閑話5 往くみち・前編
第一話と第二話をつなぐお話です。
人ごみは嫌い。みんな、誰もあたしを見ない。知らない。
本当にここにいるのに。声を聞いてくれたのは――。
「やっぱり人が多いなぁ」
ミモルは雑踏の中にいました。野菜や魚や肉を売る者、買う者。走り回る子ども達。それら全てが混ざりあい、独特の匂いを辺りに充満させています。
旅先で寄った華やかな街に比べれば些細な数に過ぎません。
それでも普段を森という静かで人気のない場所で過ごす少女にとっては十分に「大勢の人間」と言えました。
「リーセン、何が見たい?」
ミモルは声に出して、もう一人の自分に問いかけます。
もう何人とすれ違ったでしょうか。誰も、一人ぼっちの幼い少女になど目もくれず行き過ぎます。露店の商人達も、呼び込むどころか視線さえ送ってはきません。
『人ごみってきらい』
返事は耳の奥より更に奥、頭に直接響きます。ミモルと同じだけれど、どこか異質な声です。
「とりあえず、服を見に行ってみるね」
少女は苦笑いして提案しました。左右で縛った黒髪を揺らし、通りを歩いて衣服を扱う店を探します。大人びた声音が再び鼓膜を震わせました。
『……そうね』
ミモルは森の傍の村に来ていました。スカートのポケットには、エルネアが持たせてくれた幾らかお金が入った財布もあります。
『今日は一日、リーセンに付き合うからね』
ミモルは笑って家を出ました。そう、全てはもう一人の自分のためです。
『ずっとリーセンに助けられてきたんだもん。恩返ししないとばちが当たっちゃうよ』
姉を助ける旅の間、何度もその声に助けられ、勇気付けられてきました。彼女がいなければ、恐らくこうしてエルネアと故郷に帰ってくることも出来ませんでした。
だから、今日一日はリーセンを自由にしてあげることにしたのです。そうして今に至ります。
「あ、あった。気に入る服があるといいね」
本当なら、服など買う必要はありません。ミモルの服は全てエルネアが作ってくれるからです。しかし、それはあくまで「ミモル」用にデザインされた服でした。
今もゆったりとした上着を腰で軽く縛り、下には柔らかい素材のスカートをはいています。
寒いからと渡されたピンクのマフラーは確かに暖かかでしたが、どこからどう見ても「可愛らしい女の子の服」でした。
正直言って、リーセンの趣味ではありません。たまには好みの服装をしてみたいというのが、彼女の最初の願いでした。
「あら、お嬢ちゃん一人なの?」
雑多に並ぶ服の合間から現れたのは、中年の女性です。ここの店員でしょう。年端もいかない少女を前に、お客かどうか決めかねている様子です。
「お、お金ならちゃんと持ってます」
ミモルが慌てて財布の中身を見せると、安心したらしく途端に笑顔になりましたた。
「そう。ゆっくり見ていってね、どんなのがいいかしら」
言って、子ども服の山の中から出されたのは、今着ているのよりももっとごてごてとフリルの付いたワンピースでした。
ピンクや白といった明るい色合いの、村に住む女の子なら憧れそうな服です。ただ、相手が良くありませんでした。
「……あたし、もっとシンプルなヤツが好みなのよね」
「え?」
急に雰囲気が変わった少女に、店員は呆気に取られました。先ほどまで青かった瞳の奥に、赤い何かが閃きました。
「子ども扱いしないでくれる?」
ワンピースを無造作に掴んで服の山に投げつけると、溢れかかっていた布地が衝撃で決壊します。
「一人だ、なんて言った覚えはないけど?」
苛つきを吐き捨てて店を後にしました。
『私も行くわ』
そう言うエルネアに「大丈夫」と答えたことを悔やんでいるのは、ミモルだけではないようです。彼女は広場に立ち尽くし、ぼんやりとしていました。
『ミモル、ごめん』
「ううん」
かっとなってしまったのはどちらだったのでしょうか。けれども、二人はお互いに抱えたもやもやした感情について深く追求しようとはしませんでした。
「ね、何か食べに行こっか」
『そうね』
露店の一つで真っ赤なリンゴを買い、無雑作にかじりつきます。小気味良い音と共に甘酸っぱい果汁が口いっぱいに広がりました。
ちょうど旬なのでしょう、悩みなど忘れてしまいそうなほど美味しく感じます。
「あのっ」
だから、初めは自分を呼び止めているなどとは気が付きませんでした。二口、三口と頬張りながら、他の食べ物を眺めて歩き続けます。
「まって!!」
強く言われ、今度は自分に向けられているのだと分かりました。ミモルが振り返ると、いくつか年下に見える男の子が、肩で息をしながらこちらを覗き込んでいました。
「えぇと……なに?」
耳あての付いた帽子に濃い色の服。水色の短い髪がさらさらと風に靡いています。知らない子でした。
「さっき、拾ったんだけど。これ、おねえちゃんのでしょう?」
