ふわふわ食パン、怒る。
いきなり到来した寒波に震えあがったある日、つぎはぎの目立つ年代物の半纏を羽織ってモーニングルーティンを完了した私は、ほっとひと息ついた。
今日はパートもお休みだし、久々にのんびりしようかな。そういえばいただき物のドリップコーヒーがあったはず…、そんな事を思いつつ猫におやつをあげていると。
ピンポーン!
もっとちょうだいとねだる猫たちの声に紛れて、インターフォンの音が聞こえてきた。
間もなく10時…、誰だこんなぼちぼち早い時間帯に。旦那の関係か?そういえば冬フェスの領収書が何とか言っていたような。
「はい…どちらさまで?」
ドアを開けると、やけに渋い顔をした…おじさん?同世代の男性が、ちょっとお値段が張りそうな北米模様のセーターを着こんで立っていらっしゃる。
…見た事ない人だなあ。あ、もしかして瀬木区の新しい区長さんかな?なんかガンコそうな人がなっちゃったって聞いたような気がする。
…グぬぬ…もしやまたもや旦那の失態を私がフォローするパターン?…ヤダなあ。
「ふん!!フワフワ食パンというものだが!!!」
げえ!!
また変なやつ、キタ———!
どうしてこうもうちにはめんどくさいのが次から次へと―――!!!
思わず呆然、いや…あきれ果てていると、パンの人が…玄関の中にずかずかと入って来て…腰を下ろした~!!
「…全く持って遺憾だ!!何事においてもゆるふわが信条であるわしの堪忍袋の緒が…ブチ切れたわ!」
「それはマジでスミマセン、ええと今回はどういったお怒りが…、気付いて無くて恐縮です、ごめんなさい、許してください…」
まずは怒れる凸民に謝り倒さねばなるまい。
ぼんやりつっ立っているだけで、この怒りが収まるとはとても思えない。
「ふん!!!どうせ盛大にやらかしても頭を下げればいいと思っているんだろう!!そういうところがいかんのだ!!まるで小麦粉を練ったあと焼き上がるんなら全部パンの仲間じゃないかとヘラヘラするカチンコチンのフランスパン連合軍やナン、饅頭および焼き組合、とるてぃいやーにペッタンコのクレープ連中と一緒だな!!フワフワ感が微塵も無いくせパンを名乗ろうとは失礼千万だというのに!!」
絶妙にこっちにかこつけて仲間の悪口を混ぜ込んでくるあたり、イースト菌やら砂糖やらレーズンやら日常的に一緒くたにして練ったり焼いたりされている小麦粉っぽいというか、なんというか。
「てんで気付けず申し訳ない事この上ございません…ええと、失礼ながらお聞かせください、具体的にどのような事象について、どういったお怒りが…」
おそるおそる、ゲンコツみたいにしわを寄せている顔をのぞき込んでみる…。
「この、この一本890円たるふわふわ食パンたるわしを、ここまで蔑ろにするとは…何事かっ!!今でこそ落ち着いてはいるが、わしはこれでも100人が焼き上がりを待ち望んで並んだこともある、そんじょそこらの88円で店頭に並ぶ安売り食パンとは格が違うのだぞ?!それを…朝からありがたがりもせず、ガツガツと喰らい…もうちょっと敬意を払ったらどうなのか!!」
そうですね、うちの家族はてんでありがたがりもせず、高い食パンをガツガツ食べましたね!!
七連勤が終わったから自分にごほうびをあげようと思ってお高いパンを一本買い込んだのに、「わ~い美味そうなパンみっけ♡」だの「あたしこれ食べよ!!」だの「おいしそうだね」だの言いながら、実に気軽に気さくに躊躇なく手をのばし、次から次へとトースターの中に投げ込んでさっさか食い尽くしにかかる食欲大暴走民がおりましたね?!人の分までガツガツ食らって、大枚はたいて買ってきて丁寧にパンに包丁を入れた私が一枚しか食べられないという惨劇もありましたね!!
