84.魯坊丸、余裕で傍観していると自分の迂闊さに呆れてしまう。
織田三十郎は信長・信勝と同腹の弟であり、名家の土田御前が産んだ子として弾正忠家の中で家格が高い。
(津々木)蔵人の中では、敵対する信長より信勝様の次に大事なお子であった。
一方、魯坊丸などは熱田商人の娘が産んだ子であり、武家の出でもない庶子中の庶子に過ぎない。
その庶子が織田の命運を握っているなど許せなかった。
蔵人は何としても戦が始まる前に京へ入り、三好 長逸と連絡を取って和解せねばならない。
何としても信勝様の後ろ盾に三好を置かねばならない。
佐久間 盛重 〔大学允〕の思惑など関係ない。
魯坊丸を排除しなければ、信勝様が危うい。
その思いが旅路を急かせていた。
しかし、望月出雲守の威圧に屈して望月城に一泊することになった。
◇◇◇
望月城で歓迎の祝いが行われ、酒と料理が振る舞われた。
メインが織田で見慣れた天ぷらである。
小麦粉と卵とを混ぜた衣で揚げられた山菜の珍味がずらりと並んだ。
残念ながら出し汁はなく塩のみであったが十分に美味しい。
三十郎は用意された部屋に持ち込んだ布団を敷いた。
それを見て、出雲守が目を丸くするのだ。
「これが噂の布団ですか?」
「どんな噂か知りませんが、これが織田の布団です」
「これで寝ると極楽に行けると聞いております」
「極楽かどうか知りませんが、ぐっすりと眠れます」
「こんな所でお目に掛かれると思っていませんでした。おぉ、確かに柔らかい」
「布団をご存知でしたか?」
「娘の千代女から買えと言われて注文したのですが、まだ届きません」
「なるほど」
魯坊丸もお市も固い木の枕を嫌って、マイ枕を京に持参している。
大きな枕で時に抱き枕に変身する。
三十郎に至ってはマイ枕と一緒に予備の布団を従者に持たせて持ち込んでいたのだ。
織田家中でも中々に出回らないのは信秀の側室らを始め、織田一族が横取りする為であり、がんばって生産しているのだが数が揃わないのだ。
完成した布団を高級寝具として売り出していたが、肝心の商品が足りない。
いずれ綿糸の量産に成功すれば、価格は一気に下がる予定なのだが、お手頃価格になるにはまだ3年ほど掛かりそうであった。
この商品の肝は細い糸で組んだ平織りの生地に秘密があり、糸車の量産の目途が立たない。
人の手で紡いで糸を作っていたのでは、大量生産も出来ずにしかも高く付く。
流石の魯坊丸でも紡績の機械を一足飛びで発案することは無理だった。
機織り師と大工とからくり師に足踏みの紡績機を開発させており、成功すれば水車を使って工場化して大量生産に持ってゆく予定だった。
今回、帝と公方様に献上したのでさらに注文が多くなるのは予想できるが、注文を貰っても生産が追い付かない現状は続きそうだった。
本当に出雲守の注文はいつ届くことになるのだろうか?
◇◇◇
望月城は余り大きな城ではなかったので、兵は分散して村人の家で世話になった。
まだ、二日しか経っていないのに脱いだ服からぷんとした体臭の臭いが漂ってくる。
意外と気になるものだと兵士は思った。
沸かして貰ったお湯に布を浸けて絞ってから体を拭く。
それだけでも体が軽くなるから不思議なモノだ!
まだ二日しか経っていないのに織田の風呂が懐かしい。
織田の銭湯は入浴料金が大人2文 (120円)、子どもは半額の1文 (60円)と格安で入ることができる。
仕事終わりに汗を風呂で流せば、気分もすっきりする。
そんな生活にならされると二日ばかりで体臭が気になるのだから不思議なものだ。
男は頭を掻きながら、主人に囲炉裏の上に一晩服を吊るすことを頼み込んだ。
囲炉裏の煙に炙られると、服の臭いが気にならなくなるからだ。
地面に寝るのと板の間で寝るのとで固さは変わらないが、ぐっすり眠れたようで体が軽くなった。
丁寧に家の主に感謝して後にすると、蔵人様はすでに用意を終えて城の前に出て来ていた。
日が出ると同時に京に向かって出発だ。
今日もまた休憩もなく、やや早い歩みで山を越えてゆく。
昨日のような峠がないのが幸いだ。
谷間を抜けると海のような近淡海が見えてきた。
これが湖だというから凄いことだ。
この湖を右手に京を目指す。
夕方前には瀬田大橋が見えてきた。
◇◇◇
瀬田大橋の前で六角の家臣である瀬田城主の山岡 景隆が出迎えてくれた。
蔵人は景隆とあいさつを交わすと三十郎の元に連れて来た。
柴田 勝家と佐久間 盛次もやって来て、三十郎も馬を降りて頭を下げた。
「援軍、ご苦労様でございます」
「わざわざのお出迎え、ありがとうございます。どうかあいさつは無用にお願い致します」
「そうですか! では、甘えさせて頂きましょう」
三十郎が頭を下げる景隆を制止した。
年上の方に頭を下げられるのは慣れていない。
末森でも気軽な四男である。
堅苦しいあいさつをされても、どう答えればいいのか判らなかった。
それを察した勝家が代わりに口を開いた。
「できますれば、京の情勢をお聞かせ頂きたい。織田と三好はどうなりましたか?」
「今朝、織田と三好は停戦を終えて、あいまみえることになりました」
「間に合いませんでしたか!」
「ご安心下さい。織田の大勝利でございます」
「既に決しましたか?」
「いや、いや、まだ決しておりませんが、初日は大勝でございました。織田はお強い! 感服致します」
三十郎と勝家は満足そうに頷いているが、蔵人と盛次は渋い顔だ。
一度は偶然ということもあったが、二度続けば必然である。
(内藤)勝介が戦の達者とは聞かない。
だとすると、三十郎に勝家を付けたように魯坊丸の側近に名軍師がいても不思議ではない。
誰だ?
