第五話 くろい刺客
多少、痛い表現があります。ご注意下さい。
「じゃあ、成功だね」
「えっ?」
にっこり笑って言うミモルに、ティストも目線を合わせてきます。そっと、少女はその拳を包むように握りました。緊張して汗ばんでいるのに、随分と冷たくなっています。
「もっと詳しく話を聞かせてくれないかしら」
彼はぽつりと「うん」と呟き、深く頷きます。一つ一つ起こった出来事を鮮明に思い出しているのか、言葉を確かめながら話し始めました。
「お父さんの玉座から、黒い煙が出てきたんだ。でも、変なんだ。僕はびっくりしてるのに、他のみんなには見えてないみたいだった。そのうち謁見の間全体に煙が溢れて、みんなの目つきが変わって、僕を」
そこまでで言葉が途切れます。彼は恐ろしい体験を反芻したせいか、よろけて両膝を付きそうになるのをぐっと踏み止まりました。
「黒い煙って、まさか」
「そんなはずはないわ」
青い顔で先を続けようとしたミモルを、エルネアが遮ります。けれども、抑えようとしても止め処なく蘇る記憶がありました。
それは、穢れた空気に命を奪われた義母の姿です。また、誰かが辛い思いをしなければならないのでしょうか。
自分よりずっと顔色を失った少女を、ティストが心配げに覗き込みます。
「ミモル、どうしたの? ごめん。怖がらせちゃった?」
女の子にはショックが強い話だったかもしれない。そう思い、肩に触れようと手を伸ばした時。
パリィン! それは、耳を容易に貫き、全身に嫌悪感が走るほどの高音でした。
「なっ、何の音……きゃあっ!」
「危ないっ」
見上げかけたミモルとティストが目にしたのは、しかし天井ではなく、覆い被さってくるエルネアの影です。
がしゃがしゃっという落下音が絶え間なく続き、彼女の腕の隙間から見えた光の粒で正体を知ります。
くるくると回りながら、様々な角度から陽の光を受けて煌めいていました。
「これ、ガラス……?」
教会の窓硝子が砕けて、雨のように降り注いでいるのです。
やがて身の毛のよだつ瞬間が過ぎた頃、ミモルは強く自分達を抱え込んでいた力が弱まったのを感じて、素早く体を押しのけました。
「エル、大丈夫っ?」
色とりどりのステンドグラスが鋭い刃となって、天使の背を何カ所も斬り付けている様を想像し、ぞっとします。
服が破け、白い肌があらわになり、突き刺さったところから鮮やかな血が滲み出ているところをです。
「二人とも、大丈夫?」
ミモルはのどに詰まった息をゆっくりと吐き出しました。彼女は翼を天蓋のように広げ、凶器の雨を防いでいました。
天使の羽根は見た目よりずっと丈夫なのです。さっと欠片を払うと、そこには傷一つ付いてはいませんでした。
「翼……」
「あっ、ここ切れてるよ!」
ティストが目の前の光景に息を呑んでいるのを感じましたが、今は説明している時間がありません。気付いたのは背中から顔へと視線を移した時でした。
すっと一本の線が引かれたように白い筋がエルネアの右頬に走っており、そこから赤い血がツ……と零れてきていました。
「平気よ、これくらい」
「駄目だよ」
美しい顔だから、だけではありません。大事な人の顔に、自分を庇って受けた傷跡が残るのは、自分が傷つくよりもずっと辛さを感じます。
ミモルが手をかざし、痛みと苦痛を和らげようと意識を集中しました。まだ癒しの力については未熟ですが、何もしないよりはずっとマシなはずです。
お願い。
指先がかすかに震えました。もしかしたら全員酷い怪我を負っていたかもしれません。
『しっかりしなさい。手伝うから。さぁ』
近く耳にしなかったもう一人の自分――リーセンが、すぐ傍で導いてくれようとしています。矛先の決まらない指に優しく手が重ねられる感覚が生まれました。
「見付けた……女神の末裔。我が主の名の元に消えてもらう」
けれども、これからという瞬間に割り込んできたのは、硝子片を踏み割る靴音と女性の声です。
黒い女性でした。全身を覆う黒いドレスに漆黒の髪。真昼に闇が生まれたかのようで、胸がざわつきます。彼女が誰だかも、何故攻撃を仕掛けてくるのかも解りません。
ただ、瞬時に本能で感じました――敵だと。
「ミモルちゃん」
「分かってる。ティストは逃げて」
こうなっては治療どころではありません。気持ちを切り替え、状況が全く飲み込めていない彼に努めて優しい口調で諭しました。
「狙いは私達だから。逃げれば追ってこないはずだよ」
「で、でも」
エルネアも二人を守りながら戦うのは荷が重いはずです。ミモルは視線を彷徨わせるティストの腕を掴み、耳元にしっかりと告げました。
「なら、助けを呼んできて。仲間を、オレンジ色の髪と、赤い髪留めの女の子を探して。近くにいるはずだから」
「わ、わかった」
自分が足手まといである自覚はあるのでしょう。出来る事があるならと承知しました。
まずはティストを逃がさないと。
「ねぇ、どうして私を狙うの? あなたも悪魔なの……?」
「お前は後だ」
「えっ」
どういうことでしょう。黒い女性の言う「女神の末裔」とは、自分のような人間のことのはずです。なのに何故、彼女が伸ばした手の先にティストが居るのでしょうか。
「ぼ、僕をどうするの……?」
「まさか……、だとしたら」
エルネアがはっとして少年を見詰めました。
「ティスト。今までに同じ夢を何度も見たり、おかしな声を聞いたりしたことはない?」
「夢?」
「エル、急にどうしたの? 今はそれどころじゃ……」
そこまで言って、言葉尻が消えました。パートナーの懸念に気付き、目を見開きます。
戸惑うティストは、しかし突然質問されたことに対して動揺しているのではなく、もっと別のことで驚きを隠せずにいたのでした。
「夢、見るよ。毎晩、誰かが僕を呼ぶ夢を……。どうして知ってるの?」
「まさか」
「可能性はかなり高いわ」
ティストに、二人ともすぐに返事をすることは出来ませんでした。怪しげな女性に狙われ、「女神の末裔」と呼ばれた彼。エルネアが導き出した結論は一つです。
ミモルはどうしていいか分からず、パートナーの判断を待っています。
「ねぇ、二人とも一体どうしたの? あの人、僕を狙ってきたの……?」
「エル、どうしよう」
黒衣の女性はゆっくりと、だが確実にティストだけを標的に迫ってきています。エルネアは子ども達を後ろに下がらせ、臨戦態勢を取りました。
全身にぴりぴりとした緊張感を漲らせる彼女に少年はどきりとし、「二人は逃げないの?」と問いかけます。
「中を確認もしないで教会のガラスを全部割るなんて、尋常じゃないわ。関係ない人を巻き込んでも構わないということよ」
「それって、じゃあ外へ出たら」
被害は大きくなるばかりだと、その背中は無言で語っていました。
「そいつを差し出せ。大人しく従えば、お前達は見逃してやっても良い」
「今は、でしょう? そんな相手と交渉するほど馬鹿じゃないつもりよ」
耳障りの悪い声に背筋がぞくぞくします。エルネアは相手を鋭く睨みつけました。女性は薄く嗤い、初めて黒衣の彼女の感情らしきものを見た気がしました。




