第十六話 きず持つ刺客
「……大切だよ」
かつての旅でも、森での暮らしでも、エルネアはミモルにとって世界そのもの。外との繋がりの全てでした。アルトがすっと両の瞳を閉じます。
「我らが主のみ言葉を伝えます。……もう一度、機会を授けるようにと」
声に誘われるように、ひらり、何かが視界を掠めました。途端、止まっていた涙が再び溢れ出します。
「っ!」
飛んでいってしまったはずの羽根が、ミモルの目の前に舞い降りました。その一枚一枚をそっと受け取り、両手で包み込みます。
「願いを、告げてください」
◇◇◇
「……うぅ」
少年は自分の呻き声がやけに遠くで聞こえるのを感じていました。
黒い何かが心の中で膨れ上がって、光が当たる「居場所」を侵食していきます。意識が闇色に塗り込められていくようです。
けれど、もう足掻く力がありません。すでに気持ちが折れていました。
「そうだ。流れに身を任せればいい。……消えていけばいい」
誰かが――あの男が囁きます。指先をほんの少し残された光へと向けたところで、意識がぷつりと切れました。
◇◇◇
遠くに見えた光は、ちらちらと揺れる炎の灯りでした。壁にかかったそれは等間隔で奥へと並び、湿ってほこり臭い通路を照らしています。
陽光が差し込まないのを除けば、造りは地上と同じようでした。
「……っと」
明りからやや離れたところに着地したナドレスは、周囲の気配を探りながら近付こうとし、ふと足を止めます。振り返り、闇に向かって言い放ちました。
「隠れてないで、出てこいよ」
「あ~あ、やっぱバレるか」
あっさりと観念した相手が、暗がりから現れます。無雑作に伸びた髪と、閉じた左目に走る傷跡が印象的な男です。
ぴったりとした黒服を纏うその身は、筋肉質に見えました。
「あの霧の中で聞こえていた声が、途中からは気配ともども消えていたしな」
「てっきり役立たずかと思えば、目は節穴じゃないって訳だ?」
「安い挑発には乗らないぞ」
むっとする心の内を沈め、ナドレスは敵から視線を外します。ムイあたりに聞かれれば鼻で笑われそうなセリフだと、自分でも思いながら。
「別に挑発ってんでも……まぁ、でも、そうだな」
男は面倒くさげに下を向き、「結局は同じことか」と呟きました。
「アンタには悪いけど、ロシュのところへ行かれたら俺が仕事さぼったってグチグチ言われるんでね」
ふっと、男が呼吸を止めます。そこらじゅうの空気が制止したように感じられた次の瞬間、体格に似つかわしくない素早い動きで拳が迫ってきました。
ナドレスは目を見張り、重心を後ろに落として避けます。敵はすぐに踏み止まり、今度は伸ばした腕を曲げて肘を食らわせてきました。
「言われれば良いじゃないか……っ」
「あいつらのねちっこさを知らないから、ンなこと言えンだよ。一回聞いてみろって!」
受けていては次の動きに間に合わないと判断し、倒れこむ勢いを利用して手を付き飛び退きます。火の頼りない明かりが、柔らかく弧を描く彼の輪郭を照らし出しました。
一端距離を置き、睨みあいつつも口元は笑っています。
「へぇ、けっこう面白いな。後方支援専門だって情報はガセか?」
ナドレスは表情にこそ出さなかったものの、息を詰まらせていました。あの黒服の女性から情報を得ているのだとしたら少々厄介だと、苦虫を噛み潰しました。
敵は明らかに接近戦タイプです。彼の言う通り、ナドレスとは相性が良くありません。ここまでなんとか相手をしてこられましたが、隙を突くのは難しいでしょう。
「距離取られんなって」
やはり早い。ぐんと距離を詰められます。更に後退しようとして背中に壁が触れ、緊張感が走りました。
体勢からして蹴りが飛んでくるのは間違いありません。今度こそ受けるしかないと、腕で顔を庇いました。
「忠告されてっからさ!」
左からの強烈な衝撃に弾き飛ばされます。防御の体制を取っていても立ってはいられず、ふわりと宙を舞いました。それでも、蹴られた方の腕を庇いながら着地します。
「あれ、攻撃してこないのか? 守ってばかりじゃ勝てないぜ?」
これでは息を吸い込んだ途端に攻撃されるのは目に見えています。接近戦になれば相手の独壇場になる予感もありました。
普通の人間相手なら負けない自信はあります。けれど、この男がただの人間の度合いからは速さも威力も外れていることを、腕の鈍い痛みが教えてくれていました。
「そういや、名前をまだ聞いてなかったよな」
訊ねてきたのは相手の方で、ナドレスは一瞬怯みます。時間を稼ぎたいのは分かりますが、呑気に話かけてくるなんて何の意図があってのことでしょうか。
「身構えんなよ。単に、名前も知らない奴とやりあってるのが嫌なだけだって。雑魚なら聞く前に倒しちまうけど、面白そうな奴とは話してみてェと思うだろ?」
「……そっちが名乗るなら、な」
名前はそのものの身を縛る力を持っています。男がその手の術者なら、教えた瞬間にアウトだからです。彼はニヤリと笑いました。
「スフレイ。疑うなよ、俺だってこの名前しか知らないんだから」
「どういう意味だ?」
「名前を付けた親の顔なんて、知らないってことさ。だから俺はこの名以外は使わない」
男――スフレイはかぶりをふります。ナドレスは直感的に相手が嘘をついていないと悟り、自らも名乗りました。
「ふーん。なぁ、その名前って、やっぱカミサマが付けてくれんの?」
妙な人間です。鮮烈な動きを見せたかと思えば、名前に興味を強く示してくるなどとは。
思考がうまく読み込めないうちは、突破は無理そうです。時間はありませんが、ここは仕方なく話に付き合ってみることにしました。
「俺達はまず命を与えられ、そして名を与えられる。人間と同じだ」
「同じ、ねぇ。いや、やっぱ違うと思うぜ。同じだったら」
「同じだったら?」
「こんな思いをしなくて済んだのかもな」
「『こんな思い』? いったい、お前達は何の為に動いているんだ。本当にあれを復活させようとしているのか?」
ナドレスには理解出来ませんでした。断片的な話を聞いただけでも、穢れた力を振るう神の復活なんて、人間にとって厄災でしかないはずです。
「滅びしか残らないじゃないか。意味がない」
彼らが何も語らない限り、結局はそこへ辿り着いてしまいます。黒い光の先にある「無」へとです。スフレイはからからと笑いました。
「意味はあるさ。俺達、黒い血を引く者にはな」
呟きと同時に、ぴりりとスフレイを取り巻く空気が張り詰めます。それが第二ラウンドの開始を告げる――はずでした。
「ちょっと! せっかく先に行かせたのに、何を足止めされちゃってんのよ!!」
暗い通路に甲高いが響き渡ります。黄色みを帯びた灯りの中で、より一層燃え立ちそうな色の髪が浮かび上がりました。
怒りを瞳にたぎらせた少女、ムイが二人に追いついてきたのです。
「一人じゃ心配だと思って追いかけてきてみれば、案の定じゃないの」
ったく、と腕を組んで鼻を鳴らします。とても十やそこらの女の子の仕草ではありません。スフレイが顎をさすりました。
「次の客は子どもか。さすがに相手しにくいなぁ」
そう言いながらも、冷静に相手を見極めようとしていることが窺えます。
「どうせ自分から突っ込んで、相手のペースにうまく巻き込まれたんでしょ」




