14.平手久秀の警鐘(けいしょう)。
信長は目が覚めると水を浴びて身を清め、髪を結い直すと屋敷を見回る。
大広間では酒に潰れた家臣が転がっており、連日の宴会でその数も少し減ってきた。
貧しい家臣にとって呑み潰れることができる少ない機会だから目を瞑る。
午前は剣術や勉学に励み、午後から来客の予定が入っており、夕餉を食べると来客を労う為の宴会が待っている。
これが小正月(15日)を迎えるまで続く。
「殿、今日はどうされますか?」
「そうだな、今日は馬だ。遠乗りを致そう」
「畏まりました。すぐに準備させます」
信長は決して鍛錬を怠ったことはない。
夏ならば、乗馬の序でに河で水練も行う。
ふざけているようだが、相撲を取って組手の調練も怠らない。
ただ、川辺で周囲の不良を集めて遊んでいる訳ではない。
しかし、相撲などを取るので『たわけ』とか罵りを受ける。
川辺で相撲を取れば、人材登用と調練が一度でできる。
合理主義の信長はそれを止めない。
昔と違い、その説明をしたので『たわけ』と騒ぐ者の数は減った。
遠乗りは地形の調査と敵の索敵を兼ねて行う。
鎧こそ付けないが、刀や槍を持ってゆき、着物の下に鎖帷子を着る用心深さもあった。
一方、町や村を訪問する時は、町人などに偽装して警護を周りに連れており、着流し一枚という気軽な格好を装ってみせる。
その方が町人や村人も気軽に声を掛けられるというモノだ。
興味が沸いたことには質問し、満足がいくまで聞き続ける。
人の都合を考えないということを除くと、生活改善を考えてくれる良い領主様であった。
「殿、今日はどこまで行かれますか?」
「最近は北と南を気にし過ぎた。本郷まで駆け、その後は土岐川(庄内川)に沿って戻ることにしよう」
「畏まりました」
東は信勝の管轄であり、信長には関係ない。
しかし、兵を出して欲しいと頼まれれば、援軍を送るのは当然であった。
岩崎城の丹羽氏勝は横山麓合戦で信長に勝って以来、織田と今川の双方に組して中立を保っている。
攻め取るか、絡め取るか、それは信勝の手腕に掛かっている。
一方、鳴海城の山口親子は調略で取り戻すことに決まっていた。
何でも、今川義元が山口 教継の手腕に疑問を持ち、二人の関係が不仲になっているらしい。
不敵に信長が呟く。
「馬鹿か、あの噂は悪童が流した根も葉もない噂だ。義元が山口親子の手腕に疑問を思っても口に出すハズもない。むしろ、良縁を演出するわ」
「信長様、何か言われましたか?」
「気にするな。戯言じゃ」
嘘の噂をあっさりと信じる信勝の手腕にやはり疑問を感じてしまう。
信長は忍びが好かない。
一番好かないのは密かに暗殺や毒殺を行うことだ。
だが、その価値を十分に認識していた。
帰蝶の母は小見の方といい、兄を明智 光安という。
その光安の妻は斎藤 利賢の妹であり、利賢の妻が蜷川親順の娘だった。
斎藤家の口利きで蜷川親順を紹介して貰い、帰蝶は丹波村雲流の者を召し抱えた。
岩室長門守が率いる甲賀組と合わせて、情報収集に信長は巧く使っていた。
魯坊丸が京に持つ人脈は大殿(故信秀)の伊勢家、近衛家、山科家であるのに対して、信長は室町幕府政所代を務める蜷川家を独自の窓口にしていた。
「帝も公方様も上洛を望まれておる。それを遅らせる意味はあるのか?」
「しかし、山城様(斎藤 利政)の交渉は、監物様(平手 政秀)でなければ勤まりません」
「悪童一人で行かせればいいではないか」
「監物様には、監物様の考えがあってのことと存じ上げます」
信長は魯坊丸の監視に政秀を付けたことを後悔していた。
魯坊丸と政秀は相性が良さそうだ。
鬼退治のつもりが、鬼に取り込まれてしまったのかもしれん。
しかし、他にいなかった。
師である沢彦宗恩は僧の為に、神官の魯坊丸に付けることができない。
魯坊丸を褒める政秀を見ていると苛立った。
信長以上に魯坊丸に期待しているように思えた。
これは信長の嫉妬であった。
柴田勝家が治める下社を抜けて、岩崎方の本郷から進路を変えて北上する。
信長を先頭に20騎余り、岩崎方もびっくりしただろうが、何事もなく去ってゆくのだから問題になることはない。
川沿いまで来た所で馬を返す。
道の開けた川沿いを早足で駆けてゆく。
風を切る心地良さに嫌なことを忘れ、一心不乱に前を見定めた。
那古野の領内に戻って来た所で歩みを緩めた。
「信長様、流石に冷えてきました」
「藤八、鍛え方が足りんぞ」
「申し訳ございません。精進致します」
「あははは、愛い奴め」
少し先の河で馬に水をやる者が目に入った。
河で水をやるなど珍しいことではない。
だが、その黒い馬体は誰の目にも付いた。
「長門、あれは誰だったか?」
「監物様(政秀)の御嫡子、久秀様とお見受け致します」
「そうであった。番頭組頭、馬廻衆の筆頭に命じたばかりであったな」
「その通りでございます」
「はじめて見る。見事な馬だ」
「誠にその通りでございます」
その黒い馬体は他の馬に比べて一回りも大きく立派だったのだ。
