第二十八話 こえの意味
「……知ってたよ」
紅い瞳がゆっくりと振り返ると、その顔は泣きそうな顔で微笑んでいます。リーセンは全身に冷や水を浴びせられたみたいに、その場に凍りつきました。
「ううん、違うかな。なんとなく、リーセンはもう一人の私じゃないって気はしてたの。時々、私が知らないようなことを知ってるふうだったし」
他にも色々、と呟く声に苦笑が混じります。幼い頃からうっすらとミモルの中に芽生え、力を得て形になった心。
それは少女には似つかわしくないほど、成熟したものでした。
「どうして問い詰めなかったの」
ようやく声を絞り出すと、ミモルが手を掴んだままくるりと背を向けます。何かに耐えるように黙り込む彼女に、リーセンはなおも言い募りました。
「『出て行って』って、いつでも言えたはずでしょ。『消えて、出てこないで』って。今のあんたにはきっとその力もある」
問い詰めて責める機会はいくらでもあったのに、気付かないふりをし続けてきた理由をいくら考えても、リーセンには思いつきません。
「いなくなっちゃうかもって、思ったからだよ」
「え……」
小さくて静かな声でした。
「真実を知ったら、さよならしなきゃいけないんじゃないか。どこかに行ってしまったらどうしよう、って」
震える声に込められた心にリーセンはうろたえ、互いの思いに食い違いがあると気付くまでに、しばらくの時間を要してしまいました。
沈黙に潜む疑問に応え、ミモルはしっかりとした口調で言います。
「私はリーセンのこと、大切に思ってる。エルだって。だから、自分がここにいなきゃ良かったなんて思わないで」
「……」
「確かに、リーセンは隠し事をして、嘘を付いてたかもしれない。でもそれって、私のためでもあったんでしょ?」
ちっぽけな子どもの心が壊れたり、精神を捻じ曲げてしまわないように。
「ずっと見守ってくれてたよね。旅が始まってからも、何度も助けてくれたし」
たとえきっかけが何だったにしても、彼女が勇気を出して話しかけていなければ、ミモルは命を落としていたでしょう。
「不自由な思いをさせてきたよね。でも、これからもリーセンと一緒にいたいよ」
「っ!」
それは長い長い魂の旅の中で、リーセンが初めて聞く言葉でした。「ありえない」と頭の中で繰り返しつつも、嘘や偽りのないことは確かめるまでもありません。
「……まだ、ここに居てもいいの?」
「女神様の代わりには、なれないけどね。だから、そんな顔しなくていいんだよ」
リーセンは弾かれたように自分の顔に手を当てて、目じりが濡れていることに気が付きました。
ミモルは悪戯っぽく笑ってみせて、なんでもないことみたいに問いかけます。
「あたしは……」
「ねぇ、女神様のこと、本当は今でも好きなんでしょ?」
人間の裡を点々と流されるより、共に封印されていた方がましだった。
そう思うのは、サレアルナと離れて「自分」を完全に引き裂いてしまうことが、耐え難いことだったからです。
「もう一人のリーセンを、助けてあげようよ」
「もう一人のあたし?」
「うん。リーセンって名前を付けてくれたの、女神様だよね? 自分の一部に過ぎないと思ってたら、名前なんて考えない。リーセンはリーセンであって、女神様や私の影なんかじゃないよ」
体は一つしかなくても、心は二つありました。互いに足りないところを補って、二人は生きてきたのです。そこが、他の人と少し違っただけ。
ミモルは、今度は優しげに微笑みかけました。
よろめいたと思ったのは錯覚だったのか、瞬きをするように瞳を開くと、ミモルはさっきと同じ場面に戻ってきていました。
目の前には怒りをあらわにするクルテス。後ろにはクピアに阻まれて近づけないエルネアとムイ。
かなりの時間を消費したはずが、周囲の景色に一切の変化はありません。ただ、現実へ返った少女には、先ほどまでとは違うことが一つだけありました。
『もうやめて。お願いだから』
「あなたにはこの声が聞こえないの?」
「なに……?」
