第六話 夢からのこえ
「そちらこそ、天使のクセに私の魂を狩る気?」
かつて戦った悪魔も、似たような台詞を言っていたのをミモルは思い出します。天使とは人々が想像する慈悲深いだけの存在ではないのです。
きっと、闘気を発する今のエルネアに真正面から見つめられた者は戦慄を覚えるのでしょう。
「退かないというのなら、その魂を肉体から解放して神々に献上することになるわ」
『私が相手を引き受けるから、ティストを連れて逃げて』
肉声と心の声とが同時に聞こえ、ミモルははっとしました。背中を見詰めかけ、視線を敵に戻します。
彼女に振り返る素振りはなく、こちらの会話を悟られないようにしているのだと分かります。でも、外に出たら追いかけてくるに決まっています。
ここがいくら静かだといっても、先ほどの破裂音に気付いた誰かが訝しがって寄ってくるはずで、関係のない人まで巻き込んでしまいます。
『絶対にあいつを外へ出さない。時間を稼ぐから』
『ムイを呼んで来るの?』
ムイの力は未知数ですが、仮にも「神の使い」を名乗る存在です。助けになってくれるでしょう。
けれどもエルネアは、違う、と言いました。そして続けた指示に、ミモルは再び目を見開きました。そんな。思わず声を上げそうになり、自分の手で押さえ込みます。
『さぁ、行くわよ』
エルネアは地面に散らばった硝子片を一つ拾い、さっと相手に投げつけました。光が弧を描き、素早く飛びます。
「なんのつもりかは知らないが……」
パァン! 敵の手に触れる前に、何かにぶつかったかのように弾けて粉々に砕け散りました。小さな欠片は砂粒にまで拡散し、一瞬、相手の目をくらまします。
「今よ、走って!」
背中を強く押し出され、ミモルはティストの手を取って走り出しました。二人の心の中でのやりとりを知らない彼は、急に引っ張られて短く「わっ」と叫びます。
「付いてきて!」
相手の能力が分からない以上、こちらが圧倒的に不利です。ここはエルネアの言うとおり、逃げて機会を窺のが得策と思われました。
敵の視界をすり抜け、二人は真っ直ぐ出口を目指します。扉をくぐる瞬間、パートナーの声が胸に響きました。
『振り返らないで走って! ティストのこと、お願いね』
「待て!」
制止の声と共にひゅっ、と何かが風を切りました。
それはエルネアが幾重にも構えた硝子片が敵に向かって飛んでいく音でしたが、ミモルがそれを知ることはありませんでした。
敵の視界から抜け、二人はなんとか外へ出ます。教会の建物の周りに植えられた草花の茂みに分け入り、姿勢を低くして乱れた呼吸を整えます。
「こんな近くじゃ逃げても意味ないよ。もっと遠くへ行かなくちゃ。仲間を探すんでしょ?」
ティストはこの行動に疑問を隠しません。確かに、逃げるならこの距離では無意味です。少々身を隠したところで見付かるのは時間の問題です。
「逃げるのはやめ。エルを助けなくちゃ」
「え……、どうやって?」
しかし、そこで少女は逡巡を見せました。光を宿した瞳が伏せられます。それは彼の目に、告げるべきか否かをひどく迷っているように見えました。
「作戦がありそうだね」
ティストが先を促します。ほんの僅かに言葉を交わしただけの間柄だったけれど、互いに信頼を覚えていました。
その彼女が渋るのだから、よほどのことなのだろうと察します。ミモルは視線を受け、迷いを振り切って話し出しました。
「私、これからティストにひどいことを言う」
「ひどいこと?」
『あたしから教えようか』
リーセンの申し出にミモルは首を振ります。本当は言いたくありません。でも、彼を助けると言ったのは自分です。
そして、エルネアを助けたい気持ちも、確かに自分のものです。ティストの肩に触れました。服越しでも、しっかりとした骨格を感じました。
「聞いたら、もう戻れない。辛い出来事が待ってる。それでも、私はティストをこちらの世界に引き込もうとしてる」
「……いいよ」
ミモルは今度こそ真っ直ぐに彼の顔を見ました。「何の話?」と問い詰められると思ったのに、ティストは優しく微笑むことで許しを表します。
「僕のこと、助けるためでしょ」
「うん」
「じゃあ、僕と友達になってくれる?」
「もう友達だよ」
「なら、いいよ。ミモルを信じるって決めた」
訳もなく涙が出そうになり、口からは懺悔が零れそうになって、どちらも飲み込みます。
「ティストは私と同じ、女神様の血を引く人間なの。お願い、天使と契約して」
『ティストを目覚めさせて』
エルネアの指示が耳に蘇ります。彼を覚醒させ、戦力に加えようというのです。
ミモルは出来ることなら彼をそっとしておいてあげたかったし、パートナーも重々承知していました。その上で選択したのです。
彼は両手を交互に見、自分のどこにそんな可能性があるのかと不審がりました。
「天使と契約……? 僕にそんなこと出来るの?」
「夢でティストを呼んでいるのは、パートナーの天使だよ。その声に応えるの」
「ミモルはそうしてエルネアさんと出会ったの?」
「私の時は――」
胸がちくりと痛みます。あの時は聖女の導きで正しく召喚の儀式を行いました。
「私の時は、お母さんが手助けをしてくれたの。だから、今度は私がティストの手助けをするよ」
ミモルは彼を不安にさせないように、語気を強めました。本当はやり方など知りません。教わる前に、養母とは永遠の別れになってしまったからです。
もし何事もなければ、きっと今頃自分も聖女の知識を受け継ぐべく、故郷の家で勉強をしていたのでしょうに。
「気持ちを落ち着けて。自分の内側に意識を持っていって」
「う、うん」
二人は瞳を閉じました。世界が真っ暗になります。ティストには、少女の手が肩を優しく掴んでいる感触だけが感じられました。
「耳を澄ませて。毎晩夢を見るのは扉が開きつつある証拠だよ。起きていても声が聞こえるはず……」
天との扉。そうイメージした途端、真っ暗な世界に光の筋が生まれました。それは上が円を描いた扉の輪郭に変わります。
「これが、扉……?」
「こんなにはっきり見えるなんて、凄いよ」
手伝いをするミモル自身、彼の意識が集中し始めたのを感じ取りました。互いの距離は変わらないのに、何かに吸い寄せられていくみたいです。
『こっちまで飲まれないように加減しなさいよ』
『飲まれる?』
深くシンクロしていく途中で、リーセンの忠告が発せられました。
『ティストにあまり同調しすぎると、こっちが危ないってこと』
本来、召喚の手助けとは重い扉を押す者に声をかけて応援するような作業ですが、儀式の仕方を知らなかったミモルは、後ろから背中に手を当てて力を加えていく方法を取っていました。
唐突にぞくり、と何かが少女の背を走ります。
「声が……聞こえる」
「なに、これ」
ティストが言い、確かにミモルも耳障りな何かを聞きました。たとえるなら、「光の糸」でしょうか。エルネアとの繋がりよりずっと希薄で、今にも切れてしまいそうな糸です。
そして、気分が悪くなってきました。汗が滲み、地面がぐらぐらと揺れて――。
『あんたにまで声が届くなんて、同調のし過ぎよ。手を離しなさい!』
はっとして目を見開きました。同時に触れていた手を離し、尻餅を付いて後ろに倒れ掛かります。全力疾走した後みたいに息が乱れました。