信長の馬もかなり立派であったが、久秀のに比べると見劣ってしまう。
信長は馬を降りて久秀に近づいていった。
久秀もすぐに気がついたのか、膝を突いて信長を出迎える。
「よい。顔を上げよ」
「ありがたきしあわせ」
「それにしても見事な馬だな」
「ちょっとしたツテがあり、偶然に手に入れることができました」
「同じ馬を探せるか?」
「申し訳ございません。これ、一頭のみでございます」
信長はさらに近づいて黒い馬の背中に触れた。
ぶるる、馬が身を震わせて顔を上げると信長の方に顔を曲げて、じっと黒い眼が信長を見つめる。
しばらくすると、好きにしろと言わんばかりに水を飲みはじめた。
馬の癖に不遜な態度、毛並もよく、堂々したのも気に入った。
「久秀、少し乗せて貰っても構わぬか?」
「申し訳ございません。馬は武士の魂、たとえ殿の命であっても貸せませぬ」
「儂が頼んでもか」
「誰であろうと無理でございます」
「ふっ、そうか。儂が不徳であった。許せ」
微かに信長が口を噛みしめる。
額に青筋が浮かぶ。
魯坊丸に諭されて、自重というものを覚えた。
家臣の話を聞く。
筋が通っているならば、一度引いて改めて席を設ける。
そして、淡々と聞かせて納得させる。
思い通りにならなくとも、声を荒らげて怒鳴る真似を止めた。
これで佐渡守(林 秀貞)らを調略できた。
政秀に褒めて貰った。
沢彦和尚には『悟り』の極意を得たと言われた。
ここは我慢だ。
「何故、そこで引かれます。それでも君主か。弟に家督を奪われて、へらへらと笑える腰抜けになったか」
久秀の罵倒に、信長は刀に手を掛けた。
「あははは、腰抜け殿にも怒る気概は残っておったか! さぁ、そのまま儂を切ればいい。切って、この馬を奪えばいい」
久秀の不遜な態度に信長の体が震える。
だが、信長の手が動く前に藤八が飛び出した。
「黙っておれば、何を言うか。殿の優しさが伝わらぬのか」
「腰抜けの小姓か」
「もう小姓ではない、側付きだ」
「同じだ。腰抜けの小姓も腰抜けか」
「なんだと」
「皆、笑っておりますぞぉ。家督を取られて、へらへらしているような信長様では心もとないと」
藤八が激昂して槍に手を掛けた。
それを同僚が押さえている。
藤八が叫び、信長を擁護する。
久秀の罵倒が続いた。
藤八は頭に血が上って暴れているが、三人に押さえ付けられると身動きも取れない。
がるるる、久秀を睨んで威嚇する。
藤八のお蔭で信長の血の気が引いた。
「久秀、本気でそれを言っておるのか?」
「以前の信長様なら無理矢理でも奪ったでしょう」
「そうかもしれん。主君が欲しいと言った物を家臣が渡すのは当然のことだ。涙を呑んでも差し出すのが当然の行為だ」
主人が一番立派な馬に乗るのか?
それは敵に対しての威嚇であり、味方に対しての威厳だからだ。
家臣よりみすぼらしい馬に乗っていては敵に侮られる。
味方に舐められて統率が悪くなる。
それが世の理だ。
久秀が信長に馬を差し出すのが正しい選択だ。
だが、正しいからと言って強引に進めては不満が残る。
それが佐渡守の離反に繋がった。
だから、信長は一度引いたに過ぎない。
そして、久秀は無理にでも信長を怒らせようとしている。
「何が不満か?」
「不満? そうですね、なぜ軍務の長である番方を父上(政秀)でなく、裏切った佐渡守にされたのですか。あれでは信長様に尽くしている者に不満が残ります。さらに、父上が役方に命じられたのも不満です。政務の長と言われても、武家に劣ると言われているようなモノです」
「本気で言っているのか?」
「信勝は信長様を廃して、那古野を奪いにきますぞ」
「信勝は弟だ。そんなことはせぬし、させぬ」
「あははは、暢気な方だ。尾張上守護代の信安と岩崎の丹羽氏勝と示し合わせ、那古野が留守を狙ってすべて奪うつもりですぞ」
「そんな噂もあったな」
「噂ではございません。ちゃくちゃくと進めているのです」
今川から入った藤林の伊賀忍がそんな噂を流し続けていた。
当然、信長も知っている。
その逆の信勝が留守を狙って、末森を信長が奪いにゆくという噂も流れている。
信勝がどこまで信じているかまでは知らないが、それを信勝に探るのは今川の思うツボに嵌る。
しかし、久秀はその愚かな嘘を信じた。
信長を怒らせて喚起しようとしている。
その忠誠心は悪くないと思った。
しかし、同時に政秀に遠く及ばないと信長は感じてしまった。
「久秀、主家に無礼な言葉を吐いたことは自覚しておるな。馬廻り衆筆頭の任を解く、自宅で謹慎しておれ」
「信長様、謹慎などと温いことを言わず、切腹しろと言いなさい」
「久秀、俺を今川の嘘で忠臣を殺す馬鹿殿にしたいのか? 平手の爺ぃと相談してみよ。見えぬ物も見えてくるかもしれんぞ」
そう言うと信長は馬に乗って那古野城に馬を向けた。
信長の顔は険しいままであった。
久秀が憐れに見えた。
政秀が泣くであろうと察せられた。
人の心を惑わし、弄び、籠絡する。
やはり、忍びは好かん。
それを自在に操っている悪童も好かん。
何故か、魯坊丸の好感度が下がっていた。




