失恋したと思ったら、同期の溺愛が限界突破しました
「エーヴァルトの良い人ってあんたか?」
その質問に、私は息が止まるかと思った。
良い人とはつまり恋人という意味だろう。
それは私のことではないが、ノア・エーヴァルトは私の好きな人である。
つまり、私は失恋したのだ。
その瞬間、胸の奥が冷えていく。
コーヒーを飲んでもいないのに、ノアが淹れてくれるコーヒーの苦さが口の中に広がった気がした。
*****
「セラフィナって冷たいね」
そう言われるたびに、理由が分からないなりに受け止めてきた。
他者評価に抗っても仕方がない。
だから私は、自分のことを冷たい人間なのだと割り切ることにした。
傷ついた心は、見ないふりをして。
「セラフィナは優しいね」
あるとき、ふと、同期のノア・エーヴァルトにそう言われた時、自分の中のわだかまりがとけていくのを感じた。
その日から、私にとって、ノアは特別な人だ。
「おはよう、セラフィナ」
「おはよう、ノア」
毎朝挨拶をするだけの関係で、色恋めいたものはない。
それでも、私にとっては十分幸せな時間だった。
仕事の時は、2人で机を並べて、淡々とお互いの作業をする。
2人とも黙々と作業するタイプなので、会話はほとんどない。
ただ、疲れてコーヒーを淹れる時は、お互いの分を淹れるのが習慣になっていた。
それを少しだけ嬉しく思っているのは、きっと私だけだ。
今日はノアが先に立ち上がったので、彼は自然に2人分のコーヒカップを並べて、淹れ始める。
そんな静かな午後のひと時に、現れたのは魔法部隊のマドンナ、エリーナ・リーンハルト。
男性魔法師の憧れである。
「ベルクさん! これ、どうして差し戻されてるんですか!? いつもと同じことしか書いてませんけど!」
「……ああ、もしかして、遠征備品の購入申請でしたか? 使っている申請用紙が間違っています」
「記入内容は合っているなら紙ぐらいいいじゃない! ベルクさんって、ほんと冷たいですよね!」
彼女も私にうんざりしてるようだが、私も彼女にうんざりしている。
マドンナは事務作業が壊滅的に苦手なのだ。
「……申請用紙は魔法用紙ですよ? 横領で捕まりたいのですか?」
「横領って、大袈裟な!」
「大袈裟ではありません」
しかも、毎回、絶対に通らない理屈をこねて話を長引かせる。
私はノアが淹れてくれたコーヒーが飲みたいのに。
「あなたがいくら騒いでも、結果は変わりませんよ」
ノアがコーヒーを淹れ終えてそう言った。
マドンナはノアに近づくと、何を思ったか、マグカップを手に取ろうとした。
「ダメですよ」
ノアが咄嗟にマグカップを手前に引いた。揺れた水面が淵からわずかにはみ出す。
「え、私のじゃないんですか?」
キョトンとした顔をしているマドンナに対して、ノアはお面のように無表情になっていた。
「事務作業が苦手なのは分かりましたから……とにかく、早く申請書を書き直してきたらどうですか?」
「ちぇっ。エーヴァルトさんも融通効かないですよね。私のお願いが通じないの2人ぐらいです」
そんな捨て台詞を吐いて、マドンナは去っていった。
マドンナは確かに顔は可愛いが、あれが男の憧れと言われると全ての男を嫌いになりそうだ。
マドンナが去ると、ノアはシンクの水を出すと、なぜかマドンナが触ったカップを手に取り、淹れたばかりの熱いコーヒーをシンクに流した。
流れていくコーヒーを呆然と見つめていると、ノアがカップを丁寧に洗いながら言った。
「淹れなおすよ」
「そのままでも大丈夫よ?」
せっかく淹れてくれたのに勿体無いな。
そんな気持ちでそういうと、ノアは新たにコーヒーを淹れながらキッパリと言い切った。
「何か入れられていても困るから」
彼女は自分への好意だと思っていたのだから、怪しげな薬を混入させている可能性はないだろう。
