第二話 話さないわけ
「これ、夢……?」
見慣れた暗闇が世界を包んでいます。ミモルは、その闇に溶けるような黒髪を揺らして、周囲に視線を巡らせました。
と言っても、そうと分かるのは首を振った感覚があるからに過ぎません。不思議と恐れは芽生えず、それどころかどこか懐かしささえ感じました。
『……』
「エル?」
誰かに呼ばれた気がして、馴染んだ名前を問い返すと、何故ここで安心感を覚えるのか分かった気がしました。
『……』
聞き間違いではありません。また声にはならない、息遣いのようなものが耳を掠めると、呼びかけてくる相手がパートナーでないことも理解しました。
彼女の声ならもっとはっきりと聞こえてくるはずだからです。
「リーセン、いる?」
「いるわよ」
名を告げて手を差し出すと、ミモルに似た、けれどやや低い声が聞こえて優しく握り返す感覚が生まれました。
リーセンと呼ばれた少女は、子どもをあやすように指先に力を込めました。
「ねぇ、ここって夢の中だよね?」
「『扉』のすぐ近くなのは確かね」
扉とは、ミモルの精神に宿る天との繋がりのことです。素養のあるものだけが持ち、開くことで様々な力を引き出すことが出来ます。
「どうして真っ暗なんだろう」
一度開かれた扉は、使う必要がなく閉じられている間も絶えず光を放ちます。
ミモルの心の内も真っ白に塗り替えられ、今はリーセンの住処になっているはずでした。それが何故か再び闇に浸食されています。
「こう暗くちゃ、気分が沈むじゃないの」
「そう言われてもなぁ……うーん」
『ミ……』
おぼろげだった声に輪郭が現れ始めました。
「近いわね」
こっくりと頷いてさらに耳を澄まそうとした途端、別の何かに引き寄せられる感覚に襲われ、目が覚めたのでした。
「誰かに呼ばれた?」
うん、とミモルは応えて、広がる景色を眺めます。爽やかな風が吹き、草花は通りかかる雲の影を映しています。
牛や馬が草を食む牧草地帯を抜ける道は行き交う人もまばらで、なんとも心地よい雰囲気でした。
三人は簡単な荷物だけを背負い、散歩でも楽しむように歩きます。ネディエに会いに行こうと言い出したのも、こうして徒歩の旅を選んだのもミモルでした。
「エルじゃないよね?」
「違うわ」
怪訝そうに言って、エルネアは考え込みます。
家にいようと、遠くへ出掛けようと変わらない彼女のワンピース姿は、その美貌もあって時折すれ違う人の視線をさらいます。
ただ、じろじろと眺めまわせる剛の者は滅多にいないらしく、誰もが目を泳がせるのでした。スフレイが呆れた声をあげます。
「お前ら暇人だな。飛んでいけば一日かからないんだろ? なんでわざわざ歩いていくんだよ」
帰るついでに同行者となった彼には、ミモルの決定が不思議でたまりませんでした。
傷も癒え、本来の力と姿を取り戻したエルネアの翼にミモルの風が合わされば、かなりのスピードが出せます。
前に何日もかけて進んだハエルアまでの行程も、ものの数時間で辿りつけるのです。少女は笑って、重みでずれてきた荷物を背負い直しました。
「たまにはいいじゃない。それに、スフレイだって付き合ってくれてるし」
彼の人間離れした脚力が生み出すのは並の速さではありません。どこかの軍に入って斥候にでもなれば出世間違いなしでしょう。
「ふん、俺は急いで帰るのが嫌なだけだ」
苦々しげに鼻を鳴らしてそっぽを向く仕草がおかしくて、女性二人は密かに微笑み交わします。
「でも、夕方になったら急ぎましょうね」
昼間は暖かいとはいえ、朝晩の冷え込みは無視できません。急ぐ旅でもないものの、かといって野宿をするわけにもいかないのです。
ミモルは以前の旅で優しくもてなしてくれた宿屋のおかみさんの顔を思い出し、元気にしているだろうかと思いました。
ハエルアに着いたのは翌日の昼を過ぎた頃合いでした。立ち並ぶ商店は以前にも増して賑やかで、店を覗く人も呼び込む商人の顔も生き生きとしています。
