第二十三話 ぎわくの遺跡
瞳を閉じたナドレスの唇から、小鳥が囀るような美しい歌が紡がれます。それは本来、男性が発することなど出来ない高い領域をたゆたい続けます。
「フシギな感じだよな」
スフレイが呟いたことに、ミモルも同感でした。こうして間近で目撃していなければとても信じられない光景です。
「お前のノドってどーなってんの」
閉じていた目蓋が押し上げられ、睨む形に歪みました。静かにと言いたいところでしょうが、術を行使している間は喋れません。
やがて歌に応じてスフレイの体から淡く光る糸のようなものが浮かび上がりました。全身を縛っていたそれが一度ふわりと離れ、今度は違う形で彼に纏わり付きます。
やがてふっとナドレスが息を吐き、糸の先を掴んだ瞬間、全てが再び消えうせました。どっと疲れが押し寄せたのか、ベッドに座り込みます。
「終わったぞ」
「何が変わったの?」
糸や彼の動きから変化は感じ取りましたが、具体的にどう変わったのかまではミモル達には分かりません。
「宿との反発は消した。それから、力が外に流れる『道』を作ったんだ」
「つまり、逃げ出しちまってOKってことか?」
「馬鹿か。宿から出られるってだけだ。綱を括りつけてやったから、俺からはそんなに遠くまで離れられない」
「な、なんだよ、それ!」
げっと青ざめたスフレイがくってかかります。犬みたいに繋がれることも腹立たしいのですが、よりによって相手がナドレスなのが気に食わないようです。
耳元でぎゃんぎゃん喚き散らされる方は、両手で耳を塞いでげんなりとした表情を浮かべました。
「俺だって嫌だ。でも仕方ないんだから我慢しろよ。それに道を作ったって言ったろ。俺が許可さえすれば、力も使える」
「おっ? ホントか?」
途端に顔を輝かせるのを見て、ムイが深く溜め息を吐き出します。
「終わったのならとっとと行くわよ。一刻の猶予もないんだから」
「奴らの居場所が分かったの?」
踵を返して部屋から出ようとする背中にエルネアが問いかけました。
無策で戻るとは思っていませんでしたが、そんなにあっさり目標を捉えられたのかと不思議に思ったのです。
「はっきりと断定できたわけじゃないけど。遺跡よ、多分ね」
「誰もいないね」
石造りの入り口を眺め、ミモルが呟きます。
山裾に広がる森の中、木々に囲まれて、その建物は存在感を消しているかのようでした。周囲に見張りらしき気配はなく、看板の類も見受けられません。
人々の記憶から忘れ去られた廃墟というのが、第一印象でした。
「発掘作業が終わったか、それとも……。まぁ、どっちにしても好都合ね」
深く考えている暇はないと言いたげなムイに、ナドレスが「良く見つけられたもんだな?」と問いかけました。
「隣国との国境近く、数年前に発見された遺跡。それだけ分かれば十分よ」
そうね、とエルネアが同調します。
「遺跡。現れた能力者。そして封印を解かれた天使……。今回の件に関わりがある中で教会でも王城でもない場所だもの。怪しむなって方が無理かもしれないわ」
加えてこの佇まいです。いくら何年も前に発見されて調査が済んだとしても、ここまでの徹底した放置のされ具合は妙に思えました。
「うん。何か感じるよ」
ミモルは光を吸い込む暗い通路を覗いて、あわ立つ肌を抑えます。髪の毛まで逆立ちそうなこの感覚は、忘れようとして忘れられる類のものではありません。
「……いる」
未だ成長の途上にある少女には、恐怖に似たその嫌悪感の表現方法が浮かびませんでした。断言出来るとすれば、近付いてはいけないと全身が叫んでいることだけです。
「行くわよ」
神の使いの顔にも険しい皺が刻まれています。踏み止まっているわけにはいかないと知っているから、皆を導くように先を歩き出しました。
ミモルが光の精霊に呼びかけて、手のひらに明るい球体を生み出します。最初の広間のような空間を抜けると、影が細く長く伸びて、通路の奥へと消えていきました。
いつ頃作られた遺跡なのでしょう。石を積み上げて作られたものであることは分かりますが、同じ方法で作られた城の地下とは明らかに雰囲気が違います。
長年放っておかれたために酷く埃っぽく、どことなく酸っぱい臭いが鼻に付きました。地面も、踏みしめるとキシキシと鳴り、砂粒が砕けるような音がします。
「崩れないよね?」
口にしてみて、その可能性があることにミモルは自分でもぎょっとしました。
通路は細く長く続いており、天井も柔らかい明かりで輪郭が照らせるほどの近さにあります。もし頭上から降ってきたり、左右から雪崩を起こしたらと思うと足が竦みます。
不安を和らげるように、肩に優しく手が置かれました。
「だいぶ傷んでいるのは事実でしょうけど、静かにしている分には問題なさそうよ」
だから安心して、とエルネアが微笑みます。でも、それは「騒げば崩れるかもしれない」という意味にも取れ、心の底から安堵する気にはなれません。
いざとなれば彼女が身を挺して守ってくれるのは明らかでも、自分を庇って負傷する姿など、もう見たくはありませんでした。
どれほど歩いたでしょうか。いつしか通路は地下へと潜っています。途切れなく続く足音がまるで耳鳴りのようで、本当に聞こえているのか判らなくなってきました。
途中、幾度か遭遇した部屋は、いずれも伽藍洞で、転がっていたのは、かつて住居として使われていたことを思わせる家具らしきものばかりです。
それらも一様に分厚い埃を被り、朽ちてしまっていました。スフレイが愚痴を零します。
「どこまで行けばいーんだよ」
「さぁね。文句はアンタのところのボスにでも言ったら? こちらを疲弊させる作戦かもしれないわよ」
ムイが肩を竦めます。しかし、そう言いながら内心では違うと確信していることが表情から伺えました。
「俺のボスは俺だけだ」
一点の迷いもない堂々さに、彼女は「なにそれ」と吐き捨てます。
「自主性があるんだか、ないんだか」
暇を持て余すかのように軽口を叩き合い始めたと思った途端、ぴたりと二人ともが口を閉ざしました。通路が途絶えて、開けた空間に出たからだけではありません。
「……!」
ミモルがさっと光を翳し、声を上げそうになる唇をきゅっと引き絞ります。闇を照らしたと思ったそこに、更に一際濃い闇が落ちていました。
黒いそれが、すっと足音もなく近付いてきます。ムイとスフレイ以外の三人が、臨戦態勢に入るかのように低く構えました。
「あなたは、あの時の」
闇を湛えた瞳。光や色を拒絶する黒髪と黒衣。忘れられようもないその女性の姿は、あの時の――教会で襲い掛かってきた時と全く同じでした。
「生きてたのか、ルノー。てっきり、失敗して消されたと思ってたぜ」
スフレイが意外そうな口ぶりで耳慣れない名を言います。ルノーと呼ばれた女性は応えず、代わりにぽつりと呟きました。地の底から響くような、ぞっとする声です。
「……裏切り者」
「あいつが先に裏切ったんだぜ。それに、別にこっち側に付いた訳でもねぇんだよ。俺は確かめに行くんだ」
強い調子のスフレイに、しかし仲間であるはずの彼女の薄暗い表情は動きません。異常なほど白いその顔は、仮面を見せられているようで気味が悪いものでした。
「裏切り者には死を」
「ったく、相変わらず聞いてねぇな」
抑揚のない返事にげんなりした様子で彼は二歩、前へ出て言いました。
「術、解いてくれ」




