閑話.那古野の密談?
帰蝶が愛想笑いをして酌をする。
手の甲が上を向き、それを支えるように左手がさり気なく添えられて、徳利がゆったりと傾くととくとくと酒が盃に注がれる。
身艶やかな女性に注いで頂くと、酒の旨みが何倍にも跳ね上がる。
ほほほ、帰蝶が嬉しそうに笑う度に、信長の眉間に怒りマークがぽつんぽつんと浮き上がった。
「誠でございますか?」
「ははは、嘘を言ってどうする。信長は気にいらん乳母の乳首を噛み切ろうとしたのは本当の話だ」
「何が気にいらなかったのでしょう」
「女好きの兄上(故信秀)と同じで、選り好みが激しいのだ」
「帰蝶、こちらも一杯頼む」
「畏まりました」
帰蝶は信光の横から信実の横に移動してお酒を注いだ。
美人に注いで貰うお酒は本当に美味い。
そんな感じで信実がぐいと呑む。
人妻に手を出す程、二人の叔父は手癖が悪い訳ではない。
だが、信長の幼い頃の話を暴露して帰蝶を喜ばせていた。
信長の眉間にまた1つの怒りマークが浮き上がった。
「爺(祖父信定)のことが好きでのぉ」
「そうだった。そうだった。いつも爺様の後をついていったな!」
「爺は新しい物が好きだったから、信長の新しい物好きはそこからだな」
「そうなのでございますか?」
末森の談議が終わり、重要な話があると言うので那古野に来た叔父達はまずは飯を食うことにした。
下戸の信長は酒を呑めない。
代わりに帰蝶が相手をしている。
「帰蝶も一献」
「頂きます」
信実が酒を注ぎ、帰蝶が盃を呑み干した。
「見事!」
「勿体のぅございます」
「信長の妻にしておくのが勿体無い」
「わたくしは殿の妻で良かったと思います」
「惚気るか?」
「はい」
その呑みっぷりの美しさに、二人の叔父が更に気分を良くする。
そろそろ食事も終わり、酒の肴が運ばれてくる。
「帰蝶に注いで貰うと朝まで呑めそうだ」
「お戯れを」
「叔父上」
「信長、こんな見目麗しい、頭も回る妻を貰えて羨ましいぞ」
「一体、何の用で来られたのですか?」
「戦場に立った帰蝶の凛々しさも良かったぞ」
「ですから…………」
「信実、それくらいにしろ」
「仕方ありません。お遊びはこの辺りで終わりますか」
帰蝶に酌をさせて気分良く呑み、信長を虐めて楽しんでいたのだ。
本当、叔父達は意地が悪い。
信長の我慢もそろそろ限界と思ったのか、信光が本題に入った。
「帰蝶、こっちに来い。もう酌はせんでもよい」
「承知致しました」
これ以上、貸し出さないという信長の意志だ。
信光は才では信秀よりあると言われた武将であり、織田弾正忠家の家督は信光が継ぐと誰もが思っていたらしい。
だが、祖父の信定は嫡男の信秀に継がせた。
信秀は信光を腹心として取り立てた。
信光のお蔭で弾正忠家は大きくなったと聞いていた。
尾張の虎、尾張の器用者と呼ばれたのは叔父の信光の存在が大きい。
たわけと言われた信長を見捨てなかった。
今日の信長があるのも信光のお蔭だ。
尊敬はしているが、帰蝶で遊ばれるのは遠慮して欲しかった。
◇◇◇
「魯坊丸への褒美だが、信勝と一緒に嫌がると思っていたが、今日は大人しかったな」
「力の差をあれだけ見せ付けられれば、競う気も無くなります」
ははは、何が面白いのか?