そして今も街の中央には高々と、人々を見守るように塔が聳え立っていました。
とても堂々として見え、領主の乱心によって一時は傾くのではないかと思われた不安が消えているのを感じます。
「一年足らずでここまで回復させるなんて凄いわね」
「前はそんなにヤバかったのか?」
当時を知らないスフレイが頷き返します。彼にしてみれば、ネディエも妙齢の領主ルシアも、人使いの荒さでは大差がない、程度の認識しかないようでした。
「ルシアは自分よりずっと才能のあったお姉さんを失って、心を病んでしまっていたのよ」
ハエルアの領主には、余所の土地にはないものが二つあります。一つは見上げれば首が痛くなるほどの高い塔、もう一つは先見の力です。
「占いの街」とも呼ばれるハエルアでは、露店に連なってそこかしこに怪しげな雰囲気の店があり、多くの客が幸せを掴みに訪れます。
中でも群を抜いた実力者が領主一族であり、更にその一族の中でも最も優れていたのがネディエの母・ミハイでした。
「何でもピタリと言い当てたんだろ?」
「天候から、人の寿命までね」
ミハイは透き通った水晶を覗いては、あらゆる未来を予見してみせたといいます。
『懸命だったのは、全てを語らなかったこと』
とは、ネディエのパートナー・ヴィーラの科白です。エルネアと旧知の仲でもある彼女は、亡くなった主の母親について寂しげにもらしていました。
二人の会話に黙って耳を傾けていたミモルが塔を眺めて呟きます。
「分かる気がするな。人は理解できないものが怖いから」
知りえないものを知り、見えないものを見るのが「先見の力」です。恐ろしいものを避けられる能力だからこそ、人々は我先にと求めます。
けれど、好意的に受け入れられるのは一定の範囲の中での話です。その枠からはみ出れば、たちまち恐怖の対象へと変わってしまいます。
「もしかしたら、街の人たちは怖いから塔に閉じ込めているのかも……」
別に、塔から出られないわけではありません。でも、その考えに捉われて見詰めると、街を支える木の幹のような塔が冷たく感じられるのも事実でした。
「ミモルちゃん……」
「で、その凄腕の占い師は、なんで死んだんだ?」
感傷には浸りたくないとばかりに、青年はいたってドライな口調で問いかけます。
「さすがに家族に聞くのは気が引けるし、使用人は『わたくしどもの口に出来ることではございません』とか言いやがるしな」
彼のことですから脅しに近い態度だったのかもしれませんが、どうやら誰も屈しなかったようです。
「無理もないでしょうね。言うべき言葉がなかったのだと思うわ。公には病死になっているらしいけど」
エルネアは努めて冷静に答えました。内容が内容だけに、雑踏の中でかき消えそうな密やかさです。含みのある言い方に、スフレイの片方の眉がつり上がります。
遠回しを好まない彼は不快感をあらわにしつつも、途中で遮ろうとはしませんでした。
「ネディエを狙って悪魔が現れたの。ヴィーラは必死に応戦した。なんとか撃退できたものの、深い傷を負ってしまって」
あまりに突然の襲撃でした。主人を、身を挺して守るのが精一杯で、うまく立ち回るどころではなかったと語っていました。
「鋭い爪に裂かれて息をするのもやっとの有様で、ヴィーラは消えていくのを覚悟した時に……」
天使に死はありません。召喚された瞬間からその恩恵を受けて具現化し続け、体を保てなくなれば天に戻されます。
それは同時に現世の主との永遠の別れも意味しましたが、ヴィーラは今も変わらずにネディエに仕えています。
結論まで聞かずとも、スフレイには出来事の顛末が飲み込めました。
重傷を負った天使と、死の本当の理由を明らかに出来ない母親。この二つだけで十分想像がついたのです。
「なるほどな。そりゃあ、誰も語らないわけだ」