けれどノアは、低く呟いた。
「……セラフィナの口に入るものは、ちゃんとしてないと嫌だ」
聞き間違いかと思うほど、小さく。
でも、妙に胸に残る声だった。
意味を探るように見つめていると、ノアがふっと笑って言った。
「そんなに見つめられると……照れるな」
どうやら凝視しすぎたらしい。
かあっとほおが熱くなるのを感じながら、視線を逸らし、謝った。
「そ、そんなつもりじゃ」
手元の書類を捌いているフリをするが、頭に入ってこない。
しばし動揺から立ち直れないでいると、ことりと目の前にカップが置かれた。
湯気がたちのぼり、コーヒーの香ばしい香りがした。
「ありがとう」
「どういたしまして」
「ノアは……」
他の人にもコーヒーを淹れるのか、と尋ねかけて口を紡ぐ。
ノアと私は同期だ。それ以上でもそれ以下でもない。
面倒な恋人のようなことを聞く間柄ではないのだ。
「どうしたの?」
「……なんでもないわ」
視線を落として、コーヒーに口をつけた。
いつもと豆は変わらないのに、いつもより苦い気がした。
*****
今日の仕事は、いつもより時間が経つのが遅い。
理由は明白だ。
ノアが魔法部隊の遠征に駆り出されて不在なのだ。
私は1人分のコーヒーを淹れて書類を淡々と捌いていく。
「これ、急ぎで申請したいんだけど」
声をかけられて顔を上げる。
魔法部隊のカイル・シュヴァルツァー。
マドンナが男性に圧倒的に支持を集めているなら、彼は女性人気No. 1といっていい男だ。
「お預かりします」
私はこの男のことは嫌いではない。
なぜならこの男は事務仕事が得意で、書類不備がほとんどないからだ。
ざっと目を通し問題ないことを確認すると、私は書類にサインした。
「問題ありませんのでお返しします」
書類を返すと、カイルはそれを受け取った。
そしてなぜか、そのままその場に突っ立っている。
顔を上げると、カイルがこちらをまじまじと見ていた。
「……どうされました?」
「エーヴァルトの想い人って……あんた?」
私は動揺して書類をとり落としそうになった。
息が詰まって苦しい。
それでもどうにか平静を装うと、静かに首を横に振った。
「いいえ。人違いです」
「そうなのか……困ったな」
「困った……とは?」
「エーヴァルトの想い人に用があったんだ」
ノアの想い人。
そんな人がいたとは知らなかった。
私は所詮、ただの同期だ。そういうことを知らされるほどの間柄でもないということだろうか。
そんなふうに考えると、胸が苦しい。
「あんたは……誰か知ってるのか?」
「いいえ。むしろ、私も知りたいです」
思わず本心がこぼれた。
まずい、と思っても撤回できない。
カイルは意外だ、と言わんばかりの表情で、瞬きを繰り返した。
「ベルクもそんな顔をするんだな」
「……どういう顔ですか?」
「傷ついたような顔」
「私だって人間ですから」
ヤケになって答えて、私は深いため息をついた。
「今日は飲んで帰るか……」
お酒の力でも借りないとやっていられない。
「……なんか悪いな」
バツが悪そうな顔をするカイルに、いたずら心が湧いた。ヤケ酒には、愚痴を語れる相手がいた方がいい。
「悪いと思うなら、飲みに行きましょう。愚痴を聞いてください」
「……あんたって人を飲みに誘ったりするんだな」
「意外ですか?」
「意外だ。……まあいい。飲みに行こう。あんたがエーヴァルトの良い人じゃないなら、刺されることもないだろう」
この男はノアをなんだと思っているのだろう。ノアは優しいからそんなことするタイプじゃないのに。
「? そんなに物騒な人間ではありませんが……」
ムッとなって言い返すと、カイルは驚いたように瞬きを繰り返し、少しクセのある金髪をくしゃっとかいた。
「……こちらの話だ。気にするな」
*****
そうこうして、私はカイルと2人で飲みに繰り出した。