いずれにしろ、魯坊丸の武勲と知名度が上がってしまう。
そう蔵人は焦りの色が見える。
「三好は7,000人のままでございますか?」
「三好は一万、畠山の援軍一万五千が加わって延べ、二万五千でございます。一方、織田には公方様の二千が加わって、三千五百のみで大勝利を収めました。おめでとうございます」
「そのように言って頂いて感謝致します」
「三十郎殿は魯坊丸殿の兄君でございますか?」
「如何にも!」
「心強い弟御を持たれて羨ましいことです」
「自慢の弟でございます」
「そうでしょう、そうでしょう。我が家にもあのような子が生まれぬかと思ってしまいます」
埒が明かないと思った蔵人は景隆に出発すると言い出した。
景隆は六角の家老である進藤 賢盛に頼まれて、織田の援軍を瀬田城で持て成すように言いつかっていたのだ。
何故、六角の家老が織田に気を使うのか、蔵人は不思議でならなかった。
「どうしてもと言われるならば、お止め致しませんが、逢坂の関の向こうで畠山の兵5,000人が待機しております。橋を渡れば、こちらも責任が持てませぬ。その覚悟でお渡り下さい」
「我らは三好と話を付けに来ただけだ。交戦の意志はない」
「そのような戯れごとが通用するとお思いですか?」
向こうは大敗して気が立っている。
丁度よい獲物がやってくれば、それを刈り取って負けの悔しさを紛らわすものである。
死にに行きたいならば、どうぞ行って下さいと突き放された。
「津々木殿、ここは山岡様のお言葉に甘えて、城で待機させて頂くのが上策と思いますぞ!」
「これは異なことをおっしゃる。猛将の誉れも高い柴田様の言葉とは思えませんぞ!」
「冷静になって下さい」
「柴田様、臆病風に吹かれましたか?」
「戦えと言うならば、戦いましょう。だが、五千の兵を相手にして戦うとなれば、三十郎様のお命が危ういぞ! それでよいのか?」
勝家の言い分が正しかった。
六角が末森の交渉団を援軍と思っているように畠山も援軍と思うだろう。
攻められる覚悟がいった。
蔵人からすれば、このまま魯坊丸が勝ってしまうのは拙いのだ。
追及する所か、三好との交渉権を奪うこともできなくなる。
勝った大将に腹を切らせると言えば、周りの家臣らが黙っていない。
程よく負けてくれるのが理想なのだ。
「これは佐久間様もご同意されている」
蔵人がそう言った瞬間、盛次は慌てた。
魯坊丸を処断するのには、まったくもって異議を唱えるつもりはない。
しかし、五千人で待ち構えている畠山勢の前にわずか500人の交渉団で出て行くのは嫌であった。
まだ死にたくなかった。
「津々木殿、正気でございますか?」
「佐久間様も合意頂けたと承知していましたが?」
「それは昨晩までのことでございます。すでに戦いがはじまっているならば、反対致します。まずは使者を送り、三好殿の許可を得ることからはじめなければなりません」
「なるほど、確かに早計でございましたな!」
蔵人も焦り過ぎたと反省をした。
お言葉通りに瀬田城でお世話になり、三好に使者を送って再び停戦に持ってゆくことに決めた。
だが、蔵人が出した三好への使者が帰って来ることはなかった。
◇◇◇
翌日、俺の元に末森の交渉団から三好に使者が出され、逢坂の関の手前で始末しておいたという報告が上がってきた。
三十郎兄ぃらは瀬田城で留まることになったらしい。
数少ない忍びを割くのは不本意だが、勝手に動かれると困るのだ。
昨日の大和勢の被害が判ってきた。
大将の筒井 順政は本陣に行ったままで吉田神社に運ばれて助かったが、その家臣らは悉く討ち取られた。
息子と兄弟は一緒に本陣に行っていたので助かったらしい。
筒井家臣である小泉城主の小泉秀元も酷い刀傷を負ったが一命を取り留めた。
指揮を取っていた西宮城主の島 清国は討死、龍田城主の龍田殿も討死、馬坂城主の片岡殿も討死、郡山衆の中殿、辰巳殿、薬園殿がすべて討死だったらしい。
武将はほぼ全滅だ。
どうやら公方様は武将だけ狙って襲い掛かったようだ。
兵は散り散りに散ってしまった。
もう壊滅と言って間違いない。
本日も青天なり!
