第六話 まっさらな幼子
「純粋な悪魔じゃない?」
『あたしも本物の悪魔になるんだっ!』
あの時は応戦するので手一杯で意味を推測する暇もありませんでしたが、悲壮感すら漂わせた叫びはまだ耳の奥に残っています。
翼ある少女は何を求めていたのでしょうか。
「神々の御言葉によれば、この子は数百年前にエルネアさん達が倒した悪魔の娘のようなのです」
「そんな」
もっともショックを受けたのはエルネアらしく、ぽつりと言ったきり続きが言葉になりません。代わりに質問したのはミモルでした。
「悪魔の子どもで、純粋じゃないってことは……。この子の親は、もしかして人間なの?」
フェロルは「僕が教えられたことが事実なら」と前置きして、一呼吸入れるようにミモルの腕に抱かれた少女に目を落とします。
「先だっての一件と、ほぼ同じだったと聞いています」
それはつまり、ミモルが遭遇した悪魔・マカラと同じ事件が起こったということでしょうか?
「おいおい何の話だ? 俺だけほったらかしかよ」
過去を知らず、置いてけぼりをくっていたスフレイが三人を見ながら、位置がずれたままのソファに腰を落として頬杖をつきます。
「別に何もかも知りたいなんて面倒臭ェことは言いやしないけどよ。自分だけ蚊帳の外ってのも癪にさわるぜ」
僕にも、と同調したのは意外にもフェロルでした。
「耳にしたのはあらましだけですから。出来れば詳細をお聞きしたいのですが」
甲高い足音に顔を上げれば、ネディエが息を弾ませながら戻ってきたところで、ミモルは無言のまま頷きました。
「もう1年以上も前になるんだね……」
少女を抱えたままソファに腰掛け、柔らかな寝息を立てて上下する頭を撫でます。目覚める様子のないその姿は安らかで、襲ってきた敵と同一人物とはとても思えません。
何かあってはいけないとエルネアが引き受けようとしたのですが、ミモルは静かに首を振りました。なんだか寂しそうで、こうしてあげたい気持ちになったのです。
長い、長い話でした。かい摘んで説明しようとしたものの、それでは二人とも要領を得ないだろうと、彼女は発端から語り始めます。
自分を育ててくれた養母と、実の姉妹のように育ったダリアのこと。
悪魔をこの世に呼び込んでしまったこと。
エルネアとの出会い、旅立ち、精霊との契約。途上で知ったマカラの想い。
ざっと話してしまうには余りに沢山で、ミモルもまるでお伽噺でもしているみたいに思えました。
いきさつを知るネディエにも初めて聞く内容があり、無言で耳を傾けます。
共に駆け抜けたエルネアでさえ、あの時はそんなことを考えていたのかと目を見張る場面もありました。
「マカラは、一人ぼっちで部屋に閉じこもっていたニズムのために、色々なものや景色を見せて、大好きな本を集めてくるのが何より幸せだったの」
でも、彼女は知っていました。ずっと一緒には居られないことを。
「時々思うんだ。たとえニズムが死んじゃっても、思い出を大切にしていけてたら、マカラは悪魔にならなかったんじゃないか、って」
主が天寿を全うした時、天使はその魂を天へ導きます。新たな次なる命へと転生させるためです。
そして魂を見届けた天使は、主に関する一切の記憶を失って、次に召喚される日まで天で待ち続けることになります。
「大好きだった人を、気持ちごと『無かったこと』にしちゃうなんて耐えられなかったんだよ」
思い出して懐かしむことも、来世の幸せを願うことも、まして嘆く権利さえありません。
まるで最初から何もなかったみたいに新しい相手に仕え、微笑みかける自分を想像した瞬間、彼女の心は真っ黒に染まってしまったのでしょう。
私もそんなふうに忘れてしまったのねと、エルネアが呟きました。
「ニズムが言わなかったら、『チェク』という名前さえ、思い出さなかったと思うわ」
彼女のかつての主だった女性・チェク。今となってはどんな顔で笑い、どんな声で自分を呼んだのかも、全て霞の向こうです。
複雑な表情のエルネアにどう声をかけていいか戸惑ったミモルは、彷徨わせた目をフェロルで止めました。指先で眉根に触れる仕草が、なんだか辛そうに見えます。
「どうかしたの?」
「いえ、少し疲れただけです。それより、ミモル様の方が」
「私? そういえば……」
疲れを自覚した途端、体がだるさを訴えました。「そうだわ」と言ってエルネアが立ち上がり、心配そうに少女を覗きこみます。
「フェロルを召喚したのだもの。私達二人を支えるために、負担に慣れるまでは体が重いはずよ」
確かに初めてエルネアを喚んだ時も、数日間は全身に力が入らず、意識も薄かったのを思い出しました。腕の中の赤毛の子どもを今度こそエルネアに託します。
「でも、一刻も早くヴィーラを探さなきゃ」
行方知れずになってから、かなりの時間が経っています。これ以上は少しの時間も無駄には出来ないはずでした。けれどネディエは苦笑して「休め」と諭します。
「お前が倒れたら私がヴィーラに叱られる。それに、手掛かりが出来たからな」
消えた天使と襲ってきた悪魔。二つの出来事が全くの偶然だとは思えません。スフレイも「だろうな」と同意しました。
「コイツが犯人か、でなきゃ仲間か。無関係だったら表彰モンの確率だぜ」
それは小さく抑えた声でしたが、自分が話題にされていることを知ってか、赤毛の少女の睫毛が小刻みに震えました。
息をふっと吸い込む音が全員の口から漏れ出ます。今し方の騒ぎを思えば、緊張感を含んでいたのも無理はありません。
「……」
円らで美しい、鮮やかな赤い瞳が現れ――覗き込んだミモルのそれとぶつかります。
宝石のようなそこには何の感情も浮かんでおらず、短い間、互いはじっと見つめ合いました。
「ま……」
幼子の小さな唇から発せられる声に、先程までの刺々しさはありません。かと思うと、小首を傾げて言いました。
「ママ?」
「え、えぇと……?」
全員が呆気に取られて、目の前の光景を見つめました。目の前の小さな女の子がミモルの膝にちょこんとおさまってニコニコしている光景を、です。
もちろん、当のミモルも困惑しきった表情でした。起きるなり「ママ」と呼んできて懐かれれば、誰だってこういう顔になるでしょう。
「あなた、名前は?」
とりあえず攻撃の意志はないと判断し、エルネアが腰をかがめて訊ねると、少女はにっこり笑って元気な声で「ジェイレイ!」と返事をしました。
「そう。私はエルネア。エルって呼んでね、ジェイレイ」
「エルお姉ちゃん!」
えへへと嬉しそうにはにかむ顔につられながらも、名前に聞き覚えはないと首を振ってから次の質問をします。
「ジェイレイはどこから来たのかしら?」
膝に座って見上げてくる女の子――ジェイレイはきょとんとして小首を傾げました。その仕草はまるで質問の意味が分からないといった風に見えます。
「外から来たでしょう? 何か覚えていることはない?」
「う~んとねぇ」
小さいなりに一生懸命考える素振りを見せて、ジェイレイは言いました。
「ここでねてて、おきたらママがいたの」
「その前のことは?」
「?」
薔薇を思わせる唇とは対照的に、興味津々に覗き込む赤い瞳はくりくりと大きくて、見る物全てを飲み込まんばかりです。
襲ってきた時は全身の毛を逆立てた猛獣であった悪魔は、今は尻尾のような髪型も相まって、生まれたばかりの仔犬を彷彿とさせます。
『……』
全員、無言でお互いの視線を絡めあうしかありませんでした。