信長の呆れた顔を見て、信光が思い出し笑いをしたのだ。
「何が面白いのですか?」
「魯坊丸に会った後、兄上(故信秀)もお前と同じ顔をしていた」
「儂と同じですか?」
「呆れるような、どうも掴み所のない顔をしていた」
魯坊丸は1歳と言うのに片事で喋れるようになると奇妙な物を作り始めた。
2歳で清酒を造り出し、献上した酒のお蔭で信秀は帝からお褒めの言葉を貰っていた。
どんな小姓が良いかと養父の中根忠良に聞くと、忠良は魯坊丸本人に聞くと言う。
そこで岩室宗順を送ると、望月千代女を逆指名するという奇妙なことが起こったのだ。
その清酒の秘密を守る為に魯坊丸専用の忍者も必要だったので迎え入れられた。
しばらくして、魯坊丸が欲しい物があると言うので信秀が直に会いに行った。
「兄上はお前のような顔をした」
「何を言われたのですか?」
「銭一万貫文を貸して欲しいと言ったのだ」
信長も奇妙な顔をする。
3歳になったばかりの稚児から「銭一万貫文を貸してくれ」と言われれば、そりゃ驚くだろう。
その銭を元手に酒蔵、造船所、椎茸の栽培所、肥料生産所(蝮土)、竃と鉄の生産所などを造ると言う。
「兄上が熱田の商人に命じてやらせると言うと、魯坊丸はそれでは駄目だと説いた」
「何が拙いのですか?」
「銭を半分出して、共同経営した方が商人が従うようになると兄上を説得した」
「聞いたことがあるぞ」
信光の話に信実が割り込んで来た。
熱田の統治のついでに、魯坊丸は信秀に常備兵を奨めた。
槍隊や弓・鉄砲隊の部隊編成できる兵が必要だと説いた。
「儂も魯坊丸にそう言われました」
「同じ事を聞いたのに違う結果になったな」
「違うとは?」
「那古野の常備兵も面白いと言うことだ」
「確かに末森の騎馬隊や勝幡の土方常備兵と違いますが、面白いとは思いません」
「我が勝幡の常備兵は土木作業員ではない」
「ははは、そう言われても仕方ない。兵として未熟だ」
「それは承知しております」
「信実は両方を取り入れるから面倒になる」
「末森式の常備兵は時間が掛かり過ぎるのです」
信実が言うには那古野より早く末森にも常備兵が配置されていたらしい。
魯坊丸が提案した常備兵は、中士、平士、徒士という新しい身分の武将を雇うことであった。
魯坊丸はこう言ったらしい。
「他はどうか知りませんが、見所のある若者を父上の直轄の兵にするのです。そうですね、名前は直参か、旗本が良いと思います。〇〇石5人扶持を基本に雇っていけば、常に城で使える兵を残すことができます」
魯坊丸は一人の直参に5人の中間・小者の家臣を持たせ、城に常駐する兵として置くことを提唱した。
「一人当たり、25貫文と25石を支給する。それで5人の家臣を食わせろと言った」
「それのどこが常備兵ですか?」
「10人おれば、60人。100人おれば、600人の兵がいつでも用意できる。しかも中間の内、二人は文官ができる者、二人は槍・弓が使える者、一人は小者で皆の世話ができる者と役割を決めている。今、末森には50人の士臣がいる」
「つまり、騎馬兵以外に300人の常備兵がいたのですか?」
「そういうことになる」
「知りませんでした」
この末森の中士と平士の家臣らは文官100人と武官100人として奉行の部下になっていた。
つまり、足軽と役人の一人二役であった。
「魯坊丸に言わせると、戦しかできない常備兵など邪道だそうだ」
「好き勝手言っているな」
「仕方あるまい」
「何がですか?」
「那古野は中小姓を魯坊丸から30人も派遣して貰っているだろう」
「その通りでございます」
「だが、末森なら5人で足る。那古野は文官の数が足りていないのだ」
「ウチも5人だ」
勝幡も中小姓の派遣は5人のみらしく、守山は規模が小さいので2人しかいらないそうだ。
那古野だけ、魯坊丸式の常備兵を採用していなかったと知らされた。
「だが、俺は足軽を直接雇う常備兵も面白いと思ったぞ」
「魯坊丸も驚いた」
「魯坊丸が勧めた常備兵は末森と同じにしろと言う意味だったのですか?」
「そうだ」
信長は意図せず、魯坊丸の斜め上を行っていたらしい。
帰蝶が思わず、笑ってしまった。
「魯坊丸も慌てることがあるのですね」
「魯坊丸は斜めを行く信長にいつも慌てておる。中々に楽しませてくれている」
「殿、よかったですね。魯坊丸を困らせているそうです」
「知らん」
知らぬ間に魯坊丸を出し抜いていたと聞かされても面白くもない。
出し抜いた気もしない。
これでは叔父らが喜んでいるだけであった。
魯坊丸が言う常備兵がそう言う意味だったと知ってびっくりした信長であった。
確かに那古野の文官不足は深刻である。
それなりに実績のある商家を士分に取り立てて、奉行の下に付けているが数が足りない。
武家の二男・三男らで読み書き・そろばんに長けている者は少ない。
いくら取り立てても文官の足しにならない。
魯坊丸の常備兵はそれを解消する。
城の文官不足を緩和する方法だったらしい。
確かに二男・三男らの家臣(中間)として、商家や寺から文官見習いを城に入れることができる。
気が付かなかった。
今、那古野を支えているのは神学校を卒業した中小姓らである。
かの者らは数年前まで食うに困った流民や河原者らである。
更に清洲に移転する信長は更に文官が不足する。
いっそ中小姓を士分にしてしまうか?
