閑話.光が強くなると、影も濃くなってゆく。
佐久間 家盛が承久3年 (1221年)に起こった承久の乱の戦功により御器所村と上総夷隅郡を賜った。
上総夷隅郡に入った家盛は嫡男の重吉に家督を譲った。
重吉は嫡男の嫡子である兵庫頭重貞に上総夷隅郡を、次男の勝正に御器所村を与え、勝正の子孫が尾張佐久間氏の始まりと言われる。
それから300年、佐久間氏は尾張の土豪として根付いていった。
御器所村の東南には桜山があり、佐久間家はこの半分を領していたと思っていたのだが、中根南城の中根氏が桜山を占有し、誰も立ち入らせないようにしたことが熱田神社と佐久間家のイザコザの発端であった。
熱田神社からすれば、言い掛かりも甚だしい。
御器所の由来は、熱田神社の神事に使用する土器を調進する場所であった神領であり、平家が横領してより奪われた土地である。
佐久間氏は桜山の半分の領有を主張しているが、そのような取り決めを交わした記録はない。
自分らの狩り場だったから自分の物など認めない。
織田弾正忠家の当主である故信秀の裁決も熱田神社の言い分を認めた。
と言うより、
桜山で製鉄をはじめており、秘密保持の為に家老の佐久間氏であっても知らせるつもりはなかったのだ。
佐久間一族の当主、御器所西城の佐久間 盛重〔大学允〕は諦めておらず、末森城の信勝を織田弾正忠家の当主にすることに奔走した。
その企みは半ば成功し、那古野城主の信長は『赤塚の戦い』で権威を失墜させた。
信長に軍を任せておけない。
鳴海奪還は末森主導で行い、熱田領を那古野配下から末森配下に変え、桜山を占有する中根家を佐久間家の与力にすることが半ば決まっていた。
だがしかし、弾正忠家の当主の件で末森の筆頭家老である守山城主の(織田)信光の造反により、熱田領の領地替え採決は延期され、林 秀貞の心変わりで信勝と信長の和睦がなった。
熱田領を末森に移す話はなかったことになったのだ。
佐久間大学允が悔しがった。
◇◇◇
佐久間 信盛 (18歳)は信長の元服でおとな衆 〔林秀貞、平手政秀、青山信昌、内藤勝介〕に次ぐ、若手の重臣として仕えた。
信秀が亡くなっても、従兄弟の(佐久間)盛重の誘いを断って、信長を支えると決めていた忠臣である。
旨々と盛重の誘いに乗って、信勝にくら替えした林秀貞など信用がならない。
筆頭格の平手政秀が暗殺され、青山信昌はすでに亡くなっていた。
筆頭に返り咲いた林秀貞を除くと、筆頭格の家老である内藤勝介に次ぐ、第3位まで(佐久間)信盛は地位を上げた。
(佐久間)信盛は考えた。
魯坊丸を支持している林秀貞は存命し、目の上のタンコブ、魯坊丸の教育係を命じられた平手政秀は暗殺された。
そして、平手政秀に代わって、評定に魯坊丸が顔を出すようになった。
出来過ぎた話であると。
信長様の弟君というだけで評定に口を挟み、家臣、奉行、家老など関係なく叱りつける。
傲慢な態度が許せなかった。
だが、林秀貞と熱田神社の大宮司である千秋 季忠の支持を受けて、魯坊丸は信長様に次ぐ地位を確立している。
巧妙で誰の文句も付けられない。
しかも、あろうことか、評定で決めたことを後で勝手にすり替える。
魯坊丸は工事の行程を変えただけと嘘ぶく。
評定軽視も甚だしい。
信盛は騙されてなるものかと怒りを覚えた。
魯坊丸派の林家、千秋家に対して、反魯坊丸派は内藤家、佐久間家、青山家、池田家が結集していた。
そして、上洛する魯坊丸を御する為に目付として、内藤勝介様は自ら随行された。
内藤勝介様は次席家老だ。
まだ若い (千秋)季忠とは発言力が違う。
魯坊丸を必ず押さえて、京で好き勝手させないと信じていた。
「誠か、明嶽」
「これが (佐久間)信辰からの手紙でございます。すでに内藤様は陥落済とのことです」
「信じられん! あの信長様にどこまでも忠義を尽くされていた内藤様が裏切るなどあり得ん」
「兄上、京は魔窟でございました。信辰もただ見守るだけで何もできないと嘆いております」
「何もできぬのか?」
「考えて下さい。右大臣の近衛家、権大納言の飛鳥井家、それに加えて公方様が御成りになるのです。公方様に拝謁させて頂いた時は、血の気が下がる思いでした」
「公方様が? どういうことだ!」
「手紙にはさる高貴なお方、紫殿と書かれていたと思います」
「あぁ、あったな」
「その紫殿こそ、お忍びで来られておられる公方様のことです」
「…………」
信盛は思考が止まった。
否、付いて行けない。
明嶽もそれを察して、しばらく黙っていた。
それは明嶽も同じだった!
