最後の搭乗ゲート
京都のバスが激混みだって聞いたけど、本当に座れない。ぎゅうぎゅう密着で死にそうだし暑い。アナウンスが聞こえた。明美はパッと顔を上げ、降車ボタンを押した。スーツケースをホテルに置いてきて良かった。
お腹が少し重い分、バランスに気をつけながらバスから押し出された。ツバ広の麦わら帽子を被っていても暑い。観光地を過ぎれば、人混みはマシになった。「碁の目」のようで人混みさえなければ迷子になる心配のなさそうな街。汗ばむような暑さと人混みの中、私は記憶とgogoマップを頼りに川沿いを歩いた。
辿り着いたデカい日本家屋。ここに来るのは5年ぶりだけど、変わらないね。私は勢いつけてチャイムを押した。大丈夫、大丈夫。
『どちら様ですか?』
インターフォンから男の人の声がした。
「エアリー・明美です。財前 郁子さんとお約束があり、参りました」
『少々お待ち下さい』とインターフォンはすぐに切れた。
暑いなぁ……。この暑さ、帽子を被らないと命の危機があるから髪は下の方で結んでいるけど……。暑い。出産前に切っちゃおうかな、かなりロングだし。
ドアがガチャリと開いた。私はゆっくりと目を見開いた。出てきた人……お母さんは死んだと思っていたムカデが生きていたのを見たような顔だった。
お母さんは一瞬で表情を取り繕い「いらっしゃい。さあ、お入りなさい」と微笑んだ。
お母さんの後について行き、2階の部屋に入った。日本の病院のような白い壁、白い床に息詰まりそう。本棚には色々な本がたくさん並んでいる。あ、スペイン語の本だ。最新 ニュース 2023年版、かぁ。その本の隣には2022年版もある。
「お母さん、このスペインのニュースの本って毎年買っているの?」
お母さんは一瞬冷たい目を向けてから頷いた。その視線は主に私のお腹に向けられている。私はそっとお腹を手で庇った。
「ねえ、お母さんっていつからスペイン語をやっていたの? 前は中国語をやっていなかった?」
「3年前から。あなたのソレはいつからなの? 今何週なの?」とお母さんは私のお腹から目を離さない。
ソレ。
心にピシャリと冷水を掛けられたみたい。
ソレ、じゃない。ちゃんとローズ、もしくはレモンちゃんという愛称がある。
「お医者さんの見立てによると24から26週頃だろうって」と私はお母さんの目から目を離さず答えた。
「じゃあ、まだ堕ろせるね」
「堕ろさないよ」
おばあちゃんにも同じこと言われたし、やっぱり非常識なんだろうな。ま、そりゃそうか。
お母さんは「なぜ? こんな時にいてくれないパートナーの子なんていらないでしょ。それに、夫でもない男の子なんて、ふしだら」と黒い笑みを深めた。
それに関しては私も何も言えないわ。ヨハネス様が普通の国の人だったら言ったけど、ゴーディラックのことは語らない方がいいだろう。もし情報が漏れたことが、ゴーディラックの国王陛下にバレたらレモンちゃんも危ないし。
「成人しているから問題ないでしょ。私はもう19歳だよ」と私は両手を腰に当てた。
そう。私が知らないうちに日本人の成人年齢は18歳に引き下げられていたのだ。
お母さんは私の顔を見てから、少しだけ嫌そうな顔をした。人の顔見て嫌そうな顔をする癖さえなければ、お母さん美人なのになぁ。
「明美。私があなたを授かった時、私も19歳だった。あの時、大学を中退して……オスカーと駆け落ちしてまで生んだことをどれだけ後悔していると思っているの?」
私は小さく目を見開いた。胸にズンと黒い重荷が伸し掛かかったようだ。それから頭を振った。あまり思い詰めるな、明美。レモンちゃんを守るためにも……。
お母さんは「あなたなんて、中学校すらも卒業していないでしょ? 外聞が悪いにもほどがある」と目を細めた。
「そこ?」と私は首を傾げた。「もしかして、お母さんが私を生んだことを後悔している理由は外聞が悪いから?」
お母さんは私を睨みながら無言で頷いた。
私は……。ようやく腑に落ちた。幼いころから感じいていた疎外感の原因が。原因の原因も理解できた。
「お母さんにとって、私は黒歴史そのものなんでしょ?」
お母さんは肩をピクリと震わせた。
「私がどれだけ苦しんで、どれだけ必死に生きてきたか、あなたは一度も考えたことがないでしょ。しかもあなたが5年も行方不明になって、やっと戻ってきたと思ったら、誰の子かもしれない子を妊娠しているなんて」と私の腹を睨みつけた。「穢らわしい」
「穢らわしくない。この子をこれ以上侮辱するくらいなら、私の妊娠の件は放っておいてよ」
「あなたには私がどんな思いで生きてきたかを理解することはできないでしょ。あなたの父親が誰なのか言わなかったのだって、あなたのことを考えてのことだったのに。せめてあなたの存在に価値を与えようと思って留学に出したのに。それすらも無駄だったなんて」
留学。
4歳の父親を亡くしたばかりだった娘を留学に出した。10年間の間、1人で各国を転々として育った。それが「愛だった」とでも? 費用を多く掛けた虐待じゃないの?
