第九話 見えたものとこれから
『思い出した?』
あっ、と驚きがミモルの口から零れます。声に聞き覚えがあったからです。
靄の中からわき出るようにして現れた、オレンジ髪を棚引かせる背中に、確信を更に強めました。
「ネディエ、あの人だよ!」
その人物を起点にして空間は一気に色づき始めます。
草の濃淡の入り交じった緑が広がって原となり、丘が生まれ、眼下には木々の波が揺れる海が現れ――最後に音もなく一軒のちっぽけな家が建ち、世界が完成しました。
一度は消えたはずの互いの身も、今やはっきりと輪郭を取り戻しています。
間違いなくミモルが夢に見た光景でした。それも、比べものにならないほどにはっきりと、リアルな質感を伴って目の前に横たわっています。
始めに聞いた青年の声も、手が届きそうな距離で発せられているみたいで、幻だという事実を忘れてしまいそうなほどでした。
「ヴィーラ!」
男の視線の先に立つ女性の姿に気づき、ネディエが弾かれたように叫びます。
腰まで伸びた長髪と、雪を思わせる白い肌。左右で違う色の瞳。やや細見で儚げな印象を受ける女性……。
全てがミモルと以前会った時のまま、何一つとして変わってはいませんでした。
「良かった」
これまでどんな方法でも行方を掴めなかったヴィーラの無事な様子にひとまず安堵し、二人はそろそろと近付きます。
「お前、今まで一体……」
少女は言いかけて、すぐにそのオッドアイが自らを映さない事実を思い知り、悔しげに目を伏せました。
これが己の力が見せる映像でなければ、すぐにでも腕を掴んで連れ戻したでしょうに、息がかかりそうな距離にあることが、なんとも歯がゆい思いに駆られます。
『なんということを』
エルネアと同じくらい、人を惹き付ける美貌の持ち主であるヴィーラは、そのきめ細かな肌に似つかわしくない皺を刻み、呟きました。
伝わってくるのは困惑と嘆きです。ここにきて、ようやくミモル達は男を真正面から見据えました。
「こいつは……」
力ある、見つめる相手を貫く瞳でした。かつてミモルが共に王都へと旅したムイも、同じような鮮やかな髪と目の持ち主でしたが、この男から受ける印象は全く違います。
この感じ、前にどこかで。
何か、大きな決意を抱えているのでしょうか。大事な目的のためなら、他を犠牲に出来る人に見えました。
『どうしてそんな顔するのさ』
彼はヴィーラを安心させるように微笑んで、軽く首を傾げます。そんな仕草ひとつにも、背負うものの気配が漂っている気がします。
「お前は何者だ!」
痺れを切らし、ネディエが言い放ちました。彼女の心中を思えば、届かないと分かっていても糾弾せずにいられないのは当然です。
「何故ヴィーラを攫った? 私を、ハエルアを狙ってのことか。だったら」
「興味ないね」
『!』
空気が変わった、としか言えませんでした。頭で理解する前に体が「それ」を感じ取り、背中に違和感が走り抜けます。
ゆっくりと男の首が巡らされ、ある一点……ネディエで静止しました。
「な……」
ありえません。これは過去か現在か未来か、いずれにしても単なる幻に過ぎないのです。反応を示すなど、まして目線がかち合うなどあり得るはずがありません。
ざわっ! 強い風が互いの間を吹き抜けていったかと思うと、急速に景色が遠ざかります。真っ暗な穴倉に吸い込まれていきます。
「誰にも、渡さない」
遠くで小さく、女性が囁きました。
幻が完全に消えてしまい、元の部屋に意識が戻ってきたあとも、しばらくは今見たものを整理するので頭がいっぱいでした。
あまりにリアルで、聞こえていた葉擦れの音や濃い緑の香りが、耳や鼻にまだ残っているように思え、たくさんの手がかりを得た実感がありました。
たとえそれが、何から手を付けるべきかは分からないにしてもです。
「私達にも見えたわ」
エルネアが思案顔で言い、新しく仲間に加わったばかりのフェロルに目配せします。彼も視線を受け止めて軽く頷きました。
「彼は何者なのでしょうね」
「おーい、俺にも教えてほしぃんだけどー?」
「今話すからその緊張感のない喋り方はやめろ」
ネディエはそう前置きしてから、簡単にスフレイへの説明を済ませます。
隣で耳を傾けていたミモルには、彼女が口に出して伝える事で、自分の考えをまとめているようにも感じられました。
「おお~?」
ジェイレイだけは、無邪気に水晶を眺めたり指先でつついてみたりして遊んでいます。
悪魔だった彼女が現れてから、そろそろ丸一日が経とうとしていますが、その幼い姿に変化は見られません。
一度命を失いかけたショックで、記憶も力も無くしてしまったのでしょうか。
「あんまり騒いじゃ駄目だよ」
「はーい!」
ミモルが優しくと声をかければ、片手を上げて元気に返事をします。ポニーテールを忙しなく揺らしながらトテトテと歩き回る姿は、まるきり幼児そのものでした。
「……まずは目の前のことから取り組みましょう」
「そうだね」
いつ転ぶか、物を壊すか、とハラハラした目で追うミモルをエルネアが諭し、一通りの意思の疎通も終わったところで、5人はこれからについてあれこれと意見を交わし始めました。
◇◇◇
訪れた町――シュウォールドは、あらゆる分野の研究が盛んなところでした。
町の中央には小さな子どもが通う学校から専門の研究機関、広大な図書館までが集まった区画があります。
その周囲をこれまたあらゆる種類の店がぐるりと取り囲んでいて、更に外側に四角い民家が立ち並んでいました。
しかも驚いたことにそこで終わりではなく、今も東西南北でそれぞれに発展し続けており、未だ成長途中なのです。
何重にも重ねられた層のような作りに、まるで町の中にもう一つ町があるようでした。
「なんだか町が生きてるみたいだね」
ミモルは町の入り口から中央へと向かう途中でそんな感想を抱きました。
思わずインクの香りが漂ってきそうな、白いレンガ造りの町並み。
王都にも引けを取らない巨大な都市の建物は、中心へ向かうほど高く大きくなり、見上げる空も四角く切り取られています。
民家の通りが静かな分、店舗が並ぶ通りに入った途端、どっと人の声や気配が胸に飛び込んできました。
見たこともないようなフルーツの山から甘酸っぱい匂いがしたかと思えば、きらきらと光る宝石を眺めてうっとりする貴婦人達が目に入り、その脇を二頭立ての馬車が通り過ぎていった次の瞬間には、巻物状の上等そうな布を売ろうと声を張る商人に視線を吸い寄せられ……一息つく暇もありません。
「この通りを一巡したら、生活に必要なものが全て揃いそうですね」
「せっかくだから何か買って帰りましょうか」
フェロルが興味深げに言い、隣を行くエルネアも提案します。
可憐さと大人びた美しさを持ち合わせるエルネアの横に、憂いを含んだ瞳が印象的な美青年のフェロルが並ぶと、まるで一枚の絵画のようです。
実際、すれ違う人はもちろん、遠くでよそ事に勤しんでいた者でさえ呼吸を忘れて目を奪われています。
「見てあの二人」
「きれい」
「格好いい」
「王都から来た人かしら」
「……二人が交渉したら、何でも安く売って貰えそうだね」
後ろを歩くミモルが苦笑いしました。




