第十二話 とどろく叫び
するっとムイは顔を引き抜き、「バッチリ」と笑いました。
「別にアルトを疑うわけじゃないけど、あっちも何か仕掛けをしているかもしれないし。念には念を入れないとね」
「仕掛けって?」
「無理矢理通路を作って通ろうとする者を排除する罠なんて、いくらでもあるってこと」
苦痛を与える手段は暴力だけではありません。かつての旅でそのことを味わったミモルは、それ以上の思考を止めました。
ムイが安全だと判断したのです。ならば杞憂に利点などありません。
「えと、じゃあ通るよ」
恐る恐る手を伸ばし、指先で触れてみます。光の断面が波打ち、向こう側に廊下が透けて見えました。
えいっと気合いを入れて飛び込みます。大丈夫と頭では分かっていても、気付かず目を瞑っていました。
「出られて良かったわね」
「あ、うん」
後ろから聞こえたエルネアの声が強張った体を解します。敷かれた絨毯をしっかりと踏みしめ、左右に続く廊下を観察しました。
「すごいね」
「それでは失礼致します」
一番最後にアルトが扉を抜け、開いた時と同じ仕草で空間を閉じます。用件を終えて帰ろうとする彼女にムイが軽く礼を言い、ミモルも慌てて頭を下げました。
「行っちゃったね」
「アルトも忙しいからね。今回は緊急事態だったから反則技を使わせて貰ったけど」
言って、踵を返し歩き出そうとする神の使いの背を、ミモルは再度呼び止めます。
「さっき言ってた『嫌な予感』って何なの? 教えてよ」
「いや、でも……」
「もう、知らないままなのは嫌なんだよ」
ミモルは唇を噛みしめました。この世は善悪だけで測れるものではありません。それも旅の中で彼女が苦しみと共に学んだ事実でした。
害をなす相手を憎むばかりだったなら、きっとあの哀れな悪魔を救えはしなかったでしょうし、姉も取り戻せなかったと思うのです。
エルネアと二人きりで暮らす穏やかな日々は、少女の気持ちをこんなふうに昇華させていました。ミモルは一つ一つを、息を区切るようにして言い切ります。
「私は、知らない悲しみより、知る痛みを選びたいの」
「ミモルちゃん」
エルネアはぎゅっと服の裾を掴み、この瞬間を目に焼付けました。出会った頃、ミモルは失ったものの大きさに打ちひしがれ、虚ろな空洞のようでした。
それがひどく昔のことのように思えるほど、今の彼女の瞳は強い光を放っています。
「推論の域を出ない話でも?」
「だったら一人で考えるより、みんなで考えた方がいいよ、絶対」
ムイが腕を組み、真剣さの度合いを測るように呟くと、ミモルは笑って断言しました。神の使いは毒気を抜かれたような表情を浮かべ、手をひらひらと振ってみせます。
「分かった。私の負け。……私達の探し人が、ティストかもしれないって予感、するのよ」
数秒、空気が凍結されたみたいに、息を詰める音しか聞こえなくなりました。
「どういうこと?」
エルネアの声は驚きで裏返っています。彼女にしては珍しく冷静さを欠いた発言です。ムイに説明を求め、肩を掴んでガクガクと揺さぶりました。
「ちょ、ちょっと、揺すらないでくれる? ……気持ち悪い」
「え、あぁ、ごめんなさい。それで、一体どういうことなの。ちゃんと説明して」
乱れた息を整えたムイが、壁に背を預けて足を組みました。握った拳から指を突き出しながら、理由を話します。
「一つ目は、ティストの血の由縁の謎。二つ目は、王族に取り入ったくせに権力に興味のなさそうな敵」
ミモルは自分が寒くもないのに腕をさすっていることに気が付きました。ムイは口の端だけを上げて自嘲ぎみに笑います。
「妄想の飛躍だと思う?」
「何の話だよ」
ぽつり、と困惑を漏らしたのはナドレスです。彼は不満を隠そうとはしませんでした。
「まだ聞いてなかったよな。お前達は一体何のためにここへ来たんだ? ただの観光じゃないんだろ。神の使いまで連れてるんだから」
