第六話 二つのかげ
痛い描写があります。ご注意ください。
「げほっ、ごほっ!」
落ちていくと思っていたのに、唐突に強い力で引き上げられ、始めは気が付きませんでした。
理解した頃にはすでに咳き込んで胃や肺を侵していた水を吐いており、それがおさまってから見上げると、目の前には先ほどの精霊の姿があります。
「わっ。う、浮かんでる……!?」
二人は水面に佇んでいました。
自分を中心に波が広がり、その上に座り込んでいるのです。掴んでいた腕をウォーティアが離し、怪我はないかと聞いてきます。
『せっかく、久方ぶりに現れた契約者をこんなことで失うわけにはいかない』
「あ、ありがとう。……さっき、私を押したのは誰?」
静かに精霊の指先が一点を示しました。そこには、木の陰に立ち尽くすエルネアがいて、ミモルの思考をかき乱します。
「まさか、エルが」
「よく見ろ」
きつい口調で遮られ、改めて目をこらすと黒い影が飛び込んできました。
エルネアが白く光を放つかのように見えるのとは対照的に、その影は夜に溶けてしまいそうに見えます。
「お久しぶりってところかしら?」
高い声とともに、影が揺れてこちらへ向き直りました。対峙するエルネアなど意に介さず、月明かりが射す場所へと身をさらします。
それは、エルネアに勝るとも劣らない美しい女性でした。紫の髪を頭の上で束ね、肌の露出が多い服に身を包んでいます。
ただし、纏っている空気も、背に負うコウモリを思わせる黒い翼も、見つめられると背筋が凍り付きそうな瞳も、エルネアとは全く違いました。
「あ、悪魔……!」
ミモルはすでに、その姿にぴったりの名前を知っていました。
「やっと、新しいゴシュジンサマがアタシを喚んでくれたんだから、邪魔しようなんて考えちゃ駄目よ」
「ダリアはどこっ!?」
ミモルは反射的に叫びます。この生き物が、自分を殺そうとしたのです。彼女は弾かれたように水を蹴り、詰め寄ろうと駆け出しました。
「ミモルちゃん!」
掴まえなくちゃ。絶対、ダリアを取り戻さなきゃ。
脳裏には閃光になって消えていった母親の姿が、張り付いて離れません。これ以上、家族を亡くすことなど考えられませんし、考えたくもないのです。
「ダリアを返してっ」
「アンタにウロチョロされると迷惑なの。もう一回、いってらっしゃい? 今度は上がって来なくて良いからねぇ」
ひらりと悪魔が舞い上がりました。
首もとを掴み損ねたミモルの、視界から消えた悪魔は頭上を飛び越えます。少女の背中に、さっきとは段違いの衝撃が襲いかかりました。
「っ!」
はね飛ばされ、ミモルは再び深い深い泉の底へと落ちていきます。
今度は精霊の助ける間もないほど、激しい勢いで底へと叩き付けられるようにです。
……い、いきが。
一度は空気で満たされた肺は、空っぽだった分、水を勢いよく吸い込みました。
瞬時に眩暈に襲われ、上下左右の感覚も麻痺します。多分、自分は下に向かっているはずだという、曖昧な想像しか浮かびません。
光が届かないのか、それとも目を開いていないのか、視界には闇が広がるばかりです。そんな状態に陥ったとき、ふとあることを思い出します。
そうだ、儀式の夢……。
あの時は、結局暗闇のまま夢が途切れました。今度もまた闇の中で意識が途切れそうです。
あれ?
不思議と苦しさが薄らいでいきます。死が迫っているからでしょうか。肉体から魂が抜けて、この世との繋がりが切れていく証拠――?
「ミモルちゃんっ!」
エルネアは主を追って水へ飛び込もうとする腕を絡め取られました。見れば、悪魔の暗い色をした瞳が目の前にあり、ねっとりとした声で囁きました。
「ふふっ、何を狼狽えてるのよ。あぁ、アタシはマカラ。良い名前でしょ」
名乗られた瞬間、エルネアの頭のすみで何かが疼きました。が、それはほんの一瞬のことで、突き止める前に更に指が腕に食い込んできて、消えてしまいました。
「……っ」
反論をしようにも、背中を冷たい何かが伝うような響きを耳にしているだけで、足が石になってしまったような感じです。
悪魔は満足げに嗤うと、今度は痛いほどの殺意を向けてきました。
「でも、自己紹介しておいてナンだけど、……アンタには消えてもらう」
強い力で羽交いじめにされ、ぐぐっと体を締め上げられていきます。
「う、うぅ」
マカラの長い爪が刺さり、切れたところから血が滲みました。エルネアの白かった服が、あっという間に朱に染まっていきます。
「う、あぁっ」
思わず呻いたのは、痛みからだけではありません。
「ほら、いいの? 早くしないと、大事な大事なご主人様が……」
言われるまでもないことです。この間にも少女は水の中で苦しんでいるというのに、守るべき自分は何をしているのだろうと思うと胸が痛みます。
「あ、あなたのご主人様……ダリアはどうしたの」
苦々しく思いながら、絞り出すような声で問いかけました。
マカラには、このままエルネアを切り刻むつもりはないらしく、一定の強さ以上に力を込めてはきません。
それは、契約主であるミモルを失うことが、そのままエルネアを消すことに繋がるからでした。こうして待っているだけで、敵を抹殺することが出来るのです。
「あぁ、あの子」
返事は素っ気ないものでした。
まるで今まできれいに忘れていたみたいな口ぶりです。事実、こうして召喚された今となっては、生かしておきさえすれば良いのでしょう。
「少し暴れたから、黙らせちゃった」
苛立ちを思い出したのか、笑っていた顔を歪めます。
同時に力が余計に加えられ、エルネアはなんですって、と言おうとした唇をきつく結びました。身動きが取れない自分の情けなさに、嫌気がさしてきます。
悔しさの中、悪魔を睨み付けていた視線を泉に投げました。そこにはすでに泡も波紋も浮かんではいませんでした。
下が明るい……。
ミモルは重力に逆らうこともやめ、ひたすら落ちていきました。感じるのは、先ほど落ちた時にも見た不思議な明るさです。
眩しくはありません。地面がほんのり光っているに過ぎないそれは、死後の世界への入り口なのかと思わせるものでした。
私は死んでしまうのかな?
しかし、それは全くの間違いだということを、リーセンの「見なさい!」という耳を突き破りそうなほどの叫び声で知りました。
「なに、これ」
肌が震える衝撃に突き動かされ、泉の底を最後の力で見たとき、ミモルの全身が総毛立ちました。
「見たままよ」
リーセンが冷静に応えます。いつの間にか一つの唇が二つの意識を声にして発していることにも気付かずに、少女たちは囁き合っていました。
頭から落下していたところを、体をねじってなんとか足から着地します。底にたまった細かい砂粒がふわっと浮き上がり、またゆっくり落ちていきます。
息苦しさは消えていました。煙のように立ち上った砂が収まると、再び「それ」は現れたのでした。
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