第九話 王のしろへと
「何人目?」
「何が」
「その様子だと契約したばかりのようだけど……そこの王子様で何人目だって聞いてるの」
ミモルはムイの冷たい物言いに、薄氷の上を歩くような心地を味わっていました。
『主の人数って記憶がなくても分かるものなの?』
天使は主人に喚ばれ、その命が尽きると天に還り、記憶を封印されます。そしてまた次の人間に呼ばれるのを待つ、というサイクルを繰り返しています。
『そうね……、厚みは見えるのに開くことが出来ない本をイメージして貰えば分かりやすいかしら』
大きさや読んだことは覚えているのに、ぴったりと閉じてしまっている本を想像してみます。ミモルにはやり切れない思いがしました。
エルネアは何人目なのでしょうか。気にはなりつつも、とても訊ねる勇気は起こりません。
それは、古い傷口を覗いて「どうして怪我をしたの」と聞くような行為だからです。
「どうしてそんなことをお前に言わなきゃならないんだ」
「もしかして数、数えられないとか?」
「ふざけるな。そんなわけあるか」
「じゃあ何人目?」
ナドレスはしばらく逡巡し、やがて絞り出すように言いました。
「……一人目だ」
意味を知らないティストを除き、そこにいた全員が驚いたと同時に合点もいきました。
主の人数は多ければ多いほど長く生きていることを示し、守護者として熟練していることになります。
ナドレスが言い渋ったのは、初任務だと知られるのが嫌だったからに違いありません。
「どうしたものかしらね」
最初に緊張の糸を切ったのはムイで、こめかみをぐりぐりと指で押し込んでいます。
「さぁ、今度はそっちが答える番だろ。お前は何者なんだ?」
「あのねぇ。仮にも天使なら、会ったことくらいあるはずでしょうが」
しかし、彼は首を捻っています。埒が明かないとばかりにエルネアが簡潔に言いました。
「彼女はムイ。クロノ様の使いよ」
「い……!?」
彼のショックは相当のものだったようです。二の句が継げないらしく、口をぱくぱくと動かすだけで声になりません。
「あの、僕にも教えて欲しいんだけど」
おずおずと言葉を挟んだティストに、エルネアも笑顔を取り戻しました。彼が知らないのは当然のことで、ぴりぴりとした空気を味合わせるのは可哀相というものです。
「ムイは神々の側近のような存在なの。今は事情があって私達と行動を共にしているのよ」
「初めましてが遅くなって申し訳ないわね。私はムイ。ってことでよろしく」
少年は握手のために差し出された手を握り返すのに数秒を要しました。今の今まで明らかに苛付いていた彼女が、急ににこやかになったせいです。
ただ、その辺りは王族としての躾の賜物か、社交場で見せるような笑顔を取り繕いました。
「テ、ティストです。よろしく、お願いします」
「やだなぁ。敬語なんていいってば。かた苦しいの嫌いだし」
「じゃ、じゃあ……よろしく」
二人が距離を縮めつつある間、ナドレスはまだ立ち直れずにいました。
そういえば見たことがあるような、などとブツブツ呟いています。痺れを切らしたムイは盛大に溜め息を付きました。
「ちょっと、まだ狼狽えてるの? 今すぐしゃんとしないと、使い物にならないって報告するわよ」
「なっ……するっ。しゃんとするからそれだけは止めてくれ!」
「なんだか先生と生徒みたいだね」
「というより、上司と部下かしら」
慌てふためくナドレスに登場時との落差を激しく感じてしまい、ミモル達も苦笑いです。
「でも、初めてだということが先に分かって良かったわ。いざという時の失敗の要因になりかねないところだったもの」
冷静に分析するエルネアの言葉には、安っぽい同情など一切ありません。天使が使命を果たせなかった時、それは主の死を意味するのです。
そこに曖昧な感情を差し挟む余裕はありません。
「『いざという時』? どういう意味だ」
ナドレスは真剣な眼差しで自分を見詰める瞳に怪訝な表情を返します。召喚されて間もない彼は、まだ事態を完全に把握している訳ではありませんでした。
「ムイ、もしかしたら私達の追っていることと、この国の騒ぎには関係があるかもしれないわ」
エルネアが言い、ムイが頷きます。
「丁度そう思っていたところ。この二人も巻き込まれ組決定みたいだし、手っ取り早く話してしまった方がスッキリしそうだわ」
事情説明は落ち着いてからと一端保留し、当初の目的どおり城へ向かったミモル達は、ティストの案内で裏側へと回りました。
上空から植え込まれた木々の茂みを越え、二階から突き出たベランダのうちの一つに静かに降り立ちます。
外壁は首を痛めそうな高さにそびえ立ち、等間隔に見張りが配置されていました。これほど大きな建物を見たことがなかったミモルは不思議に思います。
「どうして門でないところにも兵士がいるの?」
「ロープとかを使って忍び込もうとする人間がいるからだよ」
「それって、やっぱり悪いことをするために……だよね」
絶え間なく歩き回っているのは、ティストの捜索にかり出された捜索隊でしょうか。
ミモルは圧迫感を覚えてふぅと息を吐きました。風を解き放つと、かかっていた負荷がなくなったおかげで体が軽くなります。
森での生活は閉鎖的ではありましたが、他者の悪意からも遠ざかっていました。街に出てみると、身に付けた力のせいで人の心の動きに影響されそうになります。
「ミモルちゃん、大丈夫?」
「うん。そういえば、さっきの人……」
――気配が全く気取れなかった。
そう言いかけて、恐怖が沸き上がりました。あのタイミングでナドレスを召喚していなければ、文字通り消されていたかも知れないのです。
「幸運、だったんだよね」
「顔色が悪いよ。さ、中に入って」
ベランダの窓を開き、ティストは彼らを室内に招き入れました。
柔らかい絨毯に天蓋のあるベッド、高級そうな装飾のソファ、テーブルに椅子、金で縁取りがされた本が並ぶ書棚……。
それだけの物が置かれているのにゆったりと感じるほど、部屋は広いものでした。
「安心して、僕の部屋だから」
「ティストって本当に王子様なんだね。こんなに広くて素敵な部屋は初めて見たよ」
「お世辞でも嬉しいよ」
田舎育ちの少女が興奮気味に言うと、彼は苦笑しました。
「お世辞なんかじゃないよ。私の部屋の何倍もあるし、家具も高そうで立派だし」
置かれているものはきっと、どれも目の眩むような値段のものばかりです。
「ミモルはどんな家に住んでいるの? ここは確かに広いかもしれないけど、僕一人で過ごすには、ちょっとね」
そうかもしれない、とミモルは思いました。心から信用出来る者のない、ただただ広いだけの空間は物寂しく息苦しいのでしょう。
「うちはここより狭いけど、エルと二人でいると暖かい感じがするかな」
いつか増築するつもりなんだ、と口の中だけで続けます。本当はもう一つ多く部屋を設けるはずだったけれど、敢えて作りませんでした。
通り過ぎるたびに寂しさが募りそうだったからです。いつ帰ってくるかも分からない姉のささやかな荷物は、全てミモルの部屋の隅にまとめて置かれてありました。
そんな胸中など知る由もないティストは、無邪気に「へぇ、羨ましいな」と笑ったのでした。