そう思った瞬間、信長の脳裏に閃いた。
士分に取り立てると、城主らが騒ぎ立てる。
手柄も無い者を同じ列に並べることを嫌う。
しかし、中士、平士は士分であって士分でない。
評定に出さなければよい。
あくまで奉行らの部下だ。
「信光叔父上、魯坊丸の中小姓を50石二人扶持で雇いませんか?」
「おぉ、その手があったな」
「さらに城に部屋を与え、飯の手配もすれば、3倍の文官見習いが用意できます」
「同時に町や村から使えそうな奴を引き抜くのだな?」
「はい、那古野に派遣されている中小姓30人を全て召し抱えようと思います」
「待て、10人は残せ! 那古野でも召し抱える」
「仕方ありません。20人で我慢致しましょう」
魯坊丸の知らない所で中小姓の引き抜きは決まった。
「ははは、魯坊丸も面白いが、お前も面白い」
「俺も引き抜こうか?」
「止めておけ! 勝幡は十分に回っているであろう」
「なら、一番優秀そうな奴を一人だけ召し抱えるか。頑張れば士分になれる。そんな実績を作れば、遣り甲斐も出るだろう」
「まぁ、その程度ならばよいであろう」
信実はいつも二番煎じで調子がいい性格だった。
信秀に従っていたので信頼は厚かった。
だから、勝幡城を任されている。
「秋からは浅井攻めが始まる。近江の六角、美濃の斎藤から助力を求められると思われる。那古野も清州も忙しく、兵を回せる余裕もない。勝幡のみで対応して貰う」
「やっと活躍する場が回ってきたか」
「おそらく、魯坊丸を指名してくるので面倒を見てくれ」
「うふふふ、手足の如く、動いてやるぞ」
信実は初めから考えることを魯坊丸に任せるつもりだった。
自分で考えても禄なことにならない。
それが一番楽であり、最も成果が上がると確信していた。
昔から考えるのは信秀、信光と割り切っている。
「それが終わったら北伊勢の騒動に介入する。いつまでも争っていたのでは流通が安定しない。同じ理由で北畠にも介入する。共に六角と要相談だ。覚えておけ、忙しくなるぞ!」
「任せて下さい。魯坊丸が何とかするでしょう」
信実が子供のように喜んだ。
信光は「まったく」と呟く。
魯坊丸が振り回されている様子が目に浮かぶようだ。
信光がぐっと酒を呑んだ。
「話が逸れたが、魯坊丸は熱田・津島を銭で支配し、末森の軍政にも口を挟む」
信長も赤塚の戦いの後でズバリと言われたのを思い出した。
魯坊丸は遠慮がない。
「兄上(信秀)は家督を譲ってやるから好きにやってみよと言った」
魯坊丸と信秀の姿が目に浮かんだ。
「そこまで言うならば、そなたがやってみよ」
「嫌です」
「家督が欲しいのであろう?」
「要りません。そんなものより銭一万貫文です。無ければ、保証すると言う証文だけでも結構です」
「織田家が欲しいのであろう?」
「銭が欲しいだけで織田家など要りません。邪魔なだけです」
「織田家が邪魔と申すか?」
「俺にとって邪魔です。後ろに控えてくれているだけで結構です」
「…………邪魔だと?」
信秀は顎が外れる程に口をあんぐりと開けたらしい。
「ははは、俺も兄上が阿呆面をして、あんぐりと口を開けたのを見たかったな」
「見られる顔ではなかったぞ」
「父上(信秀)が呆れたのですか?」
「そうだな! 呆れた顔であり、理解できんと言う顔であり、砂金が手の平から零れ落ちたような残念そうな顔でもあった。そう、先程のお前のような顔だ」
そう言われて、信長も笑みを零す。
天下すら取れる程の才能を持ちながら、それを掴もうとしない。
余りにも残念な弟を持ったと思っていた。
父上(信秀)も同じような気持ちと聞いて笑ってしまった。
「それ以来、兄上(信秀)は魯坊丸と会うことを避け、俺が面倒を見ることになった」
開墾、改良、治水など進め、土岐川(庄内川)を外堀に見た那古野城の構想など、全て信光が代理で取り仕切った。
「信光叔父上は魯坊丸とよく付き合えますね?」
「ははは、確かに知恵では敵わないが、駆け引きが子供だ。付け入る隙はいくらでもある。いずれは信長も使えるようにならねばならん」
「今は自信がありません」
「ならば、練習をするか?」
「練習ですか?」
魯坊丸は聡いので沓掛城の話は断らないと信光が言う。
勝ち戦で褒美を与える。
戦に活躍したのは、魯坊丸に近い者たちだ。
その田畑が再び今川に荒らされるのは魯坊丸の本意ではない。
「他人に対して冷たいが、身内に対して甘い」
「身内を見捨てられないと?」
「そう言うことだ。その者らが精魂込めて耕した畑が荒らされる。その可能性を知らせれば、絶対に断らない」
今、尾張に三河との国境を任せられる人材らしい人材がいない。
沓掛に誰が入るのが良いか?
