第十四話 とらわれた心
「ミモルちゃん!」
すぐ傍にいたのに、霧に惑わされて動くことが出来なかったエルネアは唇を噛み締めました。伸ばした先に求めるものはありません。代わりに、異変に気付きました。
手が、はっきりと見えています。ぶわっと強い風が吹いたかと思うと、あんなに濃く立ち込めていた霧が嘘のように晴れていきました。
「残念ね。もう時間切れ」
声につられて顔を上げた全員が、目を見開きます。驚きが言葉にならないほど、目の前に広がる光景は有り得ないものでした。
女性が一人、ウェーブがかった鮮やかなピンク色の髪を指先で弄んでいます。
裾の短いワンピースの上から白い上着を羽織り、赤い口紅を塗った口元を不敵に歪ませるその姿は、美しくも毒々しさを感じさせました。
ただ、彼女の雰囲気を最も異質にしているのは、もっと別のものです。「ありえない」と、あえて呟いたのはムイでした。
――ばさり、と空気を擦る音がしました。それは、一枚一枚が全て黒々と闇に染まった翼が立てたものでした。
「あたしはクピア。ご覧の通り、天使よ」
「冗談言わないで!」
エルネアが鋭く叫びます。すぐさま飛び掛ろうとしないのは、クピアと名乗った女性が腕に抱くもののせいでした。
「この子、ミモルって名前だったっけ? 凄い力の持ち主みたいね」
さらり、と色の付いた爪で髪を撫でます。力無く伏す少女はされるがままでした。
「すぐに離しなさい。さもないと……」
溢れんばかりの闘気がエルネアの全身から放出されます。ただの脅しではないことを、蒼く燃える瞳が物語っていました。彼女はミモルの耳元に唇を寄せました。
「いやぁね。別に危害を加えたりなんてしないわ。……こんなに小さな女の子を戦場に駆り出すなんて、馬鹿げた親もいたものね?」
囁きに、ぴくりと少女の体が震えます。
いない。私には、親なんていない。
クピアはなおも続けます。その声は柔らかくミモルの耳から心の内へと溶けていきました。
「昔ね。この国は争いを起こしたの。たくさん、たくさんの犠牲者が出た。親は子どもを守るために何をしたと思う?」
またぴくりと体が震えます。
犠牲……。守る、ために。
「親達は遠いところへ預けたの。やがて戦争が終わって、再会出来た親子もいた」
「まずい」
ムイは舌打ちし、ナドレスは怪訝そうに顔を歪めます。
「まずいって何が。あいつは気絶したミモルに話しかけてるだけじゃないか」
ミモルはぐったりとして動きません。幸い、胸が上下していることから、命に別状はなさそうです。その彼女に何かを囁いたところで、何が起こるというのでしょうか。
「あの女、心を惑わす術者かも」
はっとしたエルネアが心の声で叫びます。
『ミモルちゃん、聞いちゃ駄目っ!』
「きゃっ!?」
途端、耳の奥で何かが破裂しました。届けようとした声が見えない壁に跳ね返ってきたような感じです。
クピアが「もう時間切れ」と言って笑います。三度視線を少女に戻し、最後の一言を呟きました。
「そうじゃなかった親は、この国の王が招いた戦いの火に、焼かれてしまったのよ」
すっとミモルの目蓋が開きました。けれども、そこにいつもの光は宿っていません。青く、暗く、沈みきった海の底のような色をしていました。
「……私のお父さんとお母さんは、この国の王様に殺されたの?」
「そう。身勝手な欲望に巻き込まれて命を落とした」
ゆっくり、自らの足で立ち上がります。
「じゃあ、ティストは」
「あなたの両親の仇の子どもよ」
「そんなの出鱈目よ! 信じちゃいけないわ!」
冷静に考えれば、それが事実かどうかなど分からないと気付くでしょう。でも、恐れを吹き込まれたミモルにはそれが出来ませんでした。
友達になった少年が両親の仇の血を引く者かもしれないという事実が、彼女から思考や判断力を奪っていました。
