第一話 意外なはいたつにん
人里はなれた森の奥。
そこでは自然のままの木々や草花が伸び、重なり、絡まりあって共存しています。
太く成長した幹に阻まれ、よほど覗き込まないと見付けられないところにささやかな水場がありました。
小さな動物から、肉食の獣までがのどを潤しにやってくる憩いの空間です。
ぴちょん、ぴちゃっと水音がはねます。
おかしいのは、今はその水場にはどんな小さな生き物も訪れてはいないということでした。
ぷくぷくと、今度は水底から泡が生まれて弾けます。
森は静まり返っています。まるで、事の成り行きを、固唾を呑んで見守っているかのように。
ざばっ! とうとう、大きな飛沫と共に、「それ」は姿を現しました。
目にも眩しい色の髪を振って、傷一つない自分の体を確かめると、紅い唇から「ふふ」と声が漏れます。
自らの姿に満足した「それ」は、水辺から上がってしっとりと濡れた長い髪を絞りました。他愛ないそんな動作さえ、心の底から楽しそうです。
「これでやっと迎えにいけるよ、――」
やがて、笑みの形を崩さぬまま、ぽつりと呟きました。次いで囁かれた名前を聞く者はいませんでした。
◇◇◇
「あれ……」
「おはよう。今日は随分とお寝坊さんなのね」
まだぼんやりとした意識で目を擦ると、美しい女性がこちらを覗き込んでいます。
輝くばかりの金の髪に良く映える、吸い込まれそうな青い瞳は責めるでもなく、柔らかな微笑みで見詰めてきました。
「……おはよう、エル」
誰かに呼ばれた気がして目が覚めたのですが、どうやら彼女――エルネアに起こされようです。
外を見ると、開かれたカーテンから光を運ぶ朝日は、もうかなり高い位置にまで昇っていました。
「ごめん、こんな時間まで」
いつもならとっくに目を覚まし、朝食を終えている頃合いです。
漆黒の髪を揺らす細身の少女――ミモルがこんなにも遅くまで眠っていたのも、エルネアに起こされるのも珍しいことでした。
慌ててベッドから這い出そうとすると、エルネアは首を振り、憤りの代わりに心配そうな表情を作ります。
綺麗に揃えられた眉毛の一本一本までが見分けられそうな距離です。
「あんまり起きてこないから声をかけたけど、まだ眠いなら寝ていてもいいのよ?」
「ううん」
優しい提案に、ミモルはそう応えてベッドから足をおろしました。
「お腹すいちゃったから、もう起きるよ」
「そう。じゃあすぐに支度するわね」
笑顔に戻ったエルネアがパタパタとスリッパを鳴らして台所へ向かうと、すぐに朝食を準備しているらしき音が聞こえてきます。
それを耳にしながら着替えつつ、少女はふと思いました。もしも親ならば、寝坊したあげくに遅めの食事を頼めば「わがまま言って」と叱られるだろう、と。
貧しい村では皆生きる為に必死で働き、合間を縫うように子どもの面倒を見ます。
子どもが労働に駆り出されることも珍しくなく、そこに余計な時間などは皆無です。食事抜きで畑や店先に追いやられることでしょう。
「けど、エルは私のことほとんど叱らないな」
ごく少ない注意の機会さえ、柔らかく包み込むように優しい調子です。
エルネアが激昂と無縁でないのはよく知っています。二度、森の外へと飛び出した旅では、視線で相手を射抜くほどの怒りをたぎらせた姿を目撃しました。
ただ、その片鱗さえ、少女には向けられないだけです。
「私がご主人様だからだよね」
自分なりの結論を口にしてみます。そう、二人は姉妹でもなく、まして親子でもありません。地上に遣わされた天使と、その主でした。
朝食の席で先ほどの夢について話をしようと思っていると、珍しい客がたずねてきました。
歳は二十代前半といったところでしょうか。肩にかかりそうなところで適当に切って短くしたような髪型に、身だしなみなど気にもしていない風の軽装の男です。
「ったく。ほらよ」
彼は家に入るなりキッチンの椅子の一つを占領し、重苦しい息を吐き出しました。それからズボンのポケットからしわの寄った白い封書を差し出します。
「ありがとう、スフレイ」
ミモルは礼と共に彼の名を呼び、封筒を両手でそっと受け取りました。
女性二人だけで暮らすこの家には些か不似合いなこの男・スフレイは、以前はミモル達とは敵同士の間柄でした。
筋肉質な体には、かつて天から追い落とされた神の血が流れ、普通の人間にはありえない力を宿しています。
そんな事情を知らずとも彼を見て振り向く者が多いのは、右目を上下に走るように付いた傷跡と、纏う雰囲気のせいでしょう。
どちらも、とても明るい世界に生きる人間とは思えません。
「居心地はどう?」
「分かってる質問すんなよ」
エルネアがテーブルに紅茶のカップを置きながら問いかけると、間髪入れずに舌打ちが返ってきます。
「なぁミモル。あの女、なんとかなんねぇのかよ」
「ネディエのこと?」
「あの女」でピンと来たのは、こうしてたまに彼が訪れるたびに、愚痴を零していくからでした。
ネディエはミモルと同い年の少女で、ハエルアという町の領主の姪にあたります。悪魔との戦いで旅をしていた途中に知り合い、友人になりました。
闊達な性格で武術の心得を持ち、強い信念が込められた瞳が印象的な少女です。召喚した天使・ヴィーラと共に次期領主となるべく、日夜勉強に励んでいます。
朝食に出されたパンをかじりながら、ミモルは首を傾げました。
「また何かあったの?」
「ネディエはとっても真面目で良い子だと思うわよ?」
エルネアも同調した意見を述べますが、そんなフォローは耳に入れたくもないとばかりに、スフレイはむっつりと渋面を作ります。
苦虫をかみつぶしたよう、とはこういう顔のことだろうとミモルは思いました。
「あいつ、俺を雑用係とカン違いしてンだよ。やれ『荷物を運べ』だの『届け物をしろ』だの。朝から晩までコキ使いやがって」
「そんなこと言って、ちゃんとお仕事してるじゃない」
「この手紙だって、持ってきてくれたし」
口々に反論されるも、「ここに来ると休めるからだ」と吐き出し、香りも楽しまずにぐいと紅茶をあおります。
仲間に裏切られて目的を見失っていたスフレイにミモルは紹介状を渡し、ネディエのところへ行くよう仕向けました。
友人がこの常識知らずをどう扱うかは予測できませんでしたが、ミモルの意を汲んでうまく取り計らってくれたようです。
住む場所と食べ物を与える代わりに、仕事をさせているのでしょう。「雑用係」はあながち間違いでもないというわけです。
「なんだか似た者同士みたいね」
ふくれっ面で文句を言う姿に、エルネアが珍しくカラカラと笑います。言われてみれば、口が悪いところや意地っ張りなところがソックリでした。
「ネディエ、元気にしてる?」
「元気過ぎて困るくらいだぜ。ちっとは風邪でもひけばいいのによ」
文句を言いつつ、ただの皮肉に過ぎないことがその口調から判ります。なんだかんだと悪態をついても、ハエルアを去らないのがその証拠です。
スフレイの性格からして、大人しい相手より余程張り合いがあって楽しいのかもしれません。
「そっか。会いたいな」
封を切って手紙を取り出すと、彼女らしいビシッとした文字が目に飛び込んできます。並ぶ言葉はこちらの気持ちが分かっているみたいに、すっと胸に落ちるものでした。
第三部でこのお話は一区切りの予定です。
更新ペースが多少ゆっくりになるかもしれませんが、お付き合い頂けると嬉しいです。