そうだね、多くの人が一枚一枚丁寧にトースターの中にセッティングして柴犬色に焼き上がるのをしっかり待ち、そっと取り出して優しくバターを塗り付け感動に打ち震えながら一口一口美味さをしみじみ感じるなか、「まだ焼けてないけど食べちゃお!なんだあ、普通にウマいただの食パンじゃん!」だの「お父さんこれだったら半額の食パン10斤の方がいいかも~!やっぱ質より量だよね!」だの言ってたらそりゃ腹も立ちますよね。しみじみ息子が呟いた「おいしいパンだね」の一言も届きませんよね。次から次へと手が伸びるくらい美味いという事実もどっかに吹っ飛んでいっちゃいますよね!
「ああ、ええと…、ごめんなさい、あの、うちは基本的にほんと遠慮がないっていうか図々しいっていうか不躾っていうかデリカシーが無くて、食欲が暴走してさぷっと失敬な事を口にするタイプの人だらけで…。美味しいとは思ってるんです、でも腹が減ってそっちに集中できないっていうか!!ええと、以降気を付けます、許してください」
変にへそを曲げられて食パン御一行様のお偉いさんに密告されて、全パン民にそっぽを向かれてしまっては…困る!
うちは週に5斤はパンを消費するヘビーユーザーなのだ!
心から反省するオーラを放ちつつ、様子をうかがう…。
ちょっと表情がまろみを帯びてきたような気がしないでもないがどうだろう……。
この手の皆さんは感情を繊細に受け取るので、真摯に反省の態度を見せればそれなりに許してくれるパターンが多くてですね。
「…わしは、ふっくらサクサクのもちもちのふにゅんふにゅんになる気満々でおったのだ。焼き立てを食してもらうことが叶わず、それでも…自身の味には自信と誇りを持ち、トースター殿の力を借りて極上のウマさをお届けするつもり、満々で……」
とがり切った怒りが収まり、新たに悲しみのようなものがにじみ出してきた。
これは…一体?
「わしはな?!ふっくらサクサクのもちもちのふにゅんふにゅんになる気満々でおったのだ!!!トースターの中でこんがり焼けて、チン!と小気味よい音が鳴り、芳ばしい香りをトースター内およびキッチン全体に漂わせてだ!皿の上に移動する気満々で待ち構えておったというのに!!」
わあ!!!
なんかまた怒りが再燃したー!!!
これくらいの年代の人特有の、謎の怒りのぶり返し現象が!!!
人も食べ物も、そういう傾向が強いお年頃という事なのでしょうか…。これはへたに口出ししたら炎上する危険性!!…黙って聞いとこ。
「…いつまでたっても、わしはトースターの中から取り出されず。自慢の香りは消え失せ、サクサクの触感も、モッチリした柔らかさも、あっちんちんのちんちこちんの熱さえも…わしを見捨てて旅立ちおった…」
……。
この人、名古屋生まれかな…。買った店は名古屋近郊ではあるけれども…。
「わざわざフワフワ食パンと銘打っているのに…それを蔑ろにするとは不届き千万!!よくも…よくもわしの食べごろを見過ごしたな?!今なお一人さびしくトースターの中でかすかすに水分が飛びきった身を晒し続けるこの恨み、はらさでおくべきか!!うう、この無念ときたら…グスン、グスン」
いい年をしたおっさんが、泣いとるがな!!!
ポッケから食パン柄のハンカチを取り出して、ぐしゅぐしゅと拭っとるがな!!!
なんという感情の揺り幅だ、私もあと数年したらこんな感じになってしまうのだろうか…。
「それはごめんなさい、ええと…多分旦那が焼いて忘れてった?なんか娘もヤバイもう時間だとか言って飛び出していったから食べ切れなかった可能性…?息子はバターとか冷蔵庫にしまい込んでて気づかなかったかも、私は…旦那の全部食べたよという言葉を信じ込んで怒りマックスになってトースターの中を見る余裕すら生まれずにですね、ええと…スミマセン、今から食べます。そりゃあもう美味しく仕上げてウマイウマイと感動していただきますのでご安心ください」
一枚残っとったんかい!!
くっそー、焼き立てのウマい状態のやつ、食べ損ねたー!
