第八話 ぎんの髪の少年
「……はっ」
あんなに長かった地上との距離も、ずっと近くに感じられます。
呼吸に困っていたわけでもないのに、水面に顔を出すと条件反射的に吸い込みました。月明かりが眩しく、すぐには目が慣れません。
「ミモルちゃん!」
階段を上るように、水面に足を突き出します。今や、何の手助けもなしに、泉の上に立てるようになっていました。
呼ばれた方を見れば、予想とは全く違った状況になっています。エルネアが駆けつけて、陸へ戻ろうとするミモルを抱き留めました。
「大丈夫?」
「え、誰……?」
ミモルが驚いたのも無理はありません。すでにどこにも悪魔の姿はなく、代わりに天使の後ろへ銀髪の少年が立っていたのですから。
ミモルよりも僅かに年上に思われましたが、それはいくらか高い背丈のためではなく、物腰や雰囲気から感じられることでした。
彼の髪と同じ銀の色をした瞳が、眼鏡の奥で優しく微笑んでいます。
近づくほどに木々の陰からはっきりと現れる姿は、白くゆったりとした服を纏っているためか、全身で月の光を受けとめているかのようでした。
「僕はニズム。よろしく」
「この子が助けてくれたのよ」
「……どういうこと?」
ニズムと名乗った少年から差し出された手を、呆けたまま握りかえしながら、ミモルはエルネアに視線を投げかけます。
「マカラは、近付いてくるニズムの気配を感じて去っていってしまったの。邪魔が入るのが嫌だったみたい」
あれほど自信に満ち、二人を殺してしまおうと襲ってきたマカラにしては腑に落ちない話でした。けれども、それ以上に意外だったのはニズムが通りがかった理由です。
彼は、散歩の途中で騒ぎを聞きつけ、見に来たのだというのです。
「こんな森の奧まで散歩?」
怪訝な表情で問いかければ、「変に思われても仕方ないね」と笑って、言いました。
「近くに一人で住んでるんだ。そうだ、良かったら寄っていって。もう夜も暗いし……色々と聞きたいこともあるしね」
二人は躊躇いましたが、恩人を疑ってこのまま去ることにも気が引けます。結局、ニズムの家へとお邪魔することにしました。
「よく通るから、ちょっとした道になっちゃってね。森で迷った人が見付けて、僕の家に辿り着くなんてこともあるんだ」
月明かりの下、獣道のように細いそれは白く浮き上がって見えます。よく観察してみると、大地が踏み均されて地肌が露わになっているからでした。
歳が近いこともあってか、ニズムはすぐに親しげな口調で話しかけてきます。先を危なげなく歩いて案内する声音は、こちらの不安を取り除こうとしているように聞こえました。
「森に慣れてるのかな」
「え? どうして」
急に言い当てられ、ミモルはぎくりとします。振り返った彼の目に、全て見抜かれている気がしました。
緊張感が伝わったのか、その瞳が細められ、微笑みの形に変わります。
「町に住んでいる女の子なら、このペースは速いのじゃないかなと思って」
「……私の家も、森の中にあったから」
「そう。あ、あそこだよ」
木々の間に隠れるようにして建つその家は、ミモルが今よりずっと幼かった頃、ルアナが聞かせてくれた昔語りからそのまま出てきたようでした。
町に並ぶしっかりとした造りの建物と比べると、素朴な木造建ての一軒家は、周りの風景に溶け込んでいて温かみを感じます。
「入って。いま明かりをつけるね」
足元を確かめながら階段を三つほどあがって扉を開きます。今しがたまで火を焚いていたとみえて、ほんのりとした温もりが室内に残っていました。
天井から吊り下げられたランプに火を灯すと、その下にあった大きな木のテーブルを中心に、部屋が見渡せるほどには明るくなります。
「可愛いおうちだね」
「そう? ありがとう」
三人が入室したところで、夜の冷気から逃げるように入り口を閉じ、そちらにかけられたランプにも火をつけます。
料理場にも同じようにして最後に暖炉に熱をともすと、ぐっと視界が広がりました。どうやら奥にもう一部屋あるようです。寝室でしょうか。
「どうぞ」と椅子を勧められ、ミモルはエルネアと隣り合って座りました。
ここに着くまでに、驚いたことに彼が一人暮らしだと聞いていたので、余分な椅子があるのは不思議に思えます。
疑問を口にすると、「時々お客が来るから」という応えが返ってきました。エルネアが言います。
「そういえば、森で迷った人が来るって言っていたものね」
「うん。この森はそれほど深くはないけど、似たような場所も多いし、慣れないと混乱するからね」
ニズムは暖かい紅茶を振舞ってくれました。口元へ近づければ、明るい色のお茶からはふわりと花のような甘い香りがします。
「良い匂い。……うん、美味しい」
「気に入ってもらえたみたいで良かった」
向かいにもう一脚ある椅子に腰をおろしたニズムが、テーブル上のミルク壺と、黒い角砂糖を載せた皿とを差し出してくれます。
ストレートも美味しいのですが、ミモルはミルクティーでも味わいたいと、どちらもそれぞれ少量ずつ貰いました。
四角い砂糖をスプーンの先でつつき、溶けていくのを眺めるのは心地良い気分です。
「紅茶、好き?」
「うん。いろんな香りや味がするのが楽しいよね」
お茶請けに添えられたクッキーにも手を伸ばします。かりっとしたこの食感は手作りでしょうか。控えめの甘さが紅茶によく合いました。
隣では、エルネアがその様子を暖かい眼差しで見ています。
「エルネアさんもクッキーをどうぞ」
「……いえ、せっかくで悪いけど私は遠慮するわ。紅茶はありがたくいただくわね」
はっとして、ニズムは差し出した手を引っ込めました。
「もしかして……水、出しましょうか?」
どうして、という言葉を二人とも発することが出来ませんでした。
ミモルも初めはとても驚いたものですが、天使は人間にはない優れた感覚と能力を持っている代わりか、五感のうちの「味覚」だけが欠如しているのです。
口にするのは水分だけ。彼の科白は「エルネアの正体を知っている」という意味に違いありませんでした。
「実は、僕もミモルと同じなんです」
「同じって……」
三人分の紅茶から立ち昇った湯気で、室内は花の匂いに満ち始めていました。
ニズムはカップを両手で包み込むように持ち、落ち着いた口調で言います。ちょっとした告白を楽しんでいるかのようでもあります。
「じゃあ、どうして一人でここに?」
答えの代わりに、ニズムはおもむろに立ち上がると、奥にあった扉に手をかけます。
ミモル達も誘われるように覗き込めば、そこには確かにベッドがあるにはあったのですが、およそ寝室とは呼べない部屋でした。