昨日の続き、朝から戦が始まっていた。
昨晩の内に可能な限りだが、落とし穴を修復しておいた。
一見、道がないように見えるが、曲輪から放射線状に道を作っており、砂で隠しているが紐を杭で打ち付けて目印にしてある。
その紐のその両側に落とし穴を作っていった。
まっすぐに向かってくると不規則に見える落とし穴も、実は放射線状に綺麗に並べられたものだったのだ。
そして、曲輪の端の落とし穴に大きな長板で橋を作れば、追撃用の道がそこに現れる。
裏参道の橋を潰したので、表参道の出入り口が1つになったと思っているだろうがそんなことない。
追撃戦になれば、隠している道を最後の切り札として使うつもりだ!
どうやら敵も昨日の失敗に学んだらしく、小さな落とし穴を見つけるとその上に盾板を置いて橋を作って進んで来た。
旧街道まで進んで来たので矢と投石で対応する。
今日は北の傭兵らにも仕事があってよかった。
外門付近に配置されている織田の兵は昨日と同じく弓を持って矢を射っているが、敵が引くと慶次らと同じく、追撃戦に参加することになった。
慶次にはうるさく言っておいた。
「罠で引き上げる可能性があるので、ギリギリまで見極めよ!」
「判っているって!」
「不利になっても援軍は出せんからな!」
「承知、承知!」
慶次の承知は当てにならない。
昨日は北東の粟田神社を奪取した三好勢の勢いが凄かったが、今日は大人しい。
裏参道の粟田神社の神領を結ぶ橋をすべて破棄した。
左程深くもないが、粟田神社の神領を取り囲む堀と知恩院を守る堀の二重堀になっており、矢が降る中で橋を作るか、水の中に降りてから梯子を使って登ってくるか?
その選択を迫られていた。
どうやら、今日は矢の応酬のみのようだ。
三好 長逸の部隊の一部が東山霊山城の山道を塞ぎに行ったので、正面の攻勢が弱くなり、北側から来る紀伊畠山勢も長梯子を持ち出して壁に取り付く勢いもない。
そして、粟田神社に入った三好勢は矢の応酬のみだ。
「千代、裏山から侵入しようとしている三好勢はどうなった?」
「今日は手控えているようです」
何故、理解できない。
山の裏手が一番の弱点のハズなのだが?
何故、攻めて来ない。
「正確に言えば、公方様が東側の山道から降りてくるのを警戒しているようです」
なるほど、納得した。
東山霊山城は東山の西側にあり、東側に出る為には山頂越えをする必要がある。
山頂越えをする為に山道がいくつもに分岐する。
山の裾野で待ち受けられない。
援軍の河内畠山を守る為に護衛を残さないといけないらしい。
これでは畠山は援軍ではなくお荷物だ。
畠山の兵が回復するまでに三好の兵を削っておけば、数でも負けることはなくなった。
(三好)長逸の兵糧は残り少なく、長期戦ができない。
また、(三好)長慶が摂津を治めて上洛しても困ることになる。
こちらは随分と楽になったな!
「で、公方様はどうしている?」
「清水寺の方まで50騎ほどで迂回して、後ろから奇襲を掛けるつもりのようです」
「好き勝手してくれるな!」
三好の兵が釣られて出てくれば、山道から討って出て挟撃戦でも仕掛けるつもりか?
しばらく状況は膠着して動きそうもない。
俺は昼前に織田から帰ってきた俺専用の使者が持ってきた連絡事項や商人の帳簿の写しにでも目に通すことにした。
「魯兄じゃ! それは何じゃ?」
「商品の帳簿だ。どこに何があってどんな商品を買って来た。あるいは、売って来たかを記した帳簿だ」
「忙しいのじゃな?」
「あぁ、俺は戦ばかりしてもおられん。本願寺が余計なことをしたから、余った米をどこに売るかを考えなければならん。頭が痛いことだ…………あっ、おかしい?」
俺は今川から運ばれてくる米の量がおかしいことに気がついた。
ヤラレタ!
先日も騙されたばかりだろう。
平手 政秀で痛い目に遭わされていたのを忘れたか?
手と耳を塞いで大人しくなると思っていたのか?
愚か者め!
俺は自分の馬鹿さ加減に呆れてしまった。
京騒動、急転直下で最終局面へ!
ps.「で」であっております。「が」ではありません。
ご指摘を受けましたが!
>平手政秀『で』痛い目に合されていたのを忘れたか?
平手政秀が痛い目にあったことを後悔しているのではありません。
平手政秀が再起できなくなり、上洛の準備を自分がすることになったこと『で』、苦労させられたことを悔いているのです。
実に利己的な魯坊丸です。