京の視察に赴き、その疲れを癒す為に風呂を所望した。
そして、風呂から上がり、牧様らと一杯を楽しんでいると、風呂に来た公方様と対面したのだ。
高貴な方とすぐに判ったので座を譲り、尾張の話を聞かれた。
風呂に入って行かれ、その高貴な方の正体が公方様と知ったときは腰を抜かした。
まさか、公方様に拝謁し、談笑するような経験ができるとは思ってもみなかった。
信辰曰く、これが毎日のように続くらしい。
ひょいと現れる右大臣の近衛様、お市様を気遣って足繁く通われる権大納言の飛鳥井家、織田家顧問の山科卿?
「織田家顧問とは何だ。知らんぞ?」
「よく判りませんが、公家の作法、京における武家の作法を教えてくれる教育係らしく、皆は山科卿のお使いをして、他の公家様と知己を広めているようです」
「何故、山科卿がそんなことをしているのだ?」
「金で雇っているそうです」
「益々、判らん」
「それは私も同じでした。少し寺の中を歩くだけで、高貴な公家様と会うのです。どうあいさつをすれば、無礼にならないかを考えるだけでございました。信辰も日々同じ思いらしく、魯坊丸を止めると高貴なお方の勘気に触れるのではないかと苦労しております。内藤様など、軍門に下り、魯坊丸を助ける有様、もうアテにできないと嘆いております」
信辰は自分も何もできていないことを棚に上げて、(内藤)勝介を非難していた。
むしろ、(内藤)勝介が何も対応してくれないので、信辰も何もできないと思うようにしていたようだ。
しかし、明嶽も同じだった。
公方様らに「迷惑だから来るな」と言えるほど度胸もない。
魯坊丸も(内藤)勝介も言えない。
それ所か、二人しても持て成す。
当たり前である。
公方様らをぞんざいに扱える訳もない。
二人が協力するのは仲が良いのではなく、仕方ないからなのだ。
しかし、それも続くと役割が棲み分けされ、魯坊丸と(内藤)勝介が絶妙な連携で持て成しが進められる。
これを和睦、軍門に下ったと決めつけるのは可哀想だが、息のあった対応にそう思うのも仕方ない。
(内藤)勝介だって、代わってくれるなら代わって欲しいのだ。
同じ目付である林 通忠、千秋 季忠も自分の役目以上に引き受けたくない。
若侍衆の筆頭の (佐久間)信辰も適当に仕事を見つけて逃げ回っていた。
しかし、それを明嶽の話から察するのは無理であった。
◇◇◇
翌日、佐久間大学允の宅で茶会が開かれた。
一閑斎(武野 紹鴎)を持て成す茶会である。
そこに信盛と明嶽も呼ばれた。
他の客は盛重の家臣の服部将監と服部源左衛門のみである。
一閑斎から茶を習うのは名誉なことである。
「大学允と知り合いとは知りませんでした」
「大学允様の父君 (盛経)からの付き合いでございます。色々と沢山買って頂きました」
「そうでございましたか!」
「従兄弟殿の明嶽様が堺に来られましたので、あいさつをと思い。迷惑でしょうが同行させて頂きました。一度、熱田を見ておこうと思いました」
「熱田を?」
「はい、熱田です」
「ご覧になられて、どうでございますか?」
「堺に負けず、魔都でございますな」
「魔都ですか?」
「売る物が多く、珍しい物も多い。納屋の今井、天王寺屋の津田、魚屋の田中が騒ぐ訳です」
「何か拙いことでもございますか?」
「拙いかどうか知りません。織田が入って以来、堺は繁盛しております」
「よろしゅうございますな」
「よいか、どうか?」
「はて、何かありますのか?」
「織田が遊楽など作って河原者を集めております」
「なるほど、判りました」
佐久間家は鎌倉時代から定住し、土豪化していた。
御器所村では天白川に棲む河原者から皮を買い、武具にして売る者が多かった。
しかし、魯坊丸が顔を出すようになって皮の購入費が上がっている。
もう、言い値で買い叩くことが出来なくなっていた。
そんな訴状が佐久間家に上がっていた。
一閑斎の店の屋号は『皮屋』と言う。
つまり、皮革・武具に関する商いをしていた。
信秀が大量の武具を欲したので、堺から仕入れたのが一閑斎との付き合いのはじまりだった。
「遊び心のような外套であったが、中には鎖帷子を編み込んだモノもあった」
「そのようなモノが?」
「鎧より軽く、使い勝手も良い。忌々しき話だ」
遊楽街で使う衣装などは河原者を育てて自作できるように教育していた。
最近、売り出した皮を使った外套 (ジャケット、パーカー)は織田ぶりと呼ばれ、遊女らに重宝されていた。
まだ、余り売れていないが武将相手の皮製品も出されている。
遊楽街が高値で皮を買えば、河原者の生活が向上する。
しかし、皮の値が上がってゆく。
武具を作る商人にとって、それは嬉しいことではない。