忘れていたがこの男は女性人気が高い男だ。
ヒソヒソと噂されたが、私とカイルの歩く様子が、明らかに恋人のそれではないためか、嫉妬のような視線は感じられなかった。
あるいは、冷たいと噂される私が、カイルの相手であるはずがない、という判断かもしれない。
私は飲み屋につくなり、そこそこ度数の高いお酒をぐいっと飲んだ。
「いい飲みっぷりだな」
「ヤケ酒ですからね」
「……冷たいって噂だったが、思ったより人間味あるんだな」
「人間味があろうが、失恋したことに変わりはありません」
グラスをあっという間に空けると、店員さんにお願いして追加の酒を持ってきてもらった。
それもまた、ぐいっと飲み干す。
目の前にいるカイルは、自身の金髪をくしゃっと掻くと、後ろめたそうに言った。
「俺が余計なこと言ったせいで、申し訳ない」
「……別にあなたのせいではありません」
テーブルに並べられたつまみを口に運ぶ。酒に合うそれらは、こんな日じゃなければ、もっと幸せな気持ちで食べられただろう。
「ところであなたはどうして、調査を?」
「いやー、マドンナ……あ、エリーナ・リーンハルトが、エーヴァルトの想い人に嫌がらせしてやるって意気込んでて……」
「あの女、ろくでもないですね」
「……嫌いなのか?」
「事務作業が苦手な人間は嫌いです」
「なるほどな」
カイルは自身の酒を飲んだ後、長いため息をついた。
「俺は、エーヴァルトと学生時代からの長い付き合いだ。だから分かる。もしエーヴァルトの想い人なんかに手を出したら、リーンハルトは部隊にいられなくなる。だから、想い人側に警戒してもらって、事を起こさないようにしたい」
「マドンナのこと、好きなんですか?」
そこまで庇うなんてもしかして、と思ったが、違ったらしい。
彼はゲンナリした表情を見せた。
「まさか。特段好きではないが、貴重な戦力だ。ああみえて、腕のいい魔法師だから、抜けられると困る」
純粋に仕事の都合のようだ。
私はもう4杯目になる酒を一気に飲み干した。
喉がカッと熱くなる。
酒が回ってきたのか、ふわふわして、思考がまとまらなくなってきた。
「飲み過ぎないでくれ。流れ弾で失恋させた罪悪感でいたたまれない」
酒の入ったグラスをテーブルに置いたら、思ったよりも大きな音が鳴った。
カイルは慌てて私からグラスを取り上げると、グラスの底に傷がないかを確認した。
「さっきも言いましたがぁ……あなたのせいでは……ありません」
ちょっと呂律が回らなくなってきたが、これだけは言っておきたい。
「ノアにぃ……好かれる……魅力のない、私がぁ、悪いんです」
「……ノア? お前……エーヴァルトのことを呼び捨てに?」
「? 同期です、から」
「その……お前のことは、あいつはなんて?」
「セラフィナ、です」
なぜか、目の前の男の顔がさあっと青くなった。
そして、何を思ったか、彼は目の前にあったジョッキを一気に飲み干した。
「まずい。本当にまずい。そうか……そういう可能性があったか……」
「? どうしたのぉ?」
「お前は酔っ払い過ぎたから、もう帰った方がいい」
確かに酔っ払ってはいる。
だが、そもそもヤケ酒なのだからそういうものだ。もう愚痴を聞き飽きたというのだろうか。
「明日はぁ、おやすみなの。まだまだぁ……付き合い、なさい!」
「……分かった。じゃあ、店を変えよう」
なぜかカイルは急に慌てて支払いを済ませると、ふらつく足取りの私を支えるようにして店を出た。
「ちなみに、家はどっちなんだ?」
どうして家の方向を聞くのだろう。
もしかして、家で飲み直すという誘いだったのか。
「家……? 私の家に来たいの?」
そう思って尋ねると、カイルはブンブンと首を横に振って全力で否定し出した。
