第八話 つよい決意
「ネディエ、やめて!」
青年の服の襟首を掴み、殺気立った瞳で睨み付ける友人にミモルが叫びました。
たとえネディエが立ち上がっても、多少見下ろす程度にしか目線が変わらないせいもあってか、スフレイはむしろ興味深げに受け止めています。
握りしめる拳がぎりぎりと震え、怒気を含んだ声もどこか揺れていました。
「失う物のないお前に、何がわかる」
「じゃあお前は、俺がなんで何も持たないのか分かるか? ――お前みたいな偉そうな顔した奴らが、全部奪ったからだぜ」
何の感情も読み取れない無機質なセリフに、ネディエの「え」という驚きがやけに大きく返ります。
「人間が一人きりで生まれるわけがねぇってことくらい、コドモじゃないなら解るだろ」
一人で生きてきた彼には、確かな記憶なんてものはありません。
いつの間にか、廃屋や軒下で雨をやり過ごし、誰にも気付かれずに食べ物を盗む方法を身に付けていました。
けれどこの塔で雇われて、生まれて初めて衣食住に困らない生活を手に入れ、自然と考える時間が増えると、今まで直視する間もなかったあれこれが意識の向こう側から顔を出し始めたのです。
「親がいて家があったはずだとか、だったら周りの奴らとのしがらみもあったんじゃねぇかとか。俺にも……『居場所』があったはずだとな」
今更出生について調べる気は毛頭無いと彼は言い、硬直して言葉もないネディエに、面倒臭そうに続けます。
「そりゃ、他人より大事だろうよ。俺みたいな人間から奪って得た『居場所』だもんな」
「私は」
するりと手が布の上を滑り、力なく垂れ下がりました。悔しげに歪めた顔からは迷いが痛烈に伝わってきます。
それきり二人とも黙ってしまい、沈んだ空気が室内に落ちました。言うべき言葉を失ってそれぞれの視線が彷徨う中、重苦しい静寂を破ったのは良く通った声です。
「もう、二人とも」
眉を寄せて困ったように言い放つミモルに、全員が吸い寄せられました。
「スフレイ。私だって本当の家族なんて知らないし、育ててくれた人も一緒に育ったダリアもいなくなって、エルがいてくれなきゃ生きていけないけど……誰かに取られたなんて思わないよ」
「へぇ?」
語尾を軽く上げ、お手並み拝見というスタンスで耳を傾けるスフレイとは対照的に、ネディエは何を言われるのか不安に駆られた瞳で見つめてきます。
「そりゃあ、何も知らなかった頃は、羨ましく感じたこともあったよ?」
綺麗な服を着て、ご馳走を食べられて、何も不自由のない暮らしができる……。毎日をやっとの思いで生きている人からすれば夢のような生活です。
でも、ネディエやティスト――自分にはない「地位」という重荷を背負った友人達と出会って、ミモルは知りました。
金や物や、多くの財産を持つ人間は、同じだけ責任を負い、自分以外の大勢の生活や命を抱え込んでいることを。
「それこそ、他人から奪って得た力だ」
「最初はそうだったとしても、最後には押し付けたんだよ」
ネディエがはっと息をのみます。
「自分の代わりに世の中について考えてくれる誰かを求めて、安全や安心が欲しくて……『これだけあげるから、あとはよろしく』って。 スフレイはそれが欲しいの?」
「要るか、そんな面倒臭ェもん」
少女は青年にくすっと笑いかけ、友人に目を移しました。
「ネディエ。スフレイが最初に何て言ったのか、忘れた?」
「最初……?」
すぐに「あ」と声が零れます。深い悩みに取りつかれて思考を停止させかけていたネディエに、スフレイはこう言ったのです。
「いっつもお前は小難しく考えすぎなんじゃねーの」
と。カッときて掴みかかり、問い質そうとしたから諍いに発展してしまいましたが、彼の考えは決して暴論ではありませんでした。
平民なら、考えて当然の内容を口にしただけです。
「言い方が挑発的過ぎるのよ」
「生まれつきだ」
呆れ顔で言うエルネアに、スフレイはそっけなく返します。ここまで彼女が話の腰を折らなかったのは、真意を感じ取っていたからでしょう。
「じゃあ……」
ネディエはびっくりして、目をしばたたかせました。
まさか、いつもくだらない言い合いばかりしている彼が、思慮深く行動しようと努める自分の姿を見て、「こんな時くらいは考えるより動け」と励ましたかったのだとは……思いもよらなかったのです。
「ね?」
ミモルが微笑みかけました。様々な思いが去来して混乱していた頭が、その笑みですっきりと冴え渡っていきます。
立場や名誉などと難しく考える必要などありません。初めから答えは決まっていて、ただ真っ直ぐに手を伸ばして選び取るだけで良かったのです。
「……あぁ」
ネディエは憑き物が落ちたような心地で破顔しました。
全員が息をのみ、透き通った丸い玉を覗き込みました。やっと起きてきたジェイレイも、目を輝かせながら何が起こるのかと見守っています。
「こんなに近くで占っているところを見るの、初めてだよ」
ミモルがドキドキしながら言うと、ネディエは手をかざしながら「単純に見たいものが映るわけじゃない」と苦笑しました。
そんなに熱心な視線を送っても無意味だというのです。
「そうなの?」
物語の中の占い師は、水晶を深く覗き込んで何かをぶつぶつ言うと、お告げのような不思議な言葉で未来を知らせます。
ミモルもてっきり、透明な玉の奧に未来が映し出されるのだと思っていました。
「確かに魔の力は秘めている。でも、水晶もカードも集中力を高める道具に過ぎない。視るのはあくまで術者の能力なんだ」
現在、最もその能力に長けているのは、ネディエの叔母でありハエルアの領主でもあるルシアです。
その彼女でさえ、未だにヴィーラの行方は掴めていません。だからこそネディエも試みるのを恐れていたわけですが、今の彼女からは迷いがきれいに消えていました。
「もう見えないかもしれない、なんて下らないことは口にしない。見えるまで粘って、意地でもヴィーラを見つけてやる」
「私も手伝うよ、頑張ろう」
瞑想ともいうべき集中に入ろうとする友人に、ミモルも水晶に手を伸ばしながら微笑みかけます。
先見の基礎も知らない素人に何が出来るかは分からないけれど、ただ傍にいてあげたいと思ったのでした。
少女の決意のなせる技か、手助けがあったからでしょうか。その瞬間は意外にもすぐに訪れました。
水晶玉を覗いていたはずが、いつの間にか周囲にミルク色の世界が広がり始めたのです。
「ネディエ?」
「静かに」
思わず声をかけると、ネディエの静かで鋭い警告が返ってきました。すぐ隣にいると思われる彼女の姿も、雲の中にいるみたいにおぼろげで、全く同じ感覚にとらわれていることが察せられます。
『眠らずに夢を見ているみたい』
『あながち違うとも言い切れないでしょうね』
密かに手を貸してくれていたらしいリーセンの声が、いつも以上に近くで響きます。
たとえるなら、何もない場所にふわりと降り立つ感覚、夢へ落ちる時のまどろみ。
数秒か数分か、時間の流れが曖昧に感じられ始めた頃、唐突にそれは始まりました。




