【10.隣国はうちの聖女を舐めている】
さて『夜の散歩』から帰ってきたリーアンナだったが、何やら聖女ルシルダが秘密を持っているらしことや、エルンストの傷害事件の犯人に目星がついたことを知り、あまりに予想外の情報が多すぎて困っていた。
正直なことを言うと、エルンストの婚約者のイェレナに恋人がおり、それがエルンストを刺したというのは、まだ感情的にどう受け止めてよいのか分からない。
それを考えようとするとリーアンナはひどく混乱してしまって、いっぺんに理路整然と考えることができなくなってしまうのだった。
しかし、エルンストが少なくとも刺した犯人については思い当たる節がある様子を見せたことについて、ウォーレスとバートレットが巻き込まれようとしているのがそれに関することだということは、リーアンナもうっすら思っていた。
エルンストやウォーレス、バートレットがこれから何をどう行動しようとしているのだろうか。
不安に思ったリーアンナは、自分がこれらの情報を持っているのは不自然だが、ここはウォーレスが優しいのに甘えて、話を聞かせてもらえないだろうかと思った。
リーアンナと二人きりのとき、ウォーレスはとびきりリーアンナに甘いのをリーアンナもよく分かっていたのである。
もちろん言ってくれないかもしれない……でも聞くくらいはしてもいいのではないだろうか、とリーアンナは思った。
それで、リーアンナは少し遠慮がちにウォーレスに会えないかと便りを出した。
便りをもらったウォーレスは、どうせエルンストことだろうと身構えながらも、断ることなくリーアンナの招きに応じた。
リーアンナのことが好きなウォーレスとしては、エルンスト絡みだからといってリーアンナの誘いを断って、リーアンナが変な行動に出ても困ると思ったのだった。
リーアンナは屋敷の隅の方にある応接室をわざわざ選んでウォーレスを招き入れ、侍女たちにお茶の準備をさせた。
お茶テーブルにウォーレスと向かい合って座ったリーアンナは、
「ウォーレス、エルンスト様に会ったの?」
と単刀直入に聞いた。
ウォーレスは黙ったままお茶を一口飲んだ。
「……」
ウォーレスが黙ったままなので、リーアンナは少し居心地悪そうに自分のカップに手を伸ばした。手持無沙汰に口をつけてみる。
ウォーレスがちらりとリーアンナを見た。
「エルンストが気になる?」
「そりゃ……。犯人が誰かとか……」
ウォーレスが口を開いてくれたので、少しほっとしながらリーアンナは答えた。
「エルンストを刺した犯人が分かって、リーアンナはどうする気? リーアンナに何ができるのさ、いくらエルンストのことが好きだとしても」
お茶をゆっくりとテーブルに戻しながら少し拗ねたようにウォーレスが言うので、リーアンナはドキッとした。
「好きじゃだめ? それに、私だって関係あるのかなって……」
ウォーレスはハッとして、目を見開いてリーアンナを見つめた。
「関係って何?」
鋭く問いただす眼だった。
その視線があまりに突き刺すようで、リーアンナはたじたじとなった。
「あ……。いや、ちょっと聞きかじったことがあって」
「聞きかじったって何を? ちゃんと言って」
ウォーレスは気迫のある声で、リーアンナの目を捉えて離さない。
「あ、いや、えーっと。私の王太子様との婚約破棄のこと。エルンスト様、ルシルダ様のこと聖女として認めてなくて、私を擁護してくださってたって……」
「ああ、そのこと……」
ウォーレスは一気に気が抜けたように肩を降ろし、ふっと息を吐いた。
「びびった。関係って言うから、二人の間に何かあったのかと思った」
リーアンナはムキになって怒った。
「な、何もないわよ。でも、エルンスト様が私を擁護してくださるせいでルシルダ様と対立しているのだとしたら……。そして、今回刺されたのがルシルダ様絡みなのだとしたら、私のせいになるわ」
「それはないよ」
ウォーレスはそれには興味がなさそうにあっさり断じると、テーブルの上に用意されたクッキーに目を落とし一枚指でつまんで弄び始めた。
「エルンストはルシルダ聖女だってことに疑問を持ってるだけ。別におまえを擁護したいわけじゃない。ニセモノ聖女のとばっちりを受けておまえが気の毒だって、そういう話」
あくまでリーアンナのことはおまけに過ぎないという言い草だった。
リーアンナは少しほっとした。
「私のせいじゃないなら良かったわ……。ニセモノ聖女のことはよく分からないけど。まあ私は王太子様の婚約者を辞めれて今は良かったと思っているから、あんまり気の毒がってもらわなくても大丈夫なんだけどね」
