その名を捨て、君のもとへ
もう無理だ。
これから先、どれだけの犠牲を払ったとしてもゴーディラックとヴァロワールの関係が改善することはない。
そう考えた時、ヨハネスは故国を置いていくこととした。
2028年、最後の夜のことだった。
*
ヴァロワール共和国ではフランス語だけでなく、他の言語も学ぶようだ。廊下から聞こえる音楽は知らぬ言語で歌われていたから……。
サインを終え、私は書類を大使に手渡した。大使は書類を受け取り僅かに眉根を寄せた。
「本当に良かったのか? ゴーディラック人としての藉を破棄するなど。本当に良いのか? ハイド伯爵」
「ええ。これから先、ゴーディラックとヴァロワールのための通訳官など不要となるでしょうから。あとゴーディラックでの地位を捨てたので爵位はもうありません」と私は力強く頷いた。「それから……妻を探しに行くためには、ゴーディラックから抜ける外に方法がありませんから」
私は紙切れ懐から出し、大使に見せた。
「この住所をご存知ですか? どのように行くのかご存知ですか?」
大使は頭を横に振り「何語なんだ、これは?」と訝しんだ。
「恐らく日本語でしょう。かつて妻が書き残していったものです」
大使は「すまーとふぉん」を紙に翳し、カシャっと鳴らした。
「日本の京都という街の住所だ。京都とは……古都だ。この時期は桜が美しいそうだ。元妻のカレンとの新婚旅行でいったことがあるが、関西国際空港が最寄りの空港だったな」
京都、関西国際空港か。
大使は引き出しから箱を出し、私に手渡した。私の手と同じくらいの大きさの箱だが、見た目に反しずっしりとした重みがある。
「これは?」
「開けてみなさい。長年、通訳官を務めてくれたことへの礼だ」
箱の中には、「すまーとふぉん」が入っていた。
「設定の仕方はモハメドかマカレナに聞きなさい」と大使は目を細めた。「私の連絡先は必ず入れておくように」
「ありがとうございます、閣下」
感謝してもしきれない。
月日が流れ、9月に入ったヴァロワールからロンドンへ。ロンドンから北京へ。北京から京都へ。京都でミサキ嬢と会い、彼女がエリザベスと連絡を取ってくれた。そこで、我々はニューヨークへ行くこととなった。
飛行機の窓から見下ろしたマンハッタンの夜景は、作られた星空のようだった。あの光の下にエリザベスがいるのだろうか。本当にエリザベスがいるのだろうか?
隣で子どものように眠るミサキ嬢を一瞥した。彼女がエリザベスの異父妹とは言え、私は初対面の人間を信じすぎてはいないだろうか。私も目を瞑った。
私はようやく目を開いた。11月とは思えぬ陽に目が眩んでいたのだ。
街はまだ夏の名残があるが、セントラルパークには早くも秋の気配が漂っていた。木々の葉の端が赤く色づき始め、子どもたちの笑い声を乗せた風が頬を撫でる。
ミサキ嬢は暑さにバテて、カフェで1人お茶を楽しんでいる。シェイクスピア・ガーデンには、人影はまばらだった。私は小さな石段に腰を下ろした。
狭い園路は低木に囲まれ、どこか迷路のようでもある。白いベンチの背に木漏れ日が揺れている。紫色のセージと黄色いルドベキアがまだ咲き残り、風が吹くたび、乾いた葉が地面を擦るような音を立てている。
私は石段に腰を預けたまま、スマートフォンを確認した。とうに既読となった一通のメッセージ。
ミサキへ。
9月28日 14時に、NYCセントラルパークのシェイクスピア・ガーデンで会いましょう。あなたと会える日を楽しみにしています。
アケミより。
追伸:こんな時期に会いたいだなんて。高校は大丈夫なの? それとも3年生だから部活を引退して余裕があるの?
明美……エリザベスが妹ミサキ嬢へ宛てたメールを、ミサキ嬢がフランス語に訳し、私に転送してくれたものだった。
「本当に来てくれるのか……」
未だ、半信半疑だ。最後にエリザベスと言葉を交わしてから、彼女の顔を見てから6年が経っていた。私はまだ彼女の顔も声も思い出せる。しかし彼女が私に突きつけた期限まで2ヶ月の猶予しかない。
私達の子の顔を見に行くため、ゴーディラックの者が気軽にヴァロワール経由で外国へ行けるよう調整をしていた。だがすべて失敗に終わった。婚姻による同盟も意味を失い、私自身は国籍も肩書きも捨てた。そうでなければもう国外へ出ることは叶わなかった。
風が吹き、落ち葉が足元に舞い降りた。スマホで時計を見ると13時45分だった。少しずつ約束の時間が迫っている。心が浮き立ち、私は立ち上がった。
最後に見た彼女の姿は、雨降る中、顎をキッと上げ一歩一歩静かに船に乗っていく姿だった。エリザベスの顔を再び見た時、私は何と言えば良いのだろうか?
その瞬間、下腹部に重く鋭い衝撃が突き上げた。あまりの痛みに一瞬、息が止まった。膝が折れ、地面に片手をついた。呼吸が乱れる。胃の奥がねじれ、喉の奥から妙な声が漏れそうになるのを、歯を食いしばってこらえた。息が整わないまま、顔を上げた。
ぶつかってきた犯人と目が合った。4、5歳くらいの暗い金髪の男の子だった。男の子はおろおろと泣き出しそうな表情だ。
「ごめんなさい、おじさん! いたくない?」と小さなポケットから絆創膏を出した。
息を呑んだ。猫のような青い瞳。見覚えがある。その目の輪郭には見覚えがある。やや吊り目だが愛らしい印象を与える丸い目。丸く重みで落ちそうな赤い頬。やや丸い鼻先。見覚えがある。目の奥に、しんと澄んだ光がある。
見間違えるはずがない。鼓動が急に早くなった。痛みよりも、叫びたいような懐かしいような感情が胸の奥で暴れている。
「少年。名前は?」となるべく男の子に不信感を与えないように笑った。
「ウィル・エアリーだよ。ママは僕のことレモンって呼ぶけど」と男の子は首を傾げた。
間違いない。荒くなりそうな呼吸を抑えた。
「ウィル! どこにいるの?」と若い女。いや、エリザベスの声が聞こえた。
「ママ!」と男の子は絆創膏を私に投げてから、エリザベスのもとへ駆け寄った。
エリザベスは屈み、幼い息子を抱きしめ、なにやらお説教をしている。英語で話しているからよくは分からない。
「エリザベス」と私はゆっくり立ち上がった。
エリザベスはひょいと視線を上げた。みるみるうちに目が大きくなった。興奮しているのか、頬が赤くなる。胸が大きく上下している。花が綻ぶように立ち上がった。ウィルの手をしっかりと握ったまま私の前に立った。
「旅はいかがでしたか? ヨハネス様」とエリザベスはフランス語で微笑みかけた。
思うところはあれど、とりあえず歓迎した明美。
4歳になったばかりのウィル。本名はもう少し長いです。
明美が以前と変わらない笑みを見せてくれたことに安堵したヨハネス。
受験を放ったらかして、姉夫婦の再会のため奔走した反抗期の美咲。
最終回まで読んでいただきありがとうございました!!!




