『裏切り』
「だから、あのときのことはごめんって」
「別に怒ってない」
紫苑の返事は相変わらず抑揚がないが、その目はきっと俺を睨みつけている。華田は、怯む俺と紫苑の間で困ったように視線を彷徨わせて困った表情だ。
数秒間の気まずい沈黙。とにかく何か言おうと口を開きかけたところで、紫苑の腹が鳴った。紫苑がほんのりと顔を赤くし、俺と華田は顔を見合わせる。
「えっと、と、とりあえず……夕食行こうか?」
「そ、そうだな」
紫苑も黙って首肯し、3人で食堂へ向かうことにした。
「……で、何があったのとかって、あたしが聞いたりしない方が良い感じのやつ、かな……?」
フォークを片手に握った華田が、遠慮がちに訊ねてくる。紫苑は我関せずといった顔で、自分の皿の豆を俺の皿にせっせと移している。
俺が話すしかないか。
「俺さ、子どもの頃、アキヤラボパに助けてもらったことがあるんだよね」
「アキヤマ……?」
「アキヤラボパ。オーロラみたいに綺麗に光っててさ、ジャンボジェットくらい大きな鳥。アメリカで夜中になんかよく知らない動物に囲まれてさ。食われる-って思ってたら、その鳥が守ってくれたんだ」
「そんなことがあったんだ」
「え、信じるの?」
「……え? 何、嘘だったの?」
「いや、嘘じゃないよ。嘘じゃないんだけどさ、この話すると大抵『何言ってんの』とか『そんなのいるわけねえじゃん』とかって言われるから……」
「あー。そりゃ、あたしだって前だったら俄には信じられなかったかも知れないけど……あたしたち、異世界召喚だの魔術だのにどっぷり浸かっちゃってるんだよ? いまさら光る鳥くらいじゃ驚かないよね」
そう言って笑い飛ばす華田の表情を見て、胸にチクリと痛みを感じる。彼女と同じように俺の話を信じてくれたやつが、今までに1人だけいた。
紫苑の方に目を移すと、未だにスープをかき回しては豆を摘まみ出す作業に夢中だった。
「おい紫苑、豆も少しは食べろ」
「いいじゃん。意地悪。裏切り者」
紫苑の腕を掴んで止めると、頬を膨らませて睨みつけてくる。彼女は、心を許していない相手の前でこうした子供じみた言動は見せない。ここ最近共に行動することが多かった中で、華田のことを信頼に値する相手と判断したようだ。
「それについては申し訳なく思うけど、それとこれとは話が別な」
毅然とした俺の態度に観念したのか、残った豆を華田の皿に移し始める。いや、そういうことじゃないんだが……
「で、その、アメンホテップ……みたいな鳥が、どうしたの?」
「アキヤラボパな」
「アキヤラポバね、覚えた」
「アキヤラボパだってば」
「え、あたし間違ってた? アキヤラプ……アケヤラ……あれぇ?」
「いや……もういいや」
まあ、華田の気持ちも分かる。言いづらいよね。
「で、俺が中1の頃の話なんだけどさ――」
ようやく豆の全摘出手術を終わらせたのか、紫苑は満足げにスープを食べ始める。いや、今回の話、お前が発端なんだが。ちょっとは興味を示せよ。
* * *
アキヤラボパは本当にいるんだって、子どもの頃からずっと主張し続けてたせいで、いつのまにか周りから「頭のおかしい子」認定されてたんだよね、俺。家族とかも俺に現実を見せようと必死だったから、子どもの頃とかアニメはサザエさんしか見せてもらえなかったし、本でもファンタジーとか読んだことなかった。
そんなんだから学校でも、まあ、有り体に言えばいじめられてた。あの日のきっかけが何だったかもう覚えてないけど、たぶん大したことじゃなかったんだと思う。ただ、あの年頃の子どもにとって、大事なのは「いじめて良い相手」をいじめるってことで、大抵理由なんて二の次なんだ。
とにかく俺は体操着かなんかを取られて、周りから――え、筆箱だった? あ、そうかも。サンキュ、紫苑。そう、筆箱を取られて鳥籠みたいに回されてたんだ。P○MAの黒いやつだな。
「アキヤラボパ様はまだ助けに来ねえの?」
とか
「お祈りしてみたら来るんじゃないの。メッカってどっちだっけ?」
とか笑ってた。てか今思うとあいつら、アキヤラボパの名前ちゃんと言えてたの、ちょっとウケるな。
それであいつら、しばらくそうやって俺のP○MAを投げてたんだけど、コントロールミスって紫苑のいる方行っちゃったんだよね。あのときの紫苑凄かったな。反対方向向いてたのに、察知したみたいにシュパって手伸ばして。あれが野生の勘ってやつ――痛っ、いいじゃん、褒めてんだから。
でさ、そのまま筆箱持ってきてくれて言うわけ。
――私、信じるよ
って。そんなこと言われたことなかったから、理解するのにちょっと時間かかったよ。「信じる」ってなんだっけ? みたいな。でも、すっげぇ嬉しかった。それが、俺が紫苑と友だちになったきっかけだったな。
それから、2人でたくさん話したよ。俺の記憶のこともそうだし、ネットとか頑張って調べたけど、検索してもなかなか出てこなかったこととか。それから、紫苑の話もいろいろ聞いた。まあそっちは俺から話すことじゃないし、紫苑に聞いて。