はい、と言って差し出されたものを見た瞬間、はっとして首元を探りました。外は寒いからと、エルネアに巻いてもらったピンクのマフラーです。
「返して!」
どん! という衝撃が体に伝わります。ミモル自身、何が起こったのかすぐには理解出来ませんでした。
咄嗟に瞑った目を開けると、両手にはマフラーをしっかりと握っており、落し物を拾ってくれた少年は地面に尻餅を付いています。
かなり驚いたのでしょう、目と口を開けたまま固まっていました。
「あたし、今何を……」
呟いてから、ミモルは悟りました。もう、自分ではないと。先ほどの店での一件と同じで、口も目も体全て、動かしているのは――。
「ご、ごめん。だいじょうぶ?」
慌ててしゃがみこみ、少年を気遣いました。あちこち見ましたが、どうやら怪我はさせていないようです。
「うん、平気。それ、大事なものなんだね」
大事な、の部分がリフレインします。少年の優しげな微笑に、自然に「うん」と答えていました。
「それじゃ、僕いくね」
踵を返す彼を慌てて呼び止めたことも、自然なことのように思えました。
こんなの、あたしらしくないのに。
「まって」
話がしたいと告げると、彼は「なら、僕の家においでよ」と笑って言いました。
そこは村の一角にある民家でした。右にも左にも同じような造りの建物が並んでおり、同じような服装の人々が出入りしています。
家に人気はなく、彼は手馴れた様子で灯りを付け、暖炉に薪と火を投げ込みました。
「はい。あ、熱いから気をつけて」
「……ありがと」
湯気が立つカップを手渡されます。中身は香りの高いお茶でした。村人にしては優雅な飲み物です。家の構えとは裏腹に、実は裕福なのでしょうか。
飲むと、ほこほこと温まります。そういえば寒かったのだと思い出しました。
「どう?」
「ま、まぁ、良いんじゃない?」
「ホント? 良かった」
屈託なく、にこりと笑います。しばらくの間、そうして体を温めてじっとしていました。お茶の水面に映った自分の顔を眺めて、ふと思います。
どうして話がしたいなどと思ったのだろう。人間なんて嫌いなのに。
それでもずっと黙っているわけにもいかず、気になっていたことを聞いてみることにしました。
「ねぇ、ご両親は? 出かけてるの?」
「死んじゃったんだ、父さんも母さんも。……たぶん」
たぶん? 聞き返そうとする前に、少年は俯いて過去を語り始めます。きっと彼も誰かに聞いて欲しかったのでしょう。
「少し前から変だとは思っていたんだ。僕を見て悲しそうな顔をしたり、急に笑顔でお菓子をくれたり。うちは貧しくて、お金に余裕なんてないはずなのに。それで、雨が降っていたあの日……」
耳には、水の粒が屋根を叩いて窓を流れる音が蘇ってきているようです。
父親はその日、強い口調で息子にクローゼットに入るよう言いました。ほとんど服が入っていない、ただの箱に近い家具です。
「最初は、僕が何か悪い事をして、罰として入れられたんだって思った。でも違うってすぐに解った」
母親の涙で。そして、「ごめんね」という言葉で。
「しばらくして、誰かが家に入ってきた気配がして、何かを言い合っている声が聞こえたけど、何を話しているのかはわからなかった」
必死に感情を押し殺しているのか、口調は固めです。先程までの弱々しくさえあった幼さがなりを潜めていました。
「急に静かになったから外に出てみたんだ。そしたら二人ともいなくなってて。ついさっきまで、いたはずなのに。それからずっと帰ってこないんだ。だから、もう……」
噛みしめるように言う目尻が赤らんでいます。両親がもう帰らないと悟るまでかなりの逡巡があったに違いありません。
やっと受け入れられるようになり、ようやく誰かに聞いて欲しいと願う段階まできたのでしょう。
強い子だと思うのと同時に、リーセンは別の事も同時に考えていました。この世にいる禍々しい存在のことです。
「……取り引き、かもね」
ぽつりと漏らすその声は、自分でさえ聞き逃しそうなほどの小さな囁きでした。
「おねえちゃん?」
「それから、あなたはどうやって生活してるの? その、ずっと……帰ってこないんでしょ?」
選択肢が見つからず、結局は直球の言葉を投げてしまいます。彼は一瞬怯んだ表情を見せましたが、すぐに頷きました。
「それがね、ふしぎなんだ。うち……お金なんてないって思ってたのに。二人がいなくなってから手がかりがないか家の中を調べたら、棚からたくさん、たくさんお金が出てきたんだ。びっくりするくらい」
お金の話をしてくれるのは、それだけ信用してくれたということなのでしょう。ならば、こちらも相応の信頼で応えなければなりません。
「……それは、両親があなたのために命がけで残してくれたものよ。大事に使いなさい」
彼は向かい合う相手に怪訝そうな視線を送り、がたがたと立ち上がります。
「なんでそんなこと言えるの? 何か知ってるの? だったら教えて――」