無理もないことです。事件の現場に喚ばれ、ここまでまともな説明がなかったのですから。ムイはミモル達の視線を受け、髪の毛をくしゃくしゃと掻きむしりました。
「時間もないから要点だけ教えとく。ただし、歩きながらね。さ、とっととティストの居場所を教えなさい」
「ここは……」
ティストは冷たい感触に目を覚ましました。闇でこそないものの、とても薄暗いところです。瞳がじょじょに馴染むにつれ、冷たい石造りの回廊だと解ってきます。
自分はどうしてこんな場所に居るのでしょう。気を失う前の記憶を探ろうとして、ぎくりと肩を震わせました。
「そうだ。あいつが現れて、僕を」
「物覚えがよろしくて結構」
わっと口から溢れそうになる悲鳴を手で押しとどめます。叫んでしまえば何かが壊れる気がしました。
「ようこそいらっしゃいました。王子様」
「ロシュ……」
まるで影が千切れて人の形を取ったかのように、その男は現れました。ただそれだけで、全身を怖気が走ります。
「その喋り方をやめてくれ。鳥肌が立つ」
平静を装ったつもりでも、相手には震えが伝わってしまいそうです。ロシュはそんな精一杯の強がりを知ってか知らずか、にやりと笑いました。
「ハイハイ。まぁ、なんでもいい。こうしてようやく主役を招く事が出来たんだ。入念に準備をしたかいがあったというもの」
「主役? 準備?」
カツカツと靴が鳴ります。彼は通路に等間隔に設置された燭台へ、手前から奧へと一つひとつ火を灯していきました。
「そう。ずぅっと探していたんだよ。君をね」
「城の外へ逃げたから?」
はははっという乾いた笑いで、ティストは見当違いの発言をしてしまったことに気付きます。声が狭い空間に響いて、頭の中にまで染み込んでしまいそうに思えました。
「城へ入り込む前から、僕が狙いだったのか?」
この男のことを、ティストは多く知りませんでした。少しでも良い位置に収まろうと、国王に取り入る者達の一人としてしか認識していなかったのです。
それが、いつの間にか王の、父親の絶大な信頼を得ていました。
しかし、それはあくまで王への媚びに過ぎず、息子である自分には最低限の礼儀や注意しか払っていないと、ティストは感じていました。
「そんな素振り、ちっとも見せなかったじゃないか」
ロシュはくつくつと笑います。楽しくて仕方がないといった様子です。
「最初は国王の方だと思っていたからね。そうじゃないと知ったところで態度を変えちゃあ、あからさまだろう?」
この男はそ知らぬふりをして、横目でずっと自分を観察し続けてきたのです。ティストの中で、恥ずかしさと怒りが湧き上がりました。
「父に、みんなに何をしたんだ! この城を、オキシアをどうしようというんだ!?」
恐ろしい記憶が蘇ります。逃げることしか出来なかった時の無力さを、全て吐き出してしまいたい衝動に駆られました。
「国に興味なんてないさ。俺の欲しいものを得るために、君が必要なだけでね」
「だから、何をそんなに欲しがって――」
明かりが完全に灯ると、通路の向うまでが見渡せました。少年の焦りを、ロシュの視線の先にあるものが奪います。言葉を失い、ティストはよろよろと立ち上がりました。
「な……まさか、嘘だ。そんなはずない」
信じられない光景に、それでも足を止めることが出来ず、一歩一歩それに近寄っていきます。じゃらり、と金属音が床を這いました。
「何年ぶりだい? 随分精神をすり減らしたみたいだけど、原形くらいは留めておいてあげたよ」
どうして? どうして、こんなところに。
疑問は脳裏を巡って、思考を停止させようとします。数歩進み、はっきりとティストは「それ」を見ました。
「ああ、あああぁ……!」
今度こそ全てを吐き出すような絶叫が、通路の壁という壁をびりびりと叩きました。




