれば、水門を設置して海水の逆流を無くすことができる。
だが、余力のない今年はもう進める予定がない。
人手を清州に取られたのだ。
「用水が完成すれば、村人も集まってきます」
「それまでは素寒貧だ。俺は構わんが、こいつには俸禄を出してやりたい」
「なるほど」
中川が用水路に変わって農作ができるようになるのは、早くても3年後だ。
4・5年後を完成の目途に進められてゆく。
中川用水から水路が分かれ、那古野城の西に水田地帯が広がり、那古野の石高が飛躍的に上がるのは間違いない。
「アグーを預かって貰えて助かりました」
「助かったのはこっちも同じだ!」
「アグー小屋が完成するまで荒子観音寺で預かって貰っている」
「観音寺ですか?」
「今の寝床だ」
「暇そうですね」
「領民もいない。何もない。管理する物がなければ、昼寝しかすることがない」
何と羨ましい。
俺と代わって欲しい。
「若様、慶次が暇ならば、護衛として雇っては如何でしょうか? 建前は客将でよろしいかと思います」
「おぉ、それいいな。来月の葡萄酒のご相伴に預かれる。今年は何樽できた?」
「小さい樽が5つだけです」
「去年と一緒ではないか?」
「葡萄の苗は植えてから2~3年は実を付けません。来年は少し増えますが、安定して増えるのは再来年以降です。強いて言うならば、増産できるのは5年後です」
最初は育てるのも試行錯誤だった。
俺が悩んだ訳じゃない。
葡萄の曲輪で下忍と農夫が悩んで育ててくれた。
育成法が確立すると知多南部に持っていった。
それが2年前だ。
色々と改良中だ。
知多半島南部で収穫できるのが来年以降だ。
まだ、少量である。
今は本格的に葡萄畑を増やし始めたばかりなので、来年以降に植えた苗が実を付け、葡萄酒になるのは5年後になる。
葡萄の木は育つのに時間が掛かる。
急ぎ接ぎ木で毎年のように葡萄の苗を増やしている。
それが育つまでまた2~3年を待たないといけない。
勿論、葡萄の種からも育てている。
強いていうならば、もう食用の甘い葡萄は諦めた。
どうしても雨でしゃぶしゃぶになる。
取れた葡萄は葡萄酒オンリーだ。
その葡萄の収穫が安定すれば、今度は葡萄酒の改良に入る。
気の長い話だ。
「永福殿」
「助右衛門とお呼び下さい。殿は結構です」
「では、助右衛門」
「はい、何でしょうか?」
「一条の交易船はまた戻ってくる。今度もアグー2頭だ。それと大友-義鎮から貰った褐毛牛も連れてくる。牛の受け入れ準備もよろしく頼む」
「畏まりました」
ジャンク船の倭寇と南蛮人を通じてインドの牛を頼んである。
いつ届くかは未定だが、何としても乳牛を手に入れたい。
「慶次、チーズが完成したぞ。明日はピザ祭りだ」
チーズと言えば、酒の肴と何度も言ってきた食材だ。
一瞬で目の色を変えた。
「助右衛門、俺は今から魯坊丸の護衛に付く。そう養父に伝えてくれ」
「えっ、今からですか?」
「昼寝に飽きたと伝えよ。それで通じる」
「畏まりました」
相変わらず、慶次は決断が早い。
滝川慶次が前田慶次に変わりました。