「いやいやいや! 違う! 酔っ払ったお前を送る参考にするだけで、断じて家に行きたいわけじゃーーー」
「ーーー何の話?」
突然、聞き覚えのある声が割って入った。
酔っていても分かる。ノアだ。
「やばい、やらかしたかも……」
隣のカイルが、顔色を変えてノアを見た。
夜も更けたこの時間。世闇に溶けるような黒い髪のノアは、いつもより鋭い雰囲気だ。
「どういう状況?」
ノアが首を傾げると、彼の黒髪がサラリと揺れた。そんな仕草にも、かっこよさを感じる私は、思っていたよりノアのことが好きなのかもしれない。
「カイルとぉ……飲んでたのぉ。この後も、まだまだ飲むわぁ」
もっとはっきり話しているつもりだったけれど、舌が回らない。
すると、ノアは剣呑な雰囲気になり、隣にいるカイルはひどく狼狽した様子で叫んだ。
「こ、これには深い訳が!」
「深い訳? セラフィナをこんなに酔わせてどうするつもり?」
「待て待て待て! 早まるな!」
ノアが何かの魔法を使おうとしているようだ。
「なんの魔法……使うの?」
私が質問すると、ノアがはっと我に帰ったような表情になった。
魔法を使うのはやめたようだ。
そして、彼は両手を広げて言った。
「……僕が家まで送るから、おいで。魔法にあたっても困るしね」
静かに言うノアは穏やかな笑みを浮かべていそうだが、目が笑っていない。
私はどうすべきか考えて、ふわふわとして考えきれずに、とりあえず、隣にいるカイルの腕に抱きついた。
「ノアと帰るのはぁ、嫌っ!」
「おまっ……!」
カイルが慌てて振り解こうとするが、私はぎゅっと力を入れて振り払われないようにしがみつく。
すると、ノアが目を見開き、苛立った様子で言った。
「カイルのことが好きなの?」
「好き? うーん……まあ、嫌いではぁ……ないわねぇ……?」
なにせ、この男は事務作業が得意で手がかからない。好きか嫌いかの2択なら好きだ。
「いや、嫌いって言ってくれ! 死にたくない!」
先ほどからカイルが騒いでいるが、耳元で騒がれると頭がガンガンする。
ノアはこちらに近づいてくると、私をカイルから引き離した。
そして、少しだけ焦ったような声で質問してきた。
「セラフィナ……なんで僕と帰るのは嫌なの?」
「だってぇ……好きな人、いるんでしょう……? だからぁ……私は、邪魔……じゃない?」
「え?」
「シュバルツァーさんが、言ってた」
その場の温度が冷えた気がする。
ノアが私を抱き抱えながら、冷たい声で言った。
「ご、誤解なんだ……! 俺は良かれと思って……!」
「良かれと思って?」
なんだか2人が言い合っているが、視界がぐらりと揺れた。
私はそんなにお酒に強くないから、お酒のせいだろう。
「セラフィナ!?」
薄れゆく視界のなかで、最後に見えたのは、ノアの焦った顔だった。
*****
朝、目覚めると知らない部屋にいた。
私は事態が飲み込めないながらも、自分の服が昨日のままであることにとりあえず安堵する。
記憶が曖昧だが、ヤケ酒して、どうしたのだったか。
ベットで身を起こして、眠い目を擦った。
「シュバルツァー……?」
送ってくれたのは彼だったか、と思い返した時、横から突然、抱きしめられた。
「シュバルツァーが良かったの?」
耳元で囁かれた声に、体が跳ねた。
「の、ノア!?」
身を捩って横を向くと、ノアの顔が目の前にあった。
どう言う状況が飲み込めずにいると、ノアはもう一度耳元でささやいた。
「ねぇ、起きて早々、シュバルツァーの名前を呼んだのはなんで?」
ノアの雰囲気がいつもと違う。
いつもの穏やかな雰囲気より、どこか拗ねたような空気だ。
「き、昨日の記憶が曖昧で……」
心臓が早鐘を打っている。
ベッドの上でノアに抱きしめられているのだ。緊張しない方がおかしい。
ーーーまずい、私、シャワーも浴びずにここにいるってことは酒くさいんじゃ……?