財前さんがそれを「愛」だと言うのなら分かる。彼にとって私はただの継子だもん。だけど、あなたは私の実の親だよ……。
「お母さんにとって、私は留学に出さないと価値のない子だったの? 薄々気づいていたけど、それほどにまで私は邪魔だったんだ」
「邪魔、とまでは言わないけど。あんな過去から生まれた子なんて価値がないでしょ」とお母さんは言った。
あんな過去。
私が生まれた頃、お母さんが妊娠したばかりだった頃。お母さんはパパのことを多少は好きだったのかな……? 妊娠をキッカケに駆け落ち結婚するほどだから、当初は好きだったんだろうな。
元の婚約者だった財前さんと再婚して15年経った今。パパと駆け落ちしてまで結婚した話は汚点なんだろう。だけどさ……。
私はキッと顔を上げた。背筋を伸ばして。
「お母さん。私はお母さんが後悔している過去の象徴じゃないよ」と私は笑った。「私がこれから生きていくのは、お母さんが知らない未来。生きている限りきっと明るい行先となる未来だよ」
お母さんは呆気に取られたように顔を引き攣らせた。お母さんが口を開きかけた瞬間、ノック音が響きドアが開いた。
「ママただいまー」と美咲が顔を覗かせた。「あ、明美ねえさんいる!」
私は「久しぶり」と美咲に微笑みかけた。
「ねね。おしゃべりしよー。ウーパーでお菓子頼んでさ!」と私の手を引っ張り、お母さんの部屋から引きずり出してくれた。
お母さんの部屋のドアが閉まる直前、振り返った。40の割には髪はまだ黒くて艶々サラサラで綺麗。目は東アジア人としては大きめで、琥珀のような綺麗な色。すっきりした上品な顔立ち。日本海側出身と聞いた母方の祖母に良く似た顔立ちだった……。私と似ない容貌の母だった。
美咲の部屋に入ると私は息を呑んだ。部屋に巨大なクマぬいぐるみが鎮座していたから。床やソファには可愛らしいクッションが並んでいる。美咲は鞄を放り投げた。夏休みだから制服ではなく、白いパフスリーブのブラウスに、茶色のジャンパースカートを着ている。
「ねえさん、ソファの方が楽? それとも床?」と美咲はチラと私のお腹を見た。
「ソファの方かな〜。そもそも正座には慣れていないので」と私は微笑み掛けた。
「外国生活長いもんね。じゃあ、ソファにお座りください」
「ありがとう、美咲さん」
「私の方が妹なんだから、さん付けはやめてよ〜」と美咲はスマホを弄り始めた。「ねえさん、お菓子はドーナツでいい? あとKGC!」
「うん、ありがとう。あとで送金するから口座教えて」
「ねえさん、PYAPYAのアカウント持ってないでしょ〜。それより、国籍はどっちにするの? あと、その子。いつ生まれるの?」
お母さんと違うこと聞くんだね。ありがとう。美咲が裏で違うこと考えていたとしても、その一言で少し救われた。
「国籍どっちにするかはまだ決めていないけど、この子が生まれるのは12月頃だって」
「ワンチャン、クリスマスかな?」と美咲は髪を解き、お団子から三つ編みにした。「いいな〜、アドベント・ベイビー。翔一とねえさんが11月生まれで、智が1月だから、うちには12月生まれがいなかったんだよね」
「そうなんだ。美咲は春生まれだったよね? もう中1だっけ?」
「そう! 今、中学生として過ごす初めての夏休み!」
「部活はどこなの?」
「どこ? 新聞部だよ。英語新聞部!」
「新聞部なんだ。なにするの? 新聞部って」
ん? スマホに着信が入った。
「ごめん、美咲。ちょっとメール来た」
メールを確認すると、友達からだった。
「英語のメール?」と美咲が画面を覗き込んだ。「なにこれ、スペイン語?」
「ううん、フランス語。カナダ人の友達なんだよ」
「ねえさん、本当に語学堪能なんだ。いいな〜」
「やれば誰だってできるよ」と私は肩を竦めた。「ねえ、美咲。私の友達のジュールからお誘いが来た。ジュールの友達が旅行プランニングの会社を始めたらしいんだけど、通訳が欲しいんだって。Gogo翻訳なしで色々な国の人と話せる人が」
「ねえさんにもってこいの仕事だね。受けちゃえば? ちなみにどこでやるの?」
「ニューヨーク」
「え?」
「ニューヨークで旅行プランニングの会社を設立したから、ニューヨークまで来ない? ってメール」
美咲は少し考えるように自分のスマホを取った。それからバンっとスマホの画面を私に見せた。
「ねえさん。ニューヨーク行く前に高認受けてから行こうよ。試験は11月。間に合うよ」
「高認? あぁ、高卒と同程度の学力を証明する試験?」
「うん。アメリカでも通用するか分かんないけど、ないよりはマシでしょ。やっちゃおう。ねえさん、妊娠中だからしんどいと思うけど、育てるならお金必要でしょ?」
「それもそっか。ありがとう、美咲」
「ちなみに性別はいつごろ分かるの?」
「男の子だよ」と私は窓の外を見た。青い青い空の向こうで飛行機が跳んでいた。
次回、最終回。駆け足だけどね。




