最終話 焦がれたさきに
「……!」
カツカツとなる足音に混じって、息を呑む音が聞こえました。
流れる長い髪と伸びたスカートの裾を靡かせるその人物が、ティストの数歩前まで歩み寄って足を止め、微笑もうとして――堪えきれず嗚咽を漏らします。
「……ティスト。私が、わかりますか?」
震える紅い唇をなんとか動かしてそれだけ呟くと、今度こそ大粒の涙を零しました。
「おかあ、さん? どうして? だって、あの時……」
彼は信じられないという気持ちを多分に含んだ声音で言い、自分から発せられた言葉に驚きを隠せずにいます。
暗い地下室で少年が見詰めたものは、生気を失って項垂れている母の亡骸でした。その絶望が、引き絞られていた精神をぷつりと切ったのです。
エルネアが王妃の手を引き、息子の前まで連れて行きました。
「まだ、お母さんの魂は肉体を完全に離れてはいなかったの。凄く危ない状況だったけど、なんとか助けられたのよ」
彼女の足取りはさすがにふらついて覚束ないものでしたが、あくまで毅然としています。王妃として、母親としての意識がそうさせているのでしょう。
事態を見守っていたナドレスが、己を恥じ入るように付け加えました。
「あの時ミモルが『もう一度見に行こう』って言い出さなかったら、救えなかったよ」
「呼ばれているような気がしたの。きっと、女神様が知らせてくれたんだよ」
説明を聞いているうちに実感がわいてきたのか、ティストは目に涙をいっぱいに溜めています。
何度も、母は亡くなったと思わざるをえない状況がありました。城にいた頃も、事件に巻き込まれてからも、希望を抱いては裏切られて。
「本当に、本物なんだね? 信じて、良いんだよね?」
「一緒に、お父様の元へ帰りましょう」
王妃は腫れてしまった瞳で頷くと、白い指先をティストの肩に乗せます。
親子の再会をミモルは清々しい気持ちで眺めていました。引き合わせる前に予想していたような複雑な思いは、不思議とわいてきません。
あの遺跡は、再調査の上、王族の手で管理されることとなりました。もしかしたら埋められることになるかもしれないとティストは言います。
ミモル達は正式に王城に招かれ、数日の間、客人として持て成されました。
事件が解決してすぐに家へ帰ると申し出たのに、ティストはもちろん、王妃にも正気に戻った国王にも引き止められてしまったのです。
王宮の料理人が腕を振るった食事は舌がとろけるように美味しく、差し出された衣服は輝くばかり。
ベッドは体が沈むほどにフカフカで、夢を見ているみたいでしたが、ミモルはどうにも落ち着きませんでした。
「早く帰って、エルとまた二人で暮らしたいよ」
それが少女の一番の望みです。
質素でも、エルネアの作った料理は城のものと遜色がないほど美味しいものでしたし、彼女が作ってくれる服ほどミモルにぴったりのものは、どこを探してもありません。
それになにより、あの家には暖かさと笑顔がありました。
ナドレスは王子直属の臣下として城へ迎え入れられることになりました。
誂えられた衣装に身を包んだ彼は、照れ臭そうに頭をかいて苦笑しつつも、謁見の間で国王が同じ目線に立った瞬間には居住まいを正して恭しく頭を下げました。
王はひげを蓄えた恰幅の良い中年男性で、瞳から雄雄しさが滲み出る人物です。
ティストは母親に似た丸みのある顔つきですが、いずれ父親のようになるのかもしれないと、ミモルは思いました。
天使は本来、真の主以外には跪くことはありません。ナドレスが王に礼を払うとしても、それは彼が主の父親であるためで、主自身のためです。
「……!」
けれども、顔を上げた時には驚きを隠せませんでした。人に傅かれ、国の頂きに立つ男が、同じように頭を下げていたのですから。
王は、皺が寄り始めた大きな手でナドレスの手を握り、懇願するように言いました。
「どうか、この国をお守りください」
こんなことを言われると思っていなかった彼は、慌てて後ずさりました。それを見てムイが深く溜め息を付きます。
「そこでうろたえてどーすんのよ。王様の態度はもっともだと思うわよ」
「どういうこと?」
ティストが問いかけました。彼も父親の見たこともない姿にびっくりしています。ムイの代わりに答えたのはエルネアでした。
「天使が守護する土地は栄えるわ。土地は肥え、人々の暮らしは穏やかになる……。王族が天使を迎えたのは、これが初めてのことでしょうね」
保たれてきた平和も、今回のことによる揺らぎは避けようがありません。乱れてしまった国と政を正すのに、彼の存在ほど強固な後ろ盾はないというわけです。
本人は自らに与えられた重責を知って青ざめていました。
「馬鹿ね。なんて顔してんのよ」
「だって……思いもしなくて」
ティストを守り、支えていくのが本来の役目です。それすら今回は危うい状態だったのに、国に平和をと願われて、どうすべきか思い付きもしませんでした。
うじうじした態度に痺れを切らし、神の使いが呆れたように呟きます。
「……ほんっと、大馬鹿者ね」
「そ、そんなに馬鹿馬鹿言うなよ!」
「あんたが守ったものは何? よく見てみなさいよ」
