ある侯爵令嬢様が、ダンスパーティーで婚約を破棄された理由。(1/5)
「カロル・ド・ラ・カッサータ。きみとの婚約を破棄します」
冷えきった声が、ダンスホールに響いた。
声を投げかけたのは、灰銀の髪と切れ長の瞳を持つ美少年であった。
「……なぜ、ですか。フェリクス様」
声を投げかけられたのは、色の深い赤毛の美少女であった。
西方王国の貴族学園で、毎月おこなわれるダンスパーティーでの出来事である。いくつものシャンデリアが吊るされた煌びやかなダンスホールでは、楽隊による生演奏が奏でられていた。
だが、指揮者も思わず手を止めてしまっていた。
演奏が止まれば、踊りが止まり、歓談すらも止まる。
婚約破棄。婚約破棄だ――。そう、誰かが囁く。
誰もが楽しむはずの場で、令嬢が婚約を破棄されている――。
その場にいる生徒たちは、ひそひそと言葉を交わしながら、あるいは固唾を呑んで、その見世物の行く末を見守ろうとしていた。
美少年は周囲の目にも、まったくひるまない。
「答える必要はありません」
「あの、フェリクス様。わたくし、なにか粗相を……?」
「答える必要はない、と言いました。それでは」
それだけ言って踵を返した。美少女は見られていることすら忘れて、去っていく彼の腕にすがりついた。
「お待ちください! 理由を知らないままでは、納得が――!」
「くどい! もう決めたことです!」
美少年は、煩わし気に腕を振りほどく。美少女はたたらを踏んで、そのままドレスの裾を踏む。体が傾く。
……不幸だったのは、美少年の手にグラスが握られていたことである。
あ、と思う間もなく。尻もちをついて転んだ美少女の頭に、勢いよく宙を舞ったグラスの中身が直撃した。
見守る大勢が息を呑み、目を逸らした。
美しくセットされた赤毛も、同じく赤色の豪奢なドレスも、見るも無残な姿になってしまった。令嬢が公衆の面前で晒していい姿ではない。
「フェリクス、様……?」
カロル・ド・ラ・カッサータ。侯爵令嬢である。
フェリクス・ド・ル・フレジエ。侯爵令息である。
ふたりは婚約者であった。……今日、この時、この瞬間までは。
フェリクスは、カロルの姿をじっと見て、再度、足を扉へと向けた。
「……さようなら、カロル。お元気で」
毛先からシャンパンを滴らせるカロルは、去っていく元婚約者の背中を、呆然と見送ることしかできなかった。
●
西方王国の貴族学園には数多の不文律が存在する。
やれ『廊下は左側を歩くべし』だとか。やれ『平民特待生は一階のトイレを使うべし』だとか。そういう、校則で明言されていない不文律。プライドの高い学生貴族たちが、穏やかに学園生活を謳歌するための、いわば暗黙の了解である。
さて、そんな不文律のひとつに『生徒会長は当代でもっとも貴き者が務めるべし』というものがある。当代の生徒会長はオディロン第三王子。柔らかな金髪と慈悲深い碧眼という、魔性の美貌の持ち主である。
「なあ、ミネット。先日、父上から言われた話なんだがな」
その魔性の美貌の持ち主は、赤じゅうたんの敷かれた豪華すぎるほど豪華な生徒会室でソファに寝転んで、毛先を指先でいじりながら言った。
「隣国の親戚、黒い森を治める叔父には子がいなくて、養子を探しているそうだ。学園に、容姿端麗、頭脳明晰、心身頑強で気高い男子はいないかと聞かれてな。俺は高望みしすぎだと思う」
生徒会室内には、もうひとつ、人影があった。
書記が使う事務テーブルに、黒髪の女子生徒が座っている。小柄な体躯と山積みの書類が相まって、紙の山に埋もれてしまっているようにも見える。
「オディロン生徒会長様、どうか仕事をなさってくださいませ」
その女子生徒は、紙の山の奥から平坦な口調で声を返した。オディロンは頬をほころばせる。本当に忙しいときは、返事もしてくれないからだ。つまり、今日は多少の雑談なら付き合ってくれる日である。
「そうそう、これもその時に父上から聞いたんだが、謀反を企てている貴族に対して、近々、一斉検挙があるらしい。一族郎党、関係者まで処罰されるだろうな」
「……オディロン様。そのような大層なお話、小生ごときに言うべきではございません」
ミネットと呼ばれた女子生徒は、『小生』という女性としては珍しい一人称で自身を表した。
「小生は特待生としてこの学園に通わせていただいているだけの、平民でございますゆえ。あと仕事をなさってくださいませ」
「つれないなぁ、ミネットは」
オディロンはソファから起き上がって、しかし自分のテーブルの上にも置かれている紙の山を見て、もう一度寝転がった。
「じゃ、そう大層じゃない、校内の話を。知っているか? 先週のダンスパーティーで、女子生徒が頭からシャンパンをかけられて、婚約を破棄されたそうだ。俺は直接、見ていたわけではないが」
「ええ、存じております。小生はダンスパーティーに出られる身分ではございませんゆえ、その場にいた平民の給仕から伝え聞いた話ですが」
オディロンは面白そうに語る。
「フラれたのはカッサータ侯爵家の御令嬢だ。学内の派閥勢力図にも変化がありそうで、おもしろ――生徒会として、派閥の変化には気を配らんとな」
ミネットは無言で「悪趣味でございます」の意を表明した。オディロンはゴホンと咳をして、話題を逸らす。
「というか、ミネット。特待生だって生徒だから、参加権利がある。パーティーで踊りたいなら、俺がいつでもドレスを仕立ててやる。俺とお前、たった二人の生徒会だ。ペアで踊っても、なんらおかしいことじゃない」
「おかしいことでございます。第三王子様と、平民でございますれば」
紙の山の奥から、鋭い眼光が覗いた。
「というか、オディロン様。副会長も会計も総務も庶務もいない、たった二人の生徒会だということがおわかりならば、いい加減、お仕事を――」
そのとき、ミネットの小言を遮って、とんとん、とドアノッカーの音が鳴った。
オディロンはこれ幸いと跳ねるように立ち上がって、さっと扉まで駆け寄った。手櫛で乱れた金髪を直してから、ゆっくりとドアノブを手前に引く。
「いらっしゃい。お客さんとは珍しい、いったいどなたが――」
そこにいたのは、制服に身を包んだ、赤毛の美少女である。
オディロンは一瞬だけ目を見開いて驚き、しかし、すぐに笑顔を取り戻した。今しがた話していた婚約破棄劇の当事者が来たことによる動揺を悟られないよう、大仰な手ぶりで右手を胸に当てる。
「――これはこれは、ごきげんよう、カロル・ド・ラ・カッサータ侯爵令嬢。我が生徒会に、いかなるご用件で?」
「ごきげんよう、オディロン様」
カロルは膝を折って挨拶をした。
メイクが濃いな、とオディロンは思った。特に、目の下あたり。
「突然のご訪問をお許しくださいませ。本日は、ご相談がございまして」
「相談か。それは、私に? それとも――」
オディロンが振り返って、書記卓の紙の山を指差した。
「――あっちに?」
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