「戻ってきて!」
今度こそ助けようと走りこんだエルネアは、強く腕を伸ばします。――その手は強い調子で弾かれました。
「……どうしたの?」
笑いかけているつもりでも、口の端が引き攣っていることに嫌でも思い至ります。ミモルは、はっきりと言いました。
「私は、戻らない」
体が氷のように硬直します。あの真っ直ぐな眼差しは、そこにはありません。何も映さず、全てを吸い込む虚ろな闇があるだけです。
「ど、どうして? 早くティストを助けにいかないと大変なことになるのよ?」
「まだ分からないの? あんまり頭、良くないみたいね」
二人を遮ったのはクピアでした。苛立たしげに舌打ちして、エルネアを指差します。
「さぁ、復讐に行きましょ。その前に邪魔者を掃除してから、ね」
彼女に言われるがまま、ミモルの腕がすっと上げられました。
「炎よ。紅く染めよ」
ごうっ! 声に応えて炎が庭園を舐めるように走り、互いの背丈ほどの高さに燃え上がります。
まだ、直接鎌首をもたげては来ません。それでもノドの奥が灼けそうに熱く、皮膚がぴりぴりと痛みました。
「やめて!」
エルネアは炎を纏った少女を前に、涙が滲みそうになりました。
『火や雷だってあなたを守ってくれる素晴らしい力よ。どうして使おうとしないの?』
ミモルは力を制御しようと訓練してきましたが、炎と雷の精霊には力を借りようとしなかったのに、今は違います。
攻撃は最大の防御でもあります。自らが危険にさらされた時、その二つは頼もしい刃となるはず。そう諭した時、少女は首を振りました。
『だって、人を傷つけそうな力だもん。私には必要ないよ』
エルネアは子どもに刃物を持って戦えと強要していることに気付き、後悔したのです。
あんな旅を経験したせいで、早く自分を守れるようになって欲しいと急がせてしまっていました。そのミモルが炎を操り攻撃してくる現実に、胸が締め付けられます。
ムイは思考を巡らせました。このままでは時間を浪費するばかりで、それこそ相手の思う壺です。
「仕方ない……」
彼女は眉間に皺を寄せて呟き、躊躇っていた選択をしました。
「なっ!」
どんっ。ナドレスが気付いた時には、もう体は後ろへと投げ出されていました。エルネアによってぽっかりと開かれた暗い穴へと、背中から落ちていきます。
どういうつもりだと叫んでも、神の使いは手を突き出した格好のまま振り向きもしません。
「こっちは手、余ってるから」
「! ……解った」
たったその一言で、彼は理解しました。自分を信じ、主の元へ行かせてくれたことをです。
床は思いのほか遠く、ナドレスはその間に翼を羽ばたかせました。闇の中で一点、小さな灯りが見えます。その光に向かって、一直線に飛んでいきました。
「ムイ、絶対に当たらないで!」
「当たり前でしょっ」
繰り出される熱の塊を、エルネア達は右へ左へ体をよじって避けました。辺りはすでに火の海です。普通の人間なら火傷は避けられなかったでしょう。
そんな熱さに耐えながら、二人は逃げ回っていました。着実に距離は詰めています。
戦い慣れていないミモルの力は直線的で読みやすく、二人ほどの実力の持ち主であれば避けることは難しくありません。
「あなたはナドレスを追って」
「余裕がありそうにも見えないけど?」
ミモルを操る敵の術は、心に揺さぶりをかけ、その隙を利用したものです。精神への干渉を抑えられた状況の中、手助けを拒む理由がムイには理解出来ませんでした。
「……可能性は?」
「低くはないと思うわ」
「あ、そ」
返事は簡潔なものでした。彼女はひらりと後ろへ跳び、手を一振り、穴へと吸い込まれていきます。それをエルネアは目で確認し、静かに問いかけました。
「これで良かったのよね、リーセン?」