ノアから距離を取ろうと身を捩ると、ノアがぐいっと私を引っ張って、そのまま2人でベットに倒れ込んだ。
「逃げないで」
耳を打つ甘い声に、私は恥ずかしくて起きあがろうとした。
しかし逃げようとすればするほど、ノアがぎゅっと私を抱きしめてきて、彼の胸元に頭をつけられてしまう。
「ち、近い」
「近づけてるんだよ」
ノアは線が細いイメージだったけれど、こうして抱きしめられると、意外と力がある。
「昨日のこと、どこまで覚えてる?」
「あまり……」
断片的には覚えている。
ヤケ酒するのにカイルを誘って、飲んで、失恋した愚痴を言っていたのだ。
そして最後にノアがやってきて……。
ずきり、と頭痛がする。
「頭痛い……」
「お水、飲む?」
「うん……」
ノアの体温が遠かった。それが寂しいようなホッとしたような、複雑な気持ちだ。
しばし悶々としていると、ノアが水の入ったコップを持って戻ってきた。
それをそのまま渡してくれるのかと思いきや、なぜかノアは一口飲んで、ベッドサイドのテーブルにコップを置いた。
そして、彼はそのまま私に口付けた。
彼の温かい舌と冷たい水が混ざって入ってきて、どうしたらいいか分からずにただ受け入れる。
ノアは好きな人がいると言っていたのに、なぜ、私とキスをしているのだろうか。
そんな疑問と同時に、ノアがキスしてくれるなら、とりあえずこのままでもいいじゃないか、と思う自分もいて、私は混乱した。
「どうして……? 好きな人、いるんでしょう?」
このキスの意味を知りたくて、恐る恐る問いかけると、ノアが蕩けるような笑みを見せた。
「君だよ」
「え?」
「僕の好きな人は、セラフィナ・ベルクなんだ」
言葉の意味を飲み込む前に、ノアがもう一度、キスをした。どんどん深くなっていく口付けに、何も考えられなくなっていく。
「セラフィナ……好きだよ」
キスの合間に告白されて、私は夢見心地でふわふわとしていた。
このまま流されてもいいか、と思考を放棄しかけたところで、ようやく僅かに残る理性がそれをとどめた。
「ま、待って……」
キスの合間になんとかそういうと、ノアが少しだけ体を離してこちらを見た。
「ノアは私のことを好きなの?」
「うん」
どうしてだろう。
それに、いつからだろう。ノアは全くそんなそぶりを見せていなかった。
「私は冷たいって言われてるのに?」
「セラフィナは冷たいって訳じゃないよ」
ノアは少し落ち着いたのか、穏やかに微笑むと水の入ったコップを差し出してくれた。
私はそれを受け取って飲むと、ノアの言葉の続きを待つ。
「セラフィナは真面目で人見知りだから、誤解されやすいだけで、そんなことない」
ノアにそう思われていなかったというだけで、安堵が広がっていく。
意地悪な気持ちで言っていなくても、冷たいという評価をれることで、より自分が冷たい人間であるように感じられていたのだ。
「セラフィナは? 僕のこと、どう思ってる?」
答えは分かっているだろうに、ノアは少しだけ不安そうに見えた。
「私も……好きだよ」
その不安を取り除くように、じっと目を見つめて言うと、ノアは嬉しそう顔を綻ばせた。
「もう、僕から逃げないでね」
まるで逃げたことのあるように言われて、私は首を傾げて聞いた。
「逃げたこと……あった?」
「昨日、カイルに抱きついて、僕とは帰らないって」
「あ、あれは……! ノアに好きな人がいるって聞いて悲しかったから……」
「自分のことだと思わなかったの?」
ノアの問いかけに首を横に振った。
「ノアが私のこと好きって……ちょっと信じられないかも。そんなそぶりもなかったし」
挨拶をして、コーヒーを淹れ合うぐらいの仲だった。
それ以上の温度があったようにはどうしても思えない。
「そっか……僕の態度が誤解させたんだね」
「う、うん?」
1人で納得している様子のノアに、適当に相槌を打つと、ノアはにっこりと笑って言った。
「これからは気をつけるね」
その笑顔の意味を、翌日の職場で思い知ることになる。
*****
その日以降、今までの淡々とした様子はなんだったのか、というぐらい、ノアは私を甘やかすようになった。
あの日、晴れて恋人になって、色々な意味で距離が近づいたのもあるのかもしれない。
「おはよう、セラフィナ」
とはいっても、ノアの距離が近いし、声が甘い。
「お、おはよう」
私は動揺してうつむくと、ノアが職場だというのに、私の髪をすくって、そっと耳にかけた。
耳に触られてくすぐったい気持ちと恥ずかしい気持ちが同時に押し寄せた。
「の、ノア!」
「どうしたの?」
「ここ、職場なんだけど……?」
「セラフィナが特別だって、誰でも分かるようにしないと」
堂々とそんなことを言ってのけたノアに、私は思わず顔を赤くして俯いた。
ノアは誰がいてもそんな調子だったので、このままだと異動させられるのでは、とヒヤヒヤしていた。
「お前たち……業務に支障が出たら、どっちか飛ばすぞ」
けれど、上司は呆れ顔で、ノアに向かってそう言っただけだった。
周囲の気配が一斉に沈黙して、私は俯くしかなかった。
「セラフィナ」
今日も、淹れたてのコーヒーが目の前に置かれた。
砂糖も入っていないそれは、あの日以来、どことなく甘い気がするから、不思議だ。