「ホントだろうな!どうやって食うんだ、どううまく仕上げるというのだ!適当なごまかしをされては困る!」
「えっと、即席のコーンスープを作って、サイコロ状にカットしたパンの上にぶちまけて、チーズをふりかけてちょっと焼いていただこうと思います、めっちゃおいしいやつなので!!…あの、あなたはホントおいしいのでお気に入りでね?!ホクホクの焼き立ての時は千切って口に入れて至福を味わわせてもらってるし、サクッと焼いてトーストにするのはもちろんアレンジトーストにしたらまさに神なの、このあたりで一番おいしいフワフワ食パンであって、もう二年もずっとおいしく食べさせてもらっててね?!だからそのう…」
およそ二年前にご近所さんからおすそ分けしてもらったフワフワ食パン、そのあまりのウマさに、パンは値引き済みの安い食パンで十分という印象がぶっ飛んだ日を思い出す。
高いお値段のものはやはり値段に見合った美味さを兼ね備えているものなのだと、感心した瞬間が今でもありありと思い出せる。
一時期あれほど乱立した高級食パンのお店が閉店していく中、このフワフワ食パンは最後の希望であり、砦であり……。
「…ッ、わ、わしを美味いと言ってくれた言葉、キチンと食べてもらえるって…嬉しいキモチ、もらっていくでな!!ちゃんと美味しく仕上げてよ?!最後までおいしく食べてくれなきゃ許さないんだから!また買ってね?!今度は気を付けてよ?!ひどいことしたら…嫁と娘もつれてくるからね!!」
フワフワ食パンは、こんがりとした良いニオイを残して消えてしまった。
…そう言えば最近焼き立てのフワフワ食パンと遭遇していないなあ、ちょっとあとで見に行ってみようか。今日は時間もある事だし、ちょっと贅沢にはなるけど…今朝思いっきり食いっぱぐれてるから、たまにはいいでしょ。
確か焼き上がり時間は12:00だったな、干からびたトーストを美味しく食べてお散歩に行って、その帰りに寄ってこよ!!
脳内できょう一日のスケジュールを組み、玄関に背を向けた…その時!
コン、コン…
「……スミマセン、あの、ちょっと…お話を聞いてもらいたくて…、…です、…なので……、が…、…」
インターフォンを鳴らすことなく、いきなりドアの向こうで…一方的に何かしゃべり始めた人がいるんですけど?!
慌ててドアを開けると、なんかこう、赤と緑のかわいらしいコーディネートに身を包み、サンタ柄のトートバッグ片手に足元を見つめながらぶつぶつとつぶやいているお嬢さんが…、ねえ、ちょっと怖いんですけど。
「え、ええと、ごめんなさい、どちらのクリスマス関係の方ですかね??ツリー出してなくてすみません、ええと、プレゼント…」
「…あの、違います、私は…シュトーレンというものです。その…ごめんなさい、差し出がましいとは思うのですが、ぜひとも知っておいていただきたいことがあって、ぅ、うう……!!」
目に涙を浮かべている!!
これはもしや、先日美味そうなシュトーレンを買ってその日のうちに完食してしまった事を注意しに来たのか、それとも砂糖がしつこいなと言ってゴリゴリ削って食べたことに対する苦情なのか、はたまたこれっぽっちで3600円とか生クリームのケーキ並みじゃんと言ったことに傷ついてしまったのか…アカン、心当たりが多すぎて!!!
「スミマセン、ほんとごめんなさい、わざとじゃないんです、ホント申し訳ない、ええとね、あなたはもっとこう、湿っぽい感じじゃなくてさらっとしっとり美味しい感じの方が似合ってて―――!!!」
ねえ…、食材の皆さんの中で、訪問して苦情を申し立てるの、ブームになってんの…?
もしかして、うちにだったら色々言いたいことが言えるらしいって…噂になってたりする?
私は懸命に涙をこらえるお嬢さんの頭をなでつつ…、ほわっさふぉわっさと玄関先に落ちていく粉砂糖に目を向け、そっとため息をついたのだった。




