第二十五話 かみの器
「なに……?」
暗がりから急に明るいところへ出たせいで、しばらく視界が定まらなかったミモルは、目を細めて懸命に目の前の出来事を見詰めました。
「何をしようってのよ!」
「ティストをどうするつもり!?」
口々に叫ぶムイとエルネアの声に、彼女達にははっきりと見えていることを察します。眩しさに瞳をやられているのは、自分だけのようでした。
うっすらと捉えられる輪郭は、パートナーの憤りが示すように友人に違いありません。
ただし、先の一件で変化してしまった風貌はそのままで、雰囲気でティストだと分かる程度でした。少年らしき影に寄り添う女性が吐き捨てるように言います。
「なぁに。あの木偶人形、やっぱり失敗したのね」
「でく人形って……。仲間でしょ、どうしてそんな言い方が出来るの?」
誰かがいなくなることの空虚感と痛みが胸に過ぎり、ミモルはぐっと拳を握りしめました。
大切なものを失ってきた彼女には、女性の考えがどうしても理解出来なかったのです。
「『仲間』って、対等以上の者同士を呼ぶものでしょう。あんなのと同格にされちゃあ、たまらないわ」
色気を含んだ声音で呟くのは、相手を足蹴にするのも同然の嘲りでした。言葉を交わしているだけで気分が悪くなってきそうです。
「それより、来たのだから見ていったら?」
「この世の終わりの見物なんてまっぴら御免よ」
段々と明度に目が慣れてきたミモルは、ムイが鼻で笑ったのを見ました。ところが、余裕がある素振りをしたつもりが、返ってきたのは更なる嘲笑です。
「ふふっ。この世の終わりですって? まだそんな勘違いをしていたなんてね」
「勘違い?」
三人共が、ミモルの指摘した「別の可能性」の話を脳裏に過ぎらせました。
「確かに、我が主の御心を受け入れない世界なんて、消えてしまえばよいのにとは思うけれど」
「どういう意味?」
エルネアが慎重に距離感を測りながら問いかけます。すると、笑みの形に歪んだ皺がすっと伸びて、冷ややかな表情が現れました。
「あなた、そんな察しの悪さで、よく守護役が出来るものね」
「な」
「程度の低い天使を飼ってるのね。せっかくのチカラもこんなのと契約してたら半分だって出せそうにないじゃないの」
見たところ、主の方はそこそこに見えるのにねぇ。くつくつと笑う女性に、ミモルが「やめてっ、エルを悪く言わないで!」と金切り声を上げました。
「あらら、まだお子様ねぇ。使えない駒を庇っても何の得にもならないのに」
「エルが今までどれだけ私を助けてくれたか知らないくせに!」
怒りで頭がガンガンと脈打ちます。十歳で旅立ってから、ミモルは自分の中にこんなにも激しい感情があるのだと初めて知りました。
義母や義姉と穏やかに暮らしていた間には、激情に駆られたことなどなく、最初は酷く戸惑ったものです。
でも、今なら解ります。これは必要な変化なのだと。いえ、ただ眠っていただけで、周囲に刺激されて目を覚ましたのかもしれません。
女性は髪をかきあげて興醒めとばかりに睨みつけてきます。
「涙の苦労話なんて興味ないわ。自分だけが悲劇だとでも?」
「不幸は誰かと比べるものじゃない。ティストだって、お父さんやお母さんのことで凄く苦しんでたはずだし」
少年が語らなかった「母親」に関しては想像するしかありませんが、随分前から行方知れずだったか、或いはすでに亡くなったとでも思わされていたのか……。
いずれにしても頼るべき父親は心を蝕まれ、臣下は信ずるに値しない者達ばかりでは、母親の面影を拠り所にしていたのではと思うのです。
「それなのに、あんなの……酷いよ」
老婆のように生気を失った姿を見た瞬間、張り詰めていた最後の糸がぷつんと切れてしまいました。
「ティストを返してよ。友達になるって約束したんだから」
もう疑いや迷いはありません。もし本当に仇の息子だったとしても、ティスト自身が悪いわけではないのです。
彼だって周りに翻弄されながら、その渦の中で必死にもがいていたのですから。
『やめておきなよ』
ふいに少年の声に全く別の音が重なって聞こえ、感情を吐き出そうとしていた唇がぎくりと硬直しました。
光がゆっくりと収束し、肌へ馴染んでいくように吸い込まれます。目を細めなくてもいい程度にまで落ち着くと、「彼」は再び口を開きました。
『もうこの身に器の精神などほとんど残ってはいない。消え入る蝋燭の火にも等しいくらいさ』
うそ、とミモルが呟きます。
「ティスト、ねぇ聞こえる? 私、ミモルだよ。ほら、エルもいる。一緒に帰ろう?」
数歩近寄るだけで触れられる距離に立つ少年に向かって、腕を伸ばしました。「彼」はそんなミモルにゆっくりと首を振って見せます。
『無駄だよ。ボクの精神がこの小さな器に留まり続けるのも苦しいのに、ティストって呼ばれていた子が残れるはずもない』
背筋がぞっとしました。仮にも「神」と呼ばれる存在がちっぽけな人間に入っていることの意味など、今の今まで考えもしませんでした。
たとえるなら、水が限界ぎりぎりまで入っているグラスです。表面がその容量を超えて膨れあがり、小刻みにふるふると震えるているような。
『今にもはちきれそうなところを、無理に留めているんだ。そろそろ限界も近いかな』
次の器を探さなければと、「彼」は言いました。
「それって、ティストがし……んじゃうってこと?」
精神が危うい今、肉体まで滅んでしまっては完全に終わりです。魂の行く先を知らない少女でさえ、その程度の事実は直感的に悟れました。
「やめて! ティストを殺さないで! すぐに出て行ってよ!!」
のどが切れてしまうのじゃないかと思えるほどに、ミモルは叫びます。
もう誰かがいなくなってしまうところを、せっかく出来た友達が死んでしまうところを、見たいわけがありません。
『なら、キミが体を差し出す?』
「え……?」
少年は辛辣な瞳でミモルを射抜きました。途端、がんじがらめにされたかのように身動きが取れなくなります。呼吸が浅くなって、視界と思考が乱れました。
『力ある肉体しか、ボクの存在を受け入れることは出来ない。キミなら丁度良い。代わりにこの体を返してあげるよ』
「待ちなさいよ! ミモルを差し出してティストを返してもらったんじゃ、何の解決にもならないじゃないっ」
『シェアラ』
「はい」
ムイが割って入ろうとすると、あの女性がパチンと指を鳴らしました。
「っ、あんたは――」
同じ顔でした。シェアラと呼ばれたものと全く同じ顔の女が、ムイ達の前に立ち塞がります。
すぐ横の少女にエルネア達が手を伸ばそうとするのを、凄まじい力で抑え込んできました。
「ミモルちゃん、逃げて!」
『今の私には守れるほどの力がない……!』
けれどもミモルはもがきもせず、悲しげな表情で俯きます。対抗しても勝てる相手ではありません。たった少しのやりとりだけで、理解出来てしまったのです。
「二つ、聞いてもいい?」
『何?』
「この体をあげたら、本当にティストを返してくれる?」
『約束するよ。器がどれほど痛手を受けているかまでは、知ったことではないけどね。もう一つは?』
ミモルは蒼い瞳により濃い悲しみを乗せて、少年の形をした「人でないもの」を見据えました。
「女神様は見つかった?」
時が一瞬だけ、止まったような気がしました。