「王太子の婚約者を辞めれて良かった? それは僕が一番強く思ってるけどね」
ウォーレスは、まだリーアンナの方を向かず、クッキーを両手でつまんでぱきっと割った。
「まあ、おまえのことはおまけみたいな話だし。ルシルダは聖女に相応しくないからやめてもらおうって、そういうふうにエルンストと話してるだけだよ」
「ルシルダ様が相応しくないというのは?」
そう聞きながらリーアンナは先日の夜の散歩を思い出していた。
聖女の力の証明、お金が足りない、なんだか変な会話をしていたルシルダ。
ウォーレスはようやくリーアンナの顔を見て、割ったクッキーを一つリーアンナの掌にぽとんと落としながら、
「明らか、力不足。隣国でも噂にのぼるくらい」
と言った。
「隣国での噂って?」
「ま、それは噂でしかないから言わないけど」
「言ってほしい」
リーアンナはずいっと身を乗り出した。
それをウォーレスはちらっと見た。
「そんなに気になる? なんで? 婚約破棄されてから最初は少しルシルダや王太子殿下のこと気にしているようだったけど、あるときからパタッと、それこそ2年間、リーアンナはルシルダのことには知らんぷりを決め込んでたじゃん。なんで今になって急にルシルダのことに興味が出てきたんだよ? エルンストが怪我したから?」
リーアンナは真っ赤になって黙った。
リーアンナは下を向いているが少しも納得してない顔だったので、ウォーレスは小さくため息をついて話しだした。
「うちの国の女神は水の女神だ。雨が多い国だからね。水への人々の願いが信仰に繋がったものだが、それはいいんだ。この国に聖女が現れると、普通洪水とかそういったのが減るんだ――」
ウォーレスの話にリーアンナは頷いた。
そういったことは昔話でよく聞かされていた。
リーアンナが頷く仕草をちらっと見てから、またウォーレスは言いたくなさそうにむすっとした表情で続けた。
「でも、減ってないよね?」
「あ」
とリーアンナは思った。
確かに。ルシルダが現れてからも、この国ではあちこちで大なり小なり河川の氾濫や大雨による洪水がずっと起こっていた。
リーアンナはウォーレスの顔を見た。
ウォーレスは肯いた。
「聖女がいるのにトラブルが減らない。これはうちの国の貴族たちでまことしやかに囁かれている噂」
「そ、そうね……」
リーアンナの声は震えていた。
「で、隣国の噂というのは……?」
ウォーレスはもう一度大きくため息をついてから、面倒くさそうに説明した。
「ま、本物の聖女が現れた場合ね、うちの国は洪水とかが減る。でも、水のトラブルが減るのはいいことなんだけど、だからといって雨が降らなくなるわけじゃない。何が起こるかって言うと、この国で治水が安定している場合は、洪水とかの問題は隣国で起こる。変な力が働くんだろうさ、小さな水のトラブルは頻繁に起こるようになるし、思いがけないような大きなトラブルも起こるんだそうだ、歴史的にね。だからルシルダの出現には隣国も警戒していた。でも今のところ小さなトラブルですら、そういったことは少しも起こっていない」
「それは隣国にとってはいいことなんじゃないかしら」
とリーアンナがそっと言うと、ウォーレスは「まあね」と軽く同意した。
それからウォーレスは肝心なことを言った。
「隣国にとってはいいことだった。でも余裕があると人々は噂するものだ、『隣国に聖女が現れたのに何で?』と。本当にルシルダが聖女なのか疑う人も出てくるってことさ。ルシルダは隣国にも舐められてるのさ」
深刻そうな顔で話を聞いてたリーアンナは、そこまで聞くとハッとした。
「だから? だからウォーレスは帰ってきたの? 聖女の力量を調べるために」
ウォーレスは話し終えてしまうと、がらりと調子を変えて、
「まあ、そういう一面もあるかな。でも婚約者を見つけるつもりで帰ってきたんだよ」
と軽く答えた。
リーアンナはウォーレスがいきなりルシルダの話を終わらせたので拍子抜けしたような顔をした。
「……ああ、そう言ってたわね」
その他人事な様子に、ウォーレスはため息をついてお茶のカップに視線を落とした。
「でも、俺が想ってる人は、まだ報われない恋に囚われてるようだ」
「そうなの?」
と首を傾げる鈍感なリーアンナの顔をウォーレスはじっと見つめる。
それから呆れたようにもう一度ため息をついた。
もうずっとため息ばっかりだ。





