第七話 せなか合わせの絵
「天使と悪魔……」
くっきりと見えるのは紛れもなく、地面に掘り込まれた天使と悪魔の絵でした。底が明るいと感じた正体はこの絵が原因のようです。
背中合わせで佇む二つの姿は、地上で今まさに対峙しているであろうエルネアと、ミモルがまだ名前を知らない悪魔そのものでした。
「象徴的なものでしょうけど、本当にそっくりね」
リーセンが言います。しゃがみこんで、その輪郭を指でなぞってみます。かなり深く彫り込まれているらしく、長年泉の底にあっても表面が削られたりした跡は見られません。
「なんだか二人とも悲しそう」
手を祈りの形に握り締め、今にも涙が零れ落ちそうな表情を浮かべる天使と、同じ悲しみでも怒りを含んだ顔をした悪魔。何を意味するものなのでしょうか。
『同じことがあったのを知っているか』
ウォーティアの声が聞こえ、ミモルはあたりを見回しますが、どこにも姿はありません。……いえ、ここに満ちる水そのものが精霊自身なのです。
『「繋がるもの」よ、かつてここは今と同じく、天使と悪魔がまみえた場所。この絵はその時を描いたものだ』
「誰が、なんのためにそんな悠長なことをしたワケ?」
幼い少女の口からは想像できない大人びた言葉が発せられ、精霊が一時押し黙ったのを感じました。
リーセンは口を曲げ、腕を組んでどことも言えない空間を睨め付けます。
「ケチくさいわね。あたしじゃ不服だって言いたいの?」
精霊を相手に「ケチ」というあたりが彼女らしいとミモルは思いましたが、口にはしませんでした。
『契約は魂と行う儀式』
返答は明瞭で、さらに食い下がるのも不毛だと思ったのか、リーセンが意識の奥へと消えていくのをミモルは感じます。
まだ踏み入れたことのない闇が垣間見え、この頃になってようやく、自分以外のものが自らを支配していたことに気付きました。
『一つの身に二つの魂を宿している者を見るのは久しぶりだな』
念を押すようなセリフにどきりとします。「二つの魂」ということは、やはりリーセンはミモルとは別の存在のようです。
「他にもいたの? 私のようなひとが」
『いた。理由までは知らないが。そういえば、この絵に似ているか』
「え」
ミモルは背中合わせの存在が何を指すのか、しばらくじっと考えていました。
『契約を』
思考を遮る精霊の言葉にはっとします。契約という言葉に、エルネアはどうなったのだろうという思いが、急に湧き上がってきました。
『“エルネア”は強き天使。悪魔が相手でも心配は無用だ。それに、何かがあれば感じるはず』
ウォーティアはそう言って、契約を、と繰り返します。
絵を見つめて俯いていた顔を上げ、先ほどリーセンが睨んでいたあたりへ視線を投げると、再び声が頭に降ってきました。
『手を』
言われるままに差し出した手のすぐそばで、淡い光が屈折します。それはそのまま透き通った手となり、ミモルと握手をするように繋がりました。
次いで腕や肩の輪郭が見えるようになり、やがてウォーティアそのものが具現します。
『見せよう。ここであったことを』
青い瞳が開き、その視線に貫かれたと思った瞬間、すでにそこは水の中ではありませんでした。
「っ!」
目の前から強烈な光が飛んできて、ミモルは咄嗟に腕で顔をかばいました。
が、待てど暮らせど、何かがぶつかった衝撃がありません。恐る恐る窺うとそこは泉のほとりでした。
「いつの間に?」
頭の中を整理出来ないまま辺りを見回していると、少し離れたところに佇む三つの人影を見つけました。
『ううっ』
そのうちの一つはミモルと同じくらいの年齢に見える少女でした。黒みがかった深い色の髪を二つに分け、上で結んでいます。
何があったのか、苦しげに呻く彼女の元へ別の誰かが駆け寄り、よろける体を支えました。
「あれは!」
ミモルは驚きの声をあげました。彼女をいたわっていた人物は、非常に見覚えのある姿をしていたからです。
『大丈夫? あと少しだから頑張って!』
励まされ、少女も頷きます。辛そうな表情を意地で覆い、三つ目の人影を見据えていました。
『あなたは許せない。絶対に! ――っ』
何故か、最後に叫んだであろう名前だけが、耳に届く前にかき消えてしまいました。
それを求め、二人が睨め付ける第三の人物を確かめようと一歩進んだ途端。
「……え?」
そこは再び薄暗い泉の底で、何もない闇へ向かって何かを掴もうとするかのように、腕を突き出している自分に気が付きました。
「今のは何?」
頭の中で、一瞬の出来事が何度もよみがえってきます。
幼い、自分とさして変わらない年齢の少女と、敵対しているらしい、影しか見ることが叶わなかった相手。そして……。
『ここで昔……お前達人間の時間で言えば、700年前にあったことだ』
ウォーティアが、その透ける唇で告げました。
耳にした刹那、思い起こされるのはルアナの最期の姿です。彼女は、前に地の底との扉が開いたのは700年前だと言っていました。偶然の一致でしょうか?
「どうして、私に見せたの?」
『我は水の意思を伝えるだけだ』
精霊の言葉は謎かけのようで、ミモルには呑み込めません。
理解しようと必死に考えていましたが、質問を重ねようとした彼女を、ウォーティアはゆっくりと首を振って制しました。
『契約は完了した。我の、ここでの役目は終わった』
「あっ、待って!」
『人と話すのにも疲れた』
青く光る体が輪郭を失って水に溶けていきます。それと共に声もぐっと淡くなり、とうとう何も聞こえなくなってしまいました。
目先の話し相手がいなくなり、ミモルはふいに現実へ引き戻される感覚を味わいます。
エルネアはどうなっただろうという思いが、再び急速に広がりました。今の今まで忘れてしまっていたのは、ウォーティアとの現実離れしたやりとりのせいでしょうか。
いつの間にか、ミモルはこの世ではない空間へと落ち込んでいたのかもしれません。まるで肉体という器を捨て、魂だけの存在になったみたいでした。
「助けに行かなきゃ」
とんっと地面を蹴って上を目指し始めます。水中深くにいるはずなのに、全く苦しさがありません。呼吸も出来ますし、念じるだけで地上へ上がって行くことも出来ます。
さっきまで死を予感していたのに、打って変わって内側から力が溢れてくるようでした。
「すごい。どうなってるの?」
「確かに凄いけど、水の力はこんなものじゃないはずよ」
「……リーセン」
「ほら、急ぐわよ。上じゃあ水際の攻防戦の真っ最中でしょうからね」
心の奥底へと身を隠してしまっていたもう一人の自分が、再び意識の表層を分かち合っています。
彼女は何者で、何故、自分はもう一つの存在を裡に抱えているのか。それを尋ねる勇気も時間も、今のミモルにはありませんでした。