魯坊丸ならば、すぐに理解できる。
「欲しいと言った所は全てくれてやれ」
「それでよろしいのですか?」
「構わん。佐治もいるので、いずれは知多半島全部を任せた方がいい」
「嫌がりそうですね」
「だから、人に任せれば良いと言ってやれ! 何も魯坊丸が全ての面倒を見る必要はない。任せられる者を育てればいいのだ。そうだな、さしずめ信広を預けて沓掛城の城代でもさせればいいだろう。戦の方は信広が頑張ってくれる」
信広は信長の兄である。
身の丈が6尺3寸(190cm)もあり、戦では頼りになる。
三河の安祥城を任されたこともある豪の者であった。
戦に関して魯坊丸の負担が小さくなる。
「判りました。言っておきます」
「あと、銭だな」
「銭ですか?」
「此度の上洛と戦で魯坊丸は銭を大量に使った。銭のことを言って来たら、全額、織田家で持ってやると答えるといい」
「そんな余裕はありません」
「そうやって杓子定規に答えると、魯坊丸が臍を曲げる」
「しかし、無いモノは出せません」
信光がウンザリとした様子で、それではいかんと首を横に振る。
「無いならば、10年分割でも返すと言ってやらねばならん。これが駆け引きだ」
「来年でも苦しいと思われます」「ならば、20年分割にすればいい。とにかく、全額返すという誠意を見せてやれ」
「誠意ですか? 叔父上ならば、どう答えるのですか?」
「そうだな、全ての勘定奉行の総指揮を取ってくれるならば、今直ぐでも全額をこちらで負担しよう。それが無理ならば、いずれは全て返すので、しばらく待って欲しいと頭を下げるな」
「魯坊丸が勝手に使った銭ですぞ?」
「織田家の為に使ってくれたのであろう。頭を下げるくらいは安いものだ。とにかく、誠意を見せておけば、魯坊丸は察してくれる」
「本気で返すのですか?」
「返すぞ。ただ、無い袖は振れない。いつまで掛かるかは判らん。100年掛かろうと構わん。とにかく、余った分だけでも返してゆく。誠意だけはきちんと伝えるのだ」
「100年も掛かれば、誠意とは申せません」
「細かいことを言うな」
「細かくありません」
「とにかく、今川から銭が入ったら3,000貫文のみでも魯坊丸に渡せ。そうすれば、不満顔でも手伝ってくれる。駆け引きを覚えろ」
生真面目な信長はとてもそんな風に割り切れなかった。
誠意には誠意で返す。
軍略において厄介な性格な魯坊丸だが、交渉に置いては約束を反故にしない魯坊丸は素直だと信光は言う。
魯坊丸は素直?
その辺りも信長には理解できない。
ともかく、末森で決まったことを魯坊丸に知らせておくように言われて、信長は魯坊丸を呼び出すことにした。
しかし、あの虚ろな目をしていた魯坊丸が呼び出しに応じるか、少し疑問だ。
翌日、お市が末森を抜け出してきたので魯坊丸に伝言を頼んだ。
「お市、魯坊丸が那古野に登城したら、熱田の最高級のまんじゅうを末森に届けさせよう」
「ホントかや?」
「あぁ、約束する」
「頑張って呼んでみるのじゃ」
下手な使者を送るより、お市の方が成功しそうな気がした信長であった。
帰蝶を肴に酒を呑みに来ただけかも?




