第五話 みずの意思
「……うぅ」
また、襲ってくる悪夢を見て目を覚ましてしまったミモルは、横になっているのも辛くてベッドから起き出しました。
寝間着のままベランダへ出ると、昼間の喧噪から解き放たれた夕方の風が、体を洗ってくれるような気がします。ふいに、エルネアがその手を取りました。
「どうしたの? えっ、何?」
ぎゅっと引き寄せられて部屋に戻ると、寝間着を脱がされ始めたので、ミモルは目を白黒させました。数少ない服の一つを上からすっぽりと被せられたところで、エルネアがふっと笑います。
「目が覚めた? なら、気分転換しましょう?」
カーテンが勢いよく開け放たれ、エルネアの背中から普段は隠されている翼が現れます。
ふわりと足が宙に浮いたかと思うと、見る間に町がどんどん小さく遠くなり、二人は北に広がる森へと移動しました。
「こんなところへ来て、どうするの?」
もう日も暮れてしまいます。そんな時間に森へ入ることの危険性を、ミモルは良く知っていました。毒を持った植物や、闇を徘徊する獣の前に、人はあまりに非力です。
それなのに、エルネアは笑顔で「大丈夫よ」と微笑みました。
「さ、ここからは少し歩きましょう」
木々を分け入って進むうちに、水の流れる音が聞こえてきます。しかし、近づくにつれ、川にしては違和感があることに気付いたのでした。
「もしかして、滝……?」
ずっと深い森で暮らしていたミモルは、今まで滝というものを実際に見たことはありませんでした。ルアナが趣味で集めた本を読んで、そういうものがあると知っているだけです。
高所から一気に滑り落ちる水の勢いとはどれほどのものなのか、興味がないと言えば嘘になります。一方で、本には雄大な滝の圧倒的な力が描かれていて、少し怖くもありました。
「小規模のものだから大丈夫よ、決してあなたを傷つけたりしないから」
エルネアの笑顔には確信がありました。先に立ち、尖った葉や枝をよけてミモルに道を示しながら、優しく手招きます。
「わ……」
緑の海を抜け、開けた場所に出た途端、ミモルは言葉にならない声をもらしました。そこにあったのは、どうどうと唸りをあげる圧巻な風景などではなく、もっと神秘的な光景です。
滝といっても本当に小さく、大人の背の2倍ほどの低さです。木々の合間を縫って降りてくる月の光を浴び、水飛沫がきらきらと輝いています。
「湧き水が流れて落ちてくるの。川に流れ込む前に、ほら」
川辺に咲く赤い花の群れの向こうには、小さな泉が見えました。
近寄って覗くと、澄んだ青がどこまでも続いて、底のほうで暗い闇と混ざり合っています。泉の大きさからすれば、信じられない深さです。
ピチョン……。
「誰!?」
水音に反応するより早く、エルネアが鋭く言い放ちました。ミモルを後ろに下がらせます。
『そう、いきり立つことはない。危害を加えたりはしない』
小さいが、良く通る声でした。それを聞き、エルネアは安堵したように緊張を解きます。どうやら敵ではみたいです。少女は声を張りました。
「あなたは、誰? どうして」
『泉の底から声がするのか、と聞きたいのか?』
薄暗い中、何かが仄明るく光を発した。水がうねりながら立ち上り、それが静かに収まると、人の姿が現れます。向こうが透けるところを除けば、美しい女性に見えました。
「水の精霊ね」
問いに、その人形は頷いて応えます。驚いて言葉を失っているミモルに、エルネアが説明をしてくれました。
「水の意思が形を取ったものよ。ここみたいに綺麗な水のある場所に宿っているの」
『我が名はウォーティア。我は水に宿る力であり、意思。そなたのような存在に伝え、委ねに来た』
その声はくぐもっていて、けれど澄んだ響きで……双子が同時に喋っているみたいに聞こえます。
「私のような存在……?」
それが何を示すのか、ミモルにもなんとなくは分かります。天使を喚び、地上とは違う世界と繋がった者のことでしょう。
『感じるだろう。選ばれし者となった時から、己の中で何かが変わったことを』
「……?」
彼女は首を傾げて考え込みました。
変わったことは外側の事情ばかりで、自分自身に大きな変化が起きたような感覚には覚えがなかったからです。
そんなミモルを見て、精霊はすっと身を引きました。水面にうっすらと波紋を描きながら、ゆるやかに手招きます。
『案ずることはない。さぁ、我を渡そう。こちらへ』
「え、『こちら』って」
言うまでもなく、そこは泉のまっただ中です。森で育ったミモルは、川で泳いだ経験はあっても、底の見えない深さには足が竦みました。
『案ずるなと言ったろう。思い描け。……立てる』
「えっ」
瞬間、脳裏に何かが閃いた気がしました。そのイメージを追うように自然と足が出ます。そうして右足の先が泉に触れようとした時。
――とんっ。
「っ!?」
あっと思う間もなく、ミモルの体は水中へと頭から投げ出されました。暗くて冷たい痛みが全身を貫き、思考が停止しかけます。
誰かが、背中を押して……。
『そんなこと考えてる場合じゃないわよ』
リーセンの声がミモルを叱咤しました。あの儀式から、もう一人の自分はずっと近くに居るように感じられます。
近くにいるからこそ、お互いの考えが完全に別のものだと認識出来るのです。二人は全く違う存在なのだと。しかし、今は余計なことを考えている場合ではありません。
『何やってるの、早く上がりなさい!』
ミモルは我に返り、もがいてみました。でも、服が水を吸って重い上に、刺すような冷水です。指先の感覚もじょじょに失われてきます。
闇夜のせいで、どこまで上がれば良いのかもはっきりしません。しばらく泳いだものの、確実にごぼごぼと空気が零れていき、それを見ている視界が霞んできました。
『ごめん、だめかも』
ミモルはリーセンに語りかけながら、瞳にも力が入らなくなった我が身の終わりを思います。
『ちょっと!』
足掻くことさえやめた少女の体が、ゆっくりと沈んでいきます。
この泉はどれだけ深いのでしょう。降りても降りても、まだ底へ着くことがありません。
そうして、耳元でわめき散らしていたリーセンの声すら、遠くに聞こえ始めました。ぼんやりとした意識の中で、不思議なことに、なぜか下へ行くほど明るいように思えました。
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