【29.エルンストの婚約破棄】
さて、王宮での断罪劇の数日後。
エルンストはイェレナのマセレステン公爵家を正式に訪れていた。
婚約破棄のためである。
エルンストとウォーレスはダスティンとの約束を守り、事件にはイェレナの名前は出さなかった。
だからイェレナは一応家名的には無傷だった。
しかしイェレナはダスティンが逮捕されてすっかり意気消沈し、邸から一歩も出ずに引き籠っていた。
イェレナを訪問したエルンストは単刀直入に言った。
「ルシルダとダスティンの件は聞きましたね」
「え、ええ……。それを言うために訪れたんですの?」
イェレナは迷惑そうに言った。
「そうですよ。世間には言わなかったが、ダスティンが君の恋人だってことも知ってます。さすがにこれ以上は言い逃れする気はないでしょう?」
とエルンストが聞くと、イェレナは投げやりな言い方で答えた。
「ええ。婚約破棄ってことでよろしいのかしら」
「婚約はもちろん破棄です。浮気していたのは許せませんから」
「……」
イェレナはほっとしたような顔で黙った。
そして、ようやく婚約破棄かといった顔で下を向いた。
するとエルンストが少し不機嫌そうに言った。
「おや、まだ話は終わってませんよ。ダスティンが私を刺したことについては一言もないんですか?」
「……。お気の毒だと思いました」
イェレナが口先だけでふてぶてしく答える。
「それだけ?」
「……。」
イェレナは口をへの字に結んでそっぽを向いた。
「君の恋人のダスティンが刺したんですよ。しかも話を聞く分には別に嫉妬とかでも何でもない。ルシルダに刺せと言われたから刺した、それだけだって」
「ああ、そうでしょうね。そういう人です、彼は」
イェレナは言葉少なにそう言った。
「そういうことじゃないでしょう? なぜ彼を止めなかったんです? 私が死んでもいいと思ったんですか?」
「ルシルダ様の命令でしたので」
とイェレナがこの期に及んでまだ淡々と言うと、エルンストはさすがに声を荒げた。
「命令だったから、私が死んでもいいと思った? 仮にも婚約してましたよね?」
「ええ、そうですね。仮の婚約でしたが」
イェレナは冷たく言い放った。
「仮の婚約? ああ、すみません、『仮にも』と私が言い出しておきながらですが。でも、正式な婚約でしたよね!」
エルンストは詰め寄った。
するとイェレナは悲しそうな目をエルンストに向けた。
「ええ、私はあなたと婚約しておりました。ちゃんと書類に署名して、家同士の約束として、私の意思なく決定いたしました。でも、私の意思の反映されない婚約は正式な婚約なんですか? 私は好きな人と結婚したかったですわ!」
それにはエルンストも寂しそうな目をした。
「私を好きにはなれませんでしたか? 私はずいぶんと努力したつもりですが」
「ええ、努力してくださいました。いつも話題を用意して、時間を作って頻繁に会いに来てくださった。どんな小さな理由でも贈り物を用意してくださった。どんなに忙しくても私が出席するパーティには都合をつけて全て同行してくださった。エスコートするために。ご友人には全員紹介してくださって。話題に入れないと感じたらすぐさま補助的な説明を挟んだり、助け舟を出してくださったり」
イェレナは感情的にまくし立てた。
「ええ、できるだけのことはしました、あなたが結婚に前向きになってくださるよう!」
とエルンストが被せるように言うと、イェレナは急に一呼吸おいてから、ぽつんと答えた。
「私は息が詰まりました……」
「え?」
「あなたは決して私を一人にはしませんでした……」
イェレナは震えた声で言う。
「しませんよ、当たり前じゃないですか。特に私はあなたがこの婚約に乗り気じゃないことを聞いていましたから! でも夫婦になるというのです、歩み寄りを……」
エルンストは必死でイェレナに自分の当時の気持ちを伝えようとした。
「ですから、息が詰まりました! すごくプレッシャーでした。あなたがそういう態度で来るなら私も良き妻でなければなりません。そういうのが嫌でした。放っておいてほしかった! 家のため、子どもを産むことは義務、そういうのは分かっていました。でも、それだけでいいじゃありませんか! 適度に軽く、表面上の夫婦、でも信頼だけは失わない、それでいいじゃありませんか!」
イェレナは叫んだ。
「! 私がやりすぎたということですか?」
エルンストは、自分が間違っていたのかと聞いた。
イェレナは大きく頷いた。
「あなたに会うのがどんどん苦痛になりました。あなたが悪い人でないから余計につらくなりました。そんなときにダスティンに出会いました。彼は、倫理観がどこか抜けてるわ。短絡的、刹那的、享楽的。でもよっぽど私には救いになりました」
「私への反動……?」
「反動かもしれませんね、私もあんなダスティンに惹かれた自分に驚きました。自分にそんな部分があったなんて。でも彼といると心が自由になれました。リラックスできました。本当の自分が誰を望んでいるのか、気付くのは一瞬でした」
イェレナの声に迷いはなかった。
「……」
今度はエルンストが打ちのめされて黙ってしまった。