「我が村の者の収入も減っております」
「佐久間殿には何かと頑張って頂かないと困るのです」
「判りますが闇討ちは無理でございます」
大学允がそう言うと、服部将監と服部源左衛門が頷いた。
一閑斎も佐久間家に暗殺を依頼しに来た訳ではない。
その手筈となる下見と段取りを頼みに来た。
一閑斎との関係を疑われない西国の者を雇い、尾張に入れて、魯坊丸が上洛から帰って安心している所を襲うつもりであった。
が、織田の忍び事情を一閑斎が聞いて唖然とする。
「あの魯坊丸は数百の忍びを抱えていると言うのか?」
「はい、間違いございません」
「確かに伊賀者から多いと聞いているが、四・五十の間違いではないのか?」
「おそらく間違いないかと」
「服部殿、私をからかっているのですか?」
「いいえ、事実でございます」
「あり得ん。何の為に?」
「いずれにしろ、暗殺は無理でございます。というか! できるならば、すでにやっております」
佐久間家に召し抱えられた服部一族は忍びの集団であり、その力で弾正忠家に取り入った。
だが、ここ数年で活躍の場を奪われていた。
信秀お抱えの岩室家が伸びたとか、言う話ではない。
同格であった岩室家に頭を下げることもできず、服部家は取り残されていた。
それは主人の大学允も同じであった。
御器所村の開発は遅れ、那古野、末森、熱田の中央に位置しながら、最も鄙びた村になり始めていた。
ゆえに、大学允の怒りは魯坊丸に向く。
衰退する佐久間大学允の御器所村、
台頭する魯坊丸を警戒する佐久間信盛、
凋落する皮屋の一閑斎、
事情はそれぞれ違ったが、反魯坊丸派の者達も少しずつ結集しはじめていた。
「情報を密に致しましょう。必ずや機会は訪れます」
「このままに致しません」
「協力させて頂きます」
佐久間家は堺に情報網を持つ事になった。
【佐久間ファミリー】
系図と資料をまとめた結果、以下のような家族図と推測される。
佐久間 家盛が承久3年 (1221年)に起った承久の乱の戦功により御器所村と上総夷隅郡を賜った事が佐久間氏の始まりと言われる。
(上総夷隅郡は佐久間家盛の子重吉であり、尾張国佐久間家の祖は佐久間兵庫亮重吉の嫡子兵庫頭重貞の弟勝正であることから、家を二分したと考えられる)
家盛より8代目の盛通の時代に織田信定が台頭し、盛通の次男盛経の子である盛重 〔大学允〕と三男信晴が信秀に臣従し、最終的に佐久間一族は織田家の配下に入ったと思われる。
御器所西城を継いだと思われる佐久間盛重 〔大学允〕は末森城の家老という立場で、信勝(信行)に付いた。
一方、三男信晴の子である信盛は一貫して信長を支え、家臣団の筆頭格として扱われた。
なお、佐久間信盛の居城は南分城、川名北城、川名南城のいずれかと思われるが詳しくは判っていない。また、清州に移ってから新たな領地を貰った可能性も高いが、場所は特定できていない。(また、山崎城〔勝幡城の北側?〕も所領していたと言う記述もあるが、詳細は不明)
〔佐久間盛通一家〕御器所西城
佐久間盛通:佐久間盛明(長男)、佐久間盛経(次男)、佐久間信晴(三男)、佐久間盛重〔久六〕(四男)
△佐久間盛明(長男)<亡くなったのかな?>
△佐久間盛経(次男):佐久間盛重 〔大学允〕(長男)
△佐久間信晴(三男):信直(長男)、信盛(次男)、信辰(三男)、明嶽(四男)
△佐久間盛重〔久六〕(四男):盛次
〔佐久間盛経一家〕御器所西城
△佐久間盛重〔大学允〕:佐久間(奥山)盛昭(長男)、女子〔新庄直頼室〕、娘〔佐久間盛政室〕
〔佐久間信晴一家〕南分城? 川名北城? 川名南城?
△△佐久間信直(長男):重行 (その子で重信)
△△佐久間信盛(次男):正勝(長男)、某(次男)、信実(三男)
△△佐久間信辰(三男):信好(長男)、信重(次男)
△△明嶽(四男)
〔佐久間盛重〔久六〕一家〕御器所西城の付近?
△△佐久間盛次:盛政(長男)、安政(次男)、勝政(三男)、勝之(四男))
〔服部氏の一族〕(御器所西城の佐久間家の家臣)
服部将監:御器所東城
服部源左衛門:服部屋敷
御器所は熱田神宮の神領であり、神事に使用する土器を調進する場所であったことによるが、それを平家が私物化し、南北朝時代に至って御器所保と称される荘園となった。
熱田神宮から見ると取り戻したい神領とも言える。
(史実では佐久間盛経一家が西、佐久間信晴一家が東を治めていたような気がします。しかし、作中では佐久間信晴一家(佐久間信盛)は御器所西城の西、白金地区(廃城になった古渡城の東付近)に佐久間屋敷を持っていることにしました。実際、御器所西城の西に領地を持っていても不思議ではありません)