すっと、目が自然とそちらへ向きました。視線の先にはティストが立っており、安心させるように優しい表情で頷いています。
「神々の采配に間違いがないと信じなさい。選ばれたってことは、あんたの能力ならやれるってことよ」
補助に長けたナドレスの「声」は、次代の王を支え、この国を繁栄に導くでしょう。
「……あぁ」
ミモル達はようやく城をあとにしました。すでにティストとの別れも済ませています。
友人といっても、関係はあくまで非公式でなければなりませんし、王子を城門まで見送りに来させるわけにはいかないからです。
ちゃっかり客人の一人として城に居座っていたスフレイが、ミモル達に声をかけます。
「それで? お前らはどーするわけ?」
「もちろん、家に帰るよ」
ここに滞在して良かったこと。それは、エルネアの回復でした。
彼女はまるでおとぎ話に出てくる子どものように急速に成長していて、たった数日で、ミモルと同じ程度だった背は頭一つ分も伸びています。
この調子なら一ヶ月と経たずに、元の姿と力を取り戻せるはずです。
「オウジサマはまだ居て欲しそうだったぜ?」
「そういうわけにはいかないわ。ミモルちゃんもすっかり元気になったし、家の様子が心配だもの。埃や汚れのことを考えると、少しでも早く帰りたいのよ」
森の中に建てられたちっぽけな一軒家は、ミモルとエルネアの意思でしか扉が開かないように特別な術が施されています。
空き巣の心配をする必要はありませんが、放っておかれた家は予想以上の速さで荒れてしまうものなのです。
「ふぅん?」
暖かい家庭に縁がなかったスフレイは、言われるままに納得しました。
彼にとって住処とはただ寝るためだけの場所で、一つのところに長く留まりたいと思ったこともなかったからです。
人通りを避けて静かな道を探しながら、ふと空を見上げて呟きました。
「俺はどうすっかなぁ」
これしかないと思っていた目的は潰え、仲間は散り散り、他に頼るものなど初めからありません。気持ちが良いほどの「天涯孤独」です。
「元に戻ったといえば、そうなんだろうけど」
ナドレスがかけた術は、今はもう解かれていました。血の大元が消えても彼自身の力が失われたわけではなく、これは一つの賭けとも言えます。
『もう世界を壊そうなんて、思ってないよね』
解呪の時、ミモルは確認しました。問いかける口調でなかったのは、聞く前から彼の心の変化を感じ取っていたからです。
その時「さぁな」と答えた横顔からは、何かが吹っ切れた雰囲気がありました。
「これ」
「あ?」
エルネアから突然差し出された封筒に、スフレイは首を傾げました。表は真っ白で、受け取って裏返してみると隅に「ミモルより」と書かれています。
「行くあてがないなら、持っていって。きっと役に立つと思うから」
そっけない態度で彼はそれをしまい込んだが、少女は手紙を突き返してこなかったことに笑みを強くしました。
◇◇◇
巨大に聳え立つ王都を振り返って、青年は今日のうちで何度目かの溜め息を吐きました。
「さぁ、行きましょ」
傍らには妖しい笑みを浮かべる美女が付き添い、腕を取って先を促します。すれ違った者は皆、彼らを恋人同士だと思い込むでしょう。
「そんな顔しないで」
彼女は魅力的な声で囁いて、頬をつるりと撫でました。けれど、彼は濃い色の瞳を伏せて、なおも触れてくる女性を押しやります。
「あれを失ったら、おしまいだ」
男の脳裏には今もあの彫像が焼きついていました。触れれば弾き返しそうな、滑らかな肌や波打つ髪が。
「あれ」がその唇を笑みの形に歪めて触れてくれるのを、どれほど願ったことでしょうか。
でも、どんなに夢に見ても手に入らず、幻のように消えてしまいました。そう思い返すたびに、心に刻まれた傷口が開いて血を流すのです。
「私がいるじゃない!」
人が振り返るのも構わず、彼女は強い調子で叫びました。立ち塞がり、全身を披露するように両腕を広げます。
「見てよ。この姿もこの声も望み通りじゃない。何が違うっていうの?」
「何が? 何もかもだ。姿も声も紛い物でしかない」
青年は即座に吐き捨てました。
「その気持ちだって紛い物じゃない……!」
ぱんっ! 乾いた音が辺りに響きました。
「あ……」
呟いたのは青年です。打ってしまった自分の手と、頬を押さえて座り込んだ彼女を見遣って気が付きました。――その瞳から零れ落ちた涙に。
彼が信じられないものを見る目をしてしゃがみ込み、雫に指先でそっと触れると、じんじんと痛むてのひらに暖かさが伝わってきました。
一連の動作全てが、久々に味わう「現実味」でした。
「クピア……?」
自分が生み出し、名付けたはずの「人形」が、自分の知らない顔で微笑むのを見つめます。温もりを帯びた腕を掴んで立たせると、彼女はすでに作り物などではありませんでした。
「さぁ、行きましょ」
差し出されたその手には、生ける者の熱が宿っていました。
第二話もこれにて終了です。
最後までお付き合い下さった皆様、ありがとうございました。
次回は再び閑話や登場人物紹介を挟んでいく予定です。
またお付き合い頂けると嬉しいです。よろしくお願いします。