『これ以上、誰かが傷つくのを見るのは嫌。たくさんよ』
悲痛な、涙ながらに訴える声。今ならそれが誰のものか、何故聞こえてくるのかが分かります。
「声が聞こえてくるの」
クルテスがはっとして胸を押さえました。
『やっと、一つ』
ミモルには、少年が何百年もの時をかけて悪魔を呪縛から解き放った、あの瞬間の声の意味がようやく理解できました。
あれは、『やっと一つ救えた』と言いたかったのです。
天使はあくまで守護役でなければならず、それ以下でも以上でもあってはならない。そんな戒めを、女神が悲しまないはずはありません。
ミモルは拳を握り締め、もう一方の手でぎゅっと包みました。その様子は祈りを込めているようにも、痛みに堪えているようにも見えました。
「きっと、これまでも幾つもの繋がりが歪んで、ねじれて……切れて。その度に辛かったんだと思う。諦めろ、なんて私には言えない。好きな人に自分に笑いかけて貰いたいって思うのは、とても自然なことだから」
でも。言葉を切って、数呼吸してから一息に吐き出しました。
「あなたがそう思った相手は、ずっと泣いていたんだよ。だって、女神様には、あなたが女神様を想うのと同じくらい、他に笑いかけて欲しいひとがいたんだから」
「そんなこと分かってる」
クルテスが遮るように言います。これまで何度も考えては振り払ってきた現実を、まざまざと突き付けられるのを拒んで、消し去ろうとするかのように。
「分かってるんだ。でも、……どうしようもないじゃないか」
「……そうだよね」
ミモルは痛々しいものを見るような視線で、彼にそっと触れました。そこにはもう恐ろしい化け物はおらず、傷ついた哀れな少年が立っているだけです。
彼の身体は冷えて、強張っていました。少女は腕に触れたまま瞳を閉じて、「声」がする方へと精神を沈めていきます。
真っ暗な闇から輪郭が生まれ、巨大な扉を形作ります。その扉に手を添えて、迷いを振り切るように強く押すと、光が溢れました。
誰もが息を呑みました。肩まで伸びた黄金の髪と純白のドレスが波打ち、くっきりとした色合いの大きな瞳が現れます。地上に女神が降臨した瞬間でした。
「……」
その体は透けていましたが、この場に現れたのは確かだと皆が肌で感じ取っています。そのピンク色に染まった唇がゆるゆると開かれました。
「……全ては、間違いでした」
「サレアルナ?」
磨かれた宝石のように美しい顔に不釣合いな皺を寄せ、歌を囀るためにある口から後悔が零れ落ちます。
「私があのひとを愛したのも、あなたと共に封印される道を選んだことも、……私の力を、子どもたちに分け与えたのも」
「それって、一度封印が解けたのは、女神様が解いたから?」
ミモルには、最後までわからなかった謎が解けた気がしました。神話の中で抜け落ちていた、かつて一度だけ封印が解かれた場面が、ようやく埋められたことになります。
「諍いに耐え切れなくなった私は、年月がクルテスを変えてくれると信じていました。人の中で転生を繰り返して命を巡る間に、大切なものが何かに気付いてくれると」
それは間違いでした。姿だけは変わってしまった友人を見詰めながら、彼女は悲しげに話し続けます。
「お互いにどこまでいっても変わらなかった。そのことを認めずにはいられなくなった頃、私は自らを呪いました」
このままでは未来永劫、人の中で眠り続けるだけで、何の解決にもなりはしない。人間が神々から遠ざかったことで、むしろ悪い影響を受けるのではないか。
そう思ったサレアルナは、方向を修正しようとしました。
「封印を緩めた私は人に力を与えました。精霊の声を聞き、天との距離を縮めてくれるようにと願って」
その頃にはあまりに長い間漂い過ぎていました。
永遠に近い命があっても、荒波のように揺れる人間の中では次第に意識は薄れて力も削られ、やがては埋もれて消えてしまうかもしれません。
「だから、力を継いだ人間の中から、いずれ封印を解く者が現れるのを待とうと思ったのです」