とにかく信じてくれる人が1人いるだけで、心強かった。1人じゃないって感じられたの、生まれて初めてだったと思う……こういうの本人の前で言うの恥ずかしいな。
なのにさ、ある日突然気づいたんだ、夢から覚めたみたいに。ああ、あれは現実じゃ起きないことなんだって。物理的に考えて、あの大きさを支えられる生物なんていないんだよな。「それは妄想だ」って、昔からみんな言い聞かせてくれたことを、やっと受け入れられたんだ。
それが、猛烈に後ろめたかった。だってせっかく「信じるよ」って言ってもらえたのに、他ならない俺が信じられなくなったんだから。
それでだんだん心が重くなってきて、紫苑と話しづらくなって……高校に上がってからは、アキヤラボパの話なんて誰にもしなくなってたから、紫苑はどんな風に俺を見てるんだろうって思うと、余計後ろめたかったから、段々と疎遠になって……
そしたら突然この世界に召喚されて、状況が似てることもあって一緒に行動することが多くなって……最近はまあ、こんな感じだ。
* * *
そんな長々とした話を、華田はふんふんと頷きながら聞いてくれた。紫苑はやはり無表情で固いパンを囓っている。
「じゃあ、『裏切り』っていうのは、東雲くんが自分の記憶を信じられなくなっちゃったこと?」
「うん。『信じるよ』って言ってくれた紫苑の気持ちを――」
「――違う」
「え……?」
俺の言葉を遮るように、紫苑が鋭い声が響く。
「怒ってるのはそこじゃない」
それだけ言うと、紫苑はまた自分の食事に戻ってしまう。どうしたものかと華田を見るが、目が合わない。
「あの、紫苑さ……なんで怒ってるのか、教えてもらえない?」
勇気を振り絞って聞いてみると、ぴたりと紫苑の手が止まる――いや、止まってなんていない。彼女の手が細かく震えている。
そこで初めて、俺は気がついた。表情か浮かんでいないと思っていた彼女の顔が強ばっていて、今にも崩れ落ちそうになっていたことに。
「……聞いてくれなかった」
「え?」
紫苑の声はかすれていて、ひどく聞き取りづらい。
「そんなことすら、今まで一度も聞いてくれたことなかった」
今までずっと無表情だった紫苑の目尻から、突然涙が一筋流れた。紫苑の思わぬ反応にどうすればよいか分からず、頭が真っ白になる。
「え……? あ、その、ごめ――」
「そうやって謝れば良いって思ってる。私は謝って欲しいなんて一度も言ってない」
恐らく紫苑史上最長であろうセリフが、大粒の涙に混じってぽつりぽつりとこぼれ落ちた。一度溢れ出た心の欠片は、勢いを弱めることなくとめどなく流れ落ちてゆく。
「友だちだからって、全部の意見が合うわけじゃない。信じるものが違って、見える世界が違って、それでも……それだから、支え合って……友だちってそういうもんじゃないの? 意見が合わなくなっちゃったんなら、尚更話さなきゃじゃないの? なんで、そうやって決めつけて……分かろうとしてくれないの?」
抑揚の薄い話し方は、段々と咽ぶような叫びに変わる。吐き出された言葉の一つ一つが深く突き刺さって、俺の心は悲鳴をあげている。こんなに痛みを感じるのは、たぶん俺自身、分かっていたからだろう。
きっと俺は、初めての友だちに嫌われたくなかったんだ。やっとできた友だちを傷付けるのが嫌で、向き合うのが怖くて、自分から突き放した。口では「紫苑に申し訳ない」なんて言いながら、初めから自分のことしか考えていない。彼女を傷つけたのは、俺の身勝手さだ。俺が――紫苑との「友情」を裏切ったんだ。
涙を拭う紫苑の背中を、華田が優しく撫でている。しばらくそうしていると少し落ち着いてきたのか、ピクピクという肩の震えが次第に小さくなってきた。
「ねえ彩斗」
俯いて発された呼びかけに、俺は応える術を持たない。それでも彼女は構わずに言葉を続けた。
「私たちってまだ『友だち』――?」
「――もちろん」
即答する。それだけは、一瞬たりとも言い澱んではいけない気がした。
「そう……それが聞けて良かった。ごちそうさま」
そう呟いて紫苑は立ち上がる。追いかけようとする俺を拒絶するように、彼女の周囲に黒い魔力が広がり、俺を押さえつけた。
「おやすみ。また明日」
俺と華田に一瞬だけ笑顔を向けて、紫苑は食堂を後にした。
紫苑の去った後の食堂で、俺はしばらく動けずにいた。紫苑の言葉にと言うより、俺自身のふがいなさに、俺の心は打ちのめされていた。
「なあ、華田」
「ん?」
「俺、何してるんだろうな……」
「青春、じゃない?」
華田がふ、と軽く笑みを漏らす。
「そっか……青春ってもうちょっと甘酸っぱいものだと思ってたわ」
「そうね……どんな味した?」
「苦じょっぱい」
ため息をつきながら夕食に手を付ける。冷めてしまったスープは、豆だらけでなんだか青臭かった。
グリンピースってなんであんなに美味しくないんでしょうね