「でも私から婚約破棄なんかできやしません。特に私の浮気が原因だなんてことになったら、婚約破棄できたとしてもダスティンとのことは誰も認めてはもらえないでしょう。いくら愛し合っていても、王宮の社交界はさすがに不貞には厳しいもの。社交界からつまはじきにされます」
「ですね」
エルンストは当たり前ですと相槌を打った。
「でもルシルダ様は言ってくれたんですの。エルンスト様も身の危険を感じてまで私と婚約を継続したいとは思わないはずって。ダスティンはきっと証拠を残さずうまくやるから、ちょっと怪我させてご覧なさいって。大丈夫、エルンスト側から婚約破棄するように仕向けるから大丈夫、婚約破棄のあとは私とダスティンの関係も認めてあげるから大丈夫って。王太子妃が認めるなら、社交界で無視できる人はいませんよって」
イェレナはルシルダを信じていた当時の気持ちを絞り出すように言った。
「……。そんな浅はかな提案に乗ったのですか……」
「乗りました。だって、私に何か損なことはあって?」
イェレナは開き直った。
「いや……。しかし、私の命もだいぶ軽く見られたものですね」
「怪我させるとは聞いておりましたけど、まさか刺すとは思わなかったんですもの!」
イェレナはそこだけは弁解するように叫んだ。
「刺されましたよ、申し訳なく思ってくれますか?」
「……。それは、もちろん、やり過ぎだと……」
イェレナは頭を垂れた。
「ふう。でも、聡明なはずの君が、よくそんな話に乗ったと思いますよ。君はそんな提案をしてくるルシルダをどう思ってたのですか? 信じていたのですか、あの女を?」
少し冷静になってエルンストは聞いた。
聡明なはずの君がと言われて、イェレナは黙った。
「……」
「聖女だから大丈夫だと?」
エルンストは問い質すような口調だ。
しばらく黙ってから、イェレナは言った。
「……。いいえ。正直に言うと、ルシルダを本物の聖女だと思ったことはございません……」
エルンストはその言葉に逆に少しほっとした。やはりイェレナも心の底からはルシルダを信じてはいなかったのだ。
「ははは。そう。どのへんが?」
「……うちの北の庭に古い井戸があるのは知ってました? 不思議な井戸で、聖なるものが近くにあると水量が増えるんですの。一度ルシルダ様がうちをこっそり訪ねて来たとき、少しでも人目を避けようと北の庭を使いましたの。何という気はなしにふと井戸に目をやったときに、水量が増えておりませんでした。そのときは『あれ?』と思った程度でしたけど。でも、なんか女神の祝詞を知らなかったり、エルンスト様に賄賂を要求していたという話を耳にしたり、そういう小さいものが積み重なって……。で、エルンスト様を怪我させると聞いたときにはもう本物の聖女だとは思ってませんでしたわ」
イェレナは、ルシルダへ曖昧な疑惑を抱いていたことを白状した。
「そうですか」
エルンストは呟いた。
そのとき、イェレナが急に口調を変えて聞いた。
「ところで、今の話ですと、私もダスティンの共犯者ということになるのですわよね?」
「……それは、ダスティンが一人で罪を全部かぶると言っています」
エルンストは安心させるように言った。
「いいえ! 彼一人がかぶる必要はありませんわ! 私も、罪を認めます。共犯です、私たちは、二人でやったのです、二人の未来のために」
イェレナはルシルダのことを白状してしまい、胸のつかえがとれたのか気分が変わったのか、何だか別人のように強い目をエルンストに向けた。
「ですから、ダスティン一人が罪をかぶると……」
「いいえ! 私も罰してくださいませ。私と彼が二人のためにやったことを無かったことにしたくないのです」
「……! そんなに想いあっていたとは……」
エルンストはずきっと胸が痛んだ。
「あ、ご、ごめんなさい」
その顔に居た堪れなくなったのか、イェレナが思わず謝る。
「いや、いいですよ。そりゃ私だって、君に裏切られていると知って、それでも君を愛し続けていたわけじゃありませんしね……」
寂しそうだったけれども、エルンストは正直に言った。
「え?」
「早々にあなたとのことは諦めていましたよ。もともと政略結婚。努力で何とかなるものでもなかったんです。裏切られてるって知って、逆に吹っ切れましたね。とはいえ、今この瞬間も私たちは婚約していますので、私の方からはあなたを裏切る真似はしないと心に誓っておりましたけどね」
「私を裏切る真似はしないと? ご、ごめんなさい……。婚約は嫌だったけど、どういう形ならやっていけるか、あなたとちゃんと話せばよかったのかもしれませんわね……」
イェレナは、エルンストの誠実さに後ろめたい気持ちになって、口ごもった。
「今更言っても仕方がありませんね。まあ、私たちは終わりです。……。君もダスティンと一緒に罪を認めると言うのなら、修道院くらい入ってもらうことにしましょうか」
「喜んで入りますわ。ダスティンと共犯でいられることが愛の証です」
イェレナは、終わりと言われて吹っ切れたようにはっきりとした口調で宣言した。
エルンストは残念そうに呟くしかなかった。
「あなたの愛の形には驚かされるね。少し寂しいけれど」





