第二十七話 わかたれた心
「聞いてもいい?」
だいぶ躊躇ってから、ミモルが意を決したように問いかけると、はっとしたようにリーセンが顔をあげました。
「あなたは誰なの? どうして、私の中にいるの?」
「……」
口を開こうとして浮かんだのは困惑の色で、それを見とめたミモルは先を促すように問いかけます。
「もしかして、リーセンが私達の探している女神様なの?」
彼女はふるふると首を横に振り、ミモルもその返事を予想はしていました。
先ほどの会話からも違和感は伝わってきましたし、なにより最初にムイに調べられた段階で、はっきりと「違う」と判断されていたからです。
まるで観念したような、それでいて今にも泣きそうな声でした。
「あたしは……影よ」
「かげ?」
「女神――サレアルナに芽生えた困惑、かな。気付いたらあたしは彼女の心の中で生まれていて、話し相手になってた」
自分達のようだとミモルは思いかけ、続く話を聞き逃すまいと意識の外へと追いやります。
「恋人がいたの。誰もが二人を認め、祝福した。本当に幸せだったのよ。……あいつが目を付けるまではね」
主観が入っているのは、心が分かたれる前のことだからでしょうか。その頃はまだ、彼女は女神が抱える気持ちの一つに過ぎなかったのかもしれません。
「恋人がいると知っていながら、女神を自分の物にと望んだ。美貌も、優しい心も、全て。それが、あの『クルテス』よ」
「……」
教えられた神話に手垢が付き始め、遠い出来事が目の前に引き寄せられるような感じがしました。
今は友人の体を支配している邪な魂がかつて求めたのは、この世界ではなくて女神自身だったのです。
「断れなかったの?」
告白されたところで、好きな人がいるから付き合えませんと言えば済む話だろうと、未だ恋を知らない少女は思いました。
「それで諦められるなら、最初から気持ちなんて打ち明けなかったんじゃない?」
ミモルが直感的に思い出したのは、エルネアが深い傷を負って消えてしまいそうになった時の喪失感です。
もう終わり。会えない。笑いかけて貰えない。名前を呼ばれることもない。
その事実を一番受け入れられなかったのは紛れもなく自分自身で、行ったのは「わがままを突き通す」ことでした。
「……あの人も、そうだったのかな」
物心付いた頃から我慢することを身に付け、求めることはいけないことだと思っていました。
けれど、泡になり光と化すパートナーを目の当たりにしたら、歯止めなど効かなくなったです。
恋とは違うかもしれません。でも、もしエルネアを他の人に奪われて、黙って引き下がれるでしょうか。たとえば、前の主だったチェクという少女に――。
「……クルテスは、他の神々と共に作ったこの世界を大切に思ってた。けど、それよりもサレアルナの笑顔が欲しくてたまらなくなったのよ」
『どうして駄目なんだ』
『お願い。解って』
「子どもみたいに口喧嘩で終われば良かったんだけどね。力ある者同士の諍いがそんな生易しいわけがなかった」
二人の想いは平行線を辿るばかりで、その亀裂は女神の恋人や周囲の者達を巻き込んで、いつしか争いに発展し、沢山の血や涙が流れたその戦いは、放っておけば地上が崩壊しそうなほどにまで膨れ上がりました。
「サレアルナは毎日泣いてた。恋人に守られながら過ごす日々の間に、暗く落ち込むばかりだったあの子の心は苦しみから逃れたくて、あたしを創ったの」
クルテスを嫌っていたわけじゃありません。大切な仲間の一人に違いなかったからこそ、どうしていいか分からずに胸を痛め続けたのです。
そんな葛藤を誰かに分かち合って欲しいと願う気持ちが、自分を生み出したのだとリーセンは言いました。
「自分を引き裂いたって、結局は何の解決にもならないって、分かっていたはずなのにね」
サレアルナが見上げる壁の向こうでは争いの火と煙が充満し、血の臭いは防ぎようがありませんでした。
「そうなったら、いくら仲間でも黙らせなきゃならなくなる。とうとう他の神々が決断を下したと知った時、サレアルナは悩むのをやめた」
「それって」
「誰も犠牲にしたくないなら、自分が犠牲になるしかないって思い込んでさ。いくら止めても駄目だった」
戦場に自ら足を向けたサレアルナは、クルテスもろとも封印される道を選びました。いつか彼が仲間の大切さを思い出して、心を変えてくれると信じて。
「クルテスは拒まなかった。形はどうあれ、女神を得られるから、ひとまずは納得したみたい」
自分の元へ下る彼女を見た時の歓喜は凄まじかったに違いありません。恋人に封印を強要する姿には、打ち震えたことでしょう。
「もちろん、クルテスにだって打算があったと思う。自分と共に在ることで、サレアルナが心変わりする可能性を持ち続けていたはずよ」
ミモルはぽつりと、「悲しいね」と呟きました。
どちらも相手が変わることばかり望んで、譲ろうとせず。永遠に近い命の流れの中にあっても、それでは未来永劫、互いの思いが交わることはありません。
背中合わせの二つの影を想像すると、浮かんでくるのは歯がゆさでした。
「……でも、同情なんてしない」
一歩引いた冷静さを持った声音が、突然熱を帯びました。
「封印される瞬間、サレアルナはあたしを放り出したのよ」
『あなたまで、巻き込むつもりはないわ』
『や、止めて!』
あの時に感じたのは、どんと胸を押されるような衝撃。浮遊感。そして。
「気が付いたら、あたしは見知らぬ赤ん坊の中に閉じ込められてた」
ずきり、という痛みを胸に感じて、ミモルは咄嗟に手で押さえました。
「その人間の一部として生まれて、死んだらまた別の人間に宿る。そんなことを何度も何度も繰り返して来た」
ズキ、ズキ、と懐が脈打ちます。女神が封じられてからの気の遠くなるような年月を、ずっとリーセンはそうやって生きてきたのでしょうか。
「あたしが心の中に住んでるって知った人間は、大抵は気持ち悪がるか無視を決め込んだ。医者に行った人もいたし、気が狂ったのもいた」
「そんな」
悲鳴を上げ、取り合おうとせず、追い払おうと必死になる者達。話しかけると気味悪がられると気付いてからは、黙ったまま一生を見届けた相手もいました。
「でも、そうすると……自分が本当にここにいるのか、分からなくなってくるんだよ」
彼女は言いながら、嫌悪するように自らの髪を掴んで引っ張りました。ミモルに伝わってくる痛みが、だんだんと全身を包む冷気に変わっていきます。
「サレアルナは巻き込みたくなかっただけかもしれないけど、不完全なままで放り出されたあたしが生きてきた時間は、牢獄で過ごしているのと同じだった」
自由も、帰るべき場所もない――魂の牢獄です。
「リーセン……」
「誰からも求められないのに、消えることも出来ない。こんな苦しみを味わうくらいなら、連れていって欲しかった!」
「リーセン!」
ミモルは頭を掻きむしる彼女の手を奪って、ぎゅっと握りました。
ここが夢なのか、それとも精神の世界なのかは分からなかったけれど、触れた手には温かかさがありました。